平維盛 単語

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タイラノコレモリ

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平維盛1157? or 1158? or 1159? or 1160?1184?)とは、平安時代後期の武将である。

概要

平重盛長男で、平清盛の孫。平重盛亡き後に傍流と化しつつあった小松を任され、失点を多く重ねつつもある程度は答えていたのだが、最後は杳として知れない。

なお、年齢については『玉葉』の承安2年(1172年)2月12日条に14歳とあるので、『職事補任』等と合わせておそらく治元年(1159年)生まれが蓋然性が高いのだが、『平家物語』、『尊卑分脈』等で保元3年(1158年)ともされ、さらに平資盛と1歳年長なのか、2歳年長なのか、そもそも平資盛が生まれた年も確定できていないこともあり、かなり諸本によって開きがある。

平重盛と官女の間に生まれ、養和元年(1181年)にはくも従三位にすら上り詰めたのだが、既に嫡流の座は平宗盛系に移っており、宗盛の息子清宗の後ろに位置付けられつつあった。

一方、彼といえば治承4年(1180年)の富士の戦いで戦わずして潰走した総大将として極めて有名である。のだが、そもそも前線にいた現地担当者たちがほぼ壊滅的状態になり、遠征軍としてはかり武者中心のかなり練度の低い状態でもあった。撤退を決意し後退しようとしたところを甲斐源氏に急襲されたとも言われているため、実はよくわからないことも多い。

なお、水鳥の羽音については『山塊記』にあったので実態はともかく多分あったようで、『玉葉』の治承4年11月5日条からも平清盛から盛大に叱責されたことがわかっている。

さらに、寿永2年(1183年)に源義仲に潰走し、平家の都落ちになってしまう。小松は池同様平家からの離脱も論んだのだが失敗し、戦犯として立場が危うくなった平維盛は単身出奔。『平家物語』では27歳で自害したとされ、『盛衰記』では源頼朝を頼る途中で病死した、とも言われているため、地味死因ははっきりしたことは言えない。

このため、後世彼の子孫を称するが複数存在したりする。

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