大鳳とは、
ここでは、2について説明する。
大鳳はそれまでの日本空母とは一線を画すハイスペックとその持ち味を活かせないままの不運な最期から妄想や架空戦記で後世の人間からも愛される空母である。
大鳳はマル4計画の中で予算1億117万5000円という巨額を投じて建造された。
当初は大鳳型を2隻建造しようと思ったのだが予算不足で1隻の建造になった。
帝國海軍会心の出来である翔鶴型をベースとしており、資料によっては「改翔鶴型」という記述が散見される。計画では九六式艦戦18機+予備6機、九九式艦爆18機+予備16機、九七式艦攻27機+予備3機を搭載する予定で、一時は彩雲や流星といった新鋭機も搭載する予定もあったが決戦には間に合わず叶わなかった。初陣となったマリアナ沖海戦では零戦や九九艦爆、彗星、天山を載せて戦った。
大鳳は重装甲を施した空母である事から他空母よりも長く戦い抜くと想定され、航空燃料1000トン、800キロ爆弾90発、250キロ爆弾468発、60キロ爆弾468発、30キロ爆弾144発、九一式改六型魚雷45本を搭載。味方艦へ供給する分も搭載されており、継戦能力も底上げされている。この搭載量を上回ったのは信濃のみであり、どれだけ積み込まれていたかを如実に示している。
排水量2万9300トン、乗組員2038名、航空燃料990トン搭載。
着艦する艦載機を止める制動索は横須賀で開発、死蔵されていた三式制動装置が採用されている。呉式の制動索は旧式化しており、新型機に対応できないという判断によるものだった。
マリアナ沖海戦に参加する直前、2日がかりでゴム系の塗料を使って船体を迷彩に染めたとする資料があるが真偽は不明。
大鳳は飛行甲板に装甲を施し、500キロ爆弾にも耐えられるようにした。また、浸水に強くするようにエンクローズド・バウを採用。その結果艦首部と甲板が一体化した。また、発艦の際の気流を妨げないよう、また浸水時に煙突から浸水せぬよう傾斜煙突が採用された。
しかしその一方で装甲を施した為、搭載機数が少なくなるなどの欠点があったがこの大鳳はそれまでの空母とは違い、艦載機の中継基地としての役割を担っていた。これは通常空母を母艦とし、大鳳のような装甲空母を前線に展開し、艦載機の中継基地とする。その為、敵の攻撃にさらされてもある程度の攻撃に耐えられる装甲が施されたのである。
といわれていたが装甲空母を中継基地とする計画は最終的には棄てられており、大鳳はこれまでの空母の正統進化として建造された。(つまり、今後の空母は全て装甲空母にするつもりだった。)
搭載機数も計画値であり、実際には翔鶴型空母と同じくらい載せることができた。
こうして大鳳は、大日本帝国海軍期待の空母として誕生したのである!
1941年7月10日、神戸川崎造船所にて起工。1943年4月7日に進水、進水式には高松宮宣仁親王が臨席する。
8月15日、艤装委員長に澄川道男大佐が就任。12月23日には後の艦長となる菊地朝三大佐が艤装委員長に就任する。
1944年2月上旬、神戸港から呉へと回航され入渠。竣工直前に整備長が点検したところ、装甲化エレベーターが重すぎてトラブルが続発したため補強を実施。軽質油タンクから格納庫へガソリンを送るパイプは資源不足のため、銅ではなく鉄が用いられていたが、高圧水でテストしてみると数か所の漏れが確認され、修理が必要と判定された。しかし修理をしては引き渡しが遅れるという事で、パイプ内に弁を設けて延焼を防ぐ応急措置のみ実施。
戦況の逼迫から完成時期を繰り上げ、3月7日に竣工した。呉鎮守府所属となり、第3艦隊第1機動部隊に編入された。艦長には菊池朝三大佐が着任。瀬戸内海西部で若干の訓練をし、同月28日に大鳳は駆逐艦初月、若月の護衛を伴って出撃、南方へ向かう。
4月4日、シンガポールに入港。配電盤が出火するトラブルが起こるも解決し、2日後にリンガ泊地へ進出する。4月15日、小沢司令官が乗艦し、大鳳は栄えある第1機動部隊の旗艦となった。
5月14日、内地から出撃してきた空母群と合流するためタウイタウイ泊地へ移動する。しかしそこには数多くの米潜水艦が遊弋しており、満足な訓練が行えなかった。対潜掃討のため派遣された駆逐艦も5隻が沈められ、訓練どころではなかった。
そして「あ号作戦」に備え、6月13日にギマラス泊地へ移動。燃料の補給を受ける。同日、フィリピン沖で航空隊の着艦訓練を行う。しかし新鋭機「天山」が着艦に失敗して、九九式艦上爆撃機に激突。火災が発生し、零戦2機と九九艦爆2機と天山1機が焼失するという大事故が起きる。この様子は周囲の艦からも目撃され、一様に不安を抱いたという。
ミッドウェー海戦で正規空母4隻(赤城・加賀・蒼龍・飛龍)を失った帝国海軍は、広がりすぎた戦線を縮小すべく、『絶対国防圏』を制定した。その上で重要なのがサイパン島である。しかしサイパン島にもアメリカ機動部隊が迫ってきた為、一大決戦を行うべく、航空母艦9隻・戦艦5隻を中心とした艦隊がマリアナへ移動した。
その旗艦となったのが『大鳳』である。
6月19日朝、日米の雌雄を決する大海戦、マリアナ沖海戦が生起。かくして小沢中将率いる第一機動艦隊の旗艦としてマリアナ沖にて真珠湾攻撃以来の『Z旗』を掲げた大鳳、他の空母からアウトレンジ戦法(敵の届かない所から航続距離が長い航空機で一方的に相手をボコボコにする)を行うため攻撃隊が発艦していった。
しかしこの時、空母機動部隊に忍び寄る影がいた。アメリカ海軍潜水艦『アルバコア』は護衛の駆逐艦すら気づかないほど隠密に近づき、魚雷を6発発射した。午前8時10分、魚雷が一本命中した。その衝撃で前部昇降機が停止してしまったが航海に影響は無く、損害は軽微であった。これを見て将兵は口々に「不沈艦は違う」と言ったという。一本だけ命中したぐらいでは普通沈まないものだが、ここから不幸の連鎖が始まる。
被弾の衝撃で航空燃料用タンクが破損、気化したガソリンが艦内に漏れ始めたのだ。ただちに換気作業が始められたが、その甲斐もむなしく充満していく。14時23分、気化したガソリンに引火し大爆発が発生。引火の原因となったものは不明だが、一説によると修復作業中に生じた火種や、艦載機着艦の際に生じた火花(当初は帰還した攻撃隊に対し着艦を禁じていたが、燃料切れで次々に海面へと不時着する航空機を見て耐えかねた小沢司令が着艦の許可を出した)だと言われている。
艦内のあちこちで火災が発生し、その火は遂に魚雷や爆弾、艦載機に燃え移った。最早手の施しようが無く、大鳳は左側へと傾斜。そして16時28分、宵闇に包まれる中で大鳳は沈没した。装甲を施した結果が逆に爆発のエネルギーを艦内に閉じ込めてしまった結果である。約1500名の人員が犠牲となった。生存者は駆逐艦「磯風」によって救出された。
結局、マリアナ沖海戦も敗戦に終わり、大日本帝国は敗戦への道を邁進していくこととなる・・・。
余談だか艦長の菊池朝三大佐は、大鳳が沈没するにあたって近藤敏直少尉からタバコをありったけ貰い、ハンモックで体を縛り付けて艦と運命を共にしようとした。しかし爆発の衝撃で海に投げ出され、意識不明の状態で救助されたんだとか。
大鳳の残骸は世界一深いとされるマリアナ海溝に沈んでおり、調査や沈没地点の特定等は全く進んでいない。
掲示板
76 ななしのよっしん
2019/11/30(土) 12:01:05 ID: UGTWuliuka
大鳳の沈没を防げたところで肝心の海戦で勝てなかったら意味がないからな。
上でも出てたけど本来母艦能力を放棄してダメコンを最優先すべき場面だけど翔鶴を失って正規空母が2隻になった当時の日本軍にそんな選択ができるわけがない
戦力的に無理な相手と戦うことがそういうところにまでツケが回っただけの話
77 ななしのよっしん
2021/11/18(木) 19:46:37 ID: MPNz/gwVr/
反面教師として教科書にのる程工業製品としては大失敗。この船の知見ってのちに活かされたんだろうか?同じく教科書もののリバティー船は大いに造船の溶接の向上に役立ったけれども。
78 ななしのよっしん
2021/12/13(月) 22:53:52 ID: UGTWuliuka
>>77
工業製品としてじゃなく状況と運用の問題なんだけど
急上昇ワード改
最終更新:2024/12/26(木) 19:00
最終更新:2024/12/26(木) 19:00
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