源頼朝 単語

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源頼朝とは、征夷大将軍として鎌倉幕府を設立し、鎌倉時代の始祖となった人物である。

概要

平治の乱

頼朝が世に出るのは13歳の時であった。

平安時代末期、時の権力者である信西(しんぜい)に反発した藤原信頼が源氏の棟梁である源義朝と結託しクーデターを起こした。後に平治の乱と呼ばれるこの戦いに、13歳である頼朝は義朝について参戦していた。

当初は敵方の平清盛不在の隙をついたことと、玉である上皇天皇を手中に収めていた事もあって信頼、義朝側有利であった。しかし信西の首を取るところまでは成功したが、清盛の策略によって上皇天皇を奪い返されてしまい、結局、信頼、義朝側は敗北を喫する。

信頼は六条河原斬首義朝は尾まで逃げるもそこで討たれた。13歳の頼朝は最初極刑を受ける予定であったが、清盛の義の池尼の助命によって命だけは助けられ、伊豆に流されることとなった。

尼の折した息子に頼朝が似ていたというのがその理由とされる。結果的にはこれが平氏の命運を決める事にはなったが、頼朝がここで斬首されていた場合は、後の反平家軍は他の源氏を担ぎ上げて結局挙兵は起きていたので、ここでの清盛の助命は致命的な判断ミスとは必ずしも言えない。

挙兵

伊豆での頼朝は平家北条時政の監視を受けながら静々と育っていた。その地で頼朝は北条時政、政子と縁を結ぼうとするも、時政は流人である頼朝にはにやれないと政子を伊豆平家である山木兼隆がせようとする。しかし結局、頼朝と政子は婚姻を結び、頼朝は北条という大きな後ろを得る。

そんなこんなをしているうちに京都で政変が発生。後白河上皇の第二皇子である以仁王(もちひとおう)が発した平家討伐の旨(りょうじ、皇太子の命書)を、頼朝の叔父にあたる源行家が持ってきたことによって、頼朝は挙兵するか否かの選択を迫られた。以仁王の挙兵自体はすぐに鎮圧されたものの、頼朝は高まる気運に推され挙兵を決意する。緒戦の相手は、かつて政子がぐ予定であった伊豆代(知事の代理人)山木兼隆である。1180年、頼朝はわずか300騎で挙兵し、山木兼隆を打ち破った。その後、頼朝は土肥相模)に進軍し、土である三浦一族と合流する予定であったが、酒匂の増によりその願いはわなかった。

その後頼朝は、東から来た頼朝討伐軍の大庭景親(おおばかげちか)と西からきた伊東祐親に挟み撃ちにされてしまう。味方300に対して敵方3000という数の差もあり頼朝は大敗北にまみれる。これを石橋山の戦という。

この時、敗走中の頼朝は敵方の梶原景時に見つかるも見逃されるという逸話が語り継がれている。この梶原景時は後に頼朝の側近として鎌倉幕府の成立の柱を担った。頼朝の器量を見抜いた梶原景時の先見性を示すエピソードであると共に、それだけ当時の平家から武士の心が離れていたと見る事もできる。頼朝は六箱根山脈を逃げ回った挙げ句にで安房(現在千葉県南部)へと渡った。

再起

石橋山で大敗した頼朝であったが、それでも平家に不満を持つ武士達の旗印としてのは依然強く、下総千葉茨城らへん)の族、千葉常胤(つねたね)、上総(千葉中部)の上総広常などの反平家武士たちが続々と頼朝の下に集まった。この時、頼朝は広常が遅参したことを理由に追い返そうとした。2万の軍勢を持つ広常を追い返すことなど考えられないと部下は諌めたが、当の広常は頼朝の大器に感し、謝罪の上で参を許されたとされる。これをきっかけに態度を保留していた多くの周辺武士が頼朝に付く事を決め、安房、上総、下総全に支配下に入れた。

頼朝は拠点三方山に囲まれ防衛に優れ、南に相模湾があり物資輸送に優れた鎌倉に置いた。伊豆の挙兵からわずか2ヶ後の事であった。以後鎌倉は頼朝によって整備が進められた。この時、頼朝の下には多くの武士がついていたが、これは後の信長秀吉軍団のようにトップの独裁体制ではなく、関東武士集合体であり頼朝はあくまでもその旗に過ぎなかった。

いよいよ頼朝の存在の無視できなくなった中央政府清盛は、孫の維盛(これもり)を頼朝追討軍の総大将にして東へと派遣した。しかし長い生活公家化し武士の習いを忘れた平家軍の武威は低く、更に歴史的大飢饉が西で発生し京都で餓死者が続出したこと。加えて疫病も広まったことによって平家軍の士気は地に落ちていた。頼朝方はといえば、平家とは対照的に豊作に恵まれ京都からの独立に対する飢餓感から士気が高かった。その差は両者が突する富士の戦いで顕著に露呈する。維盛軍は、これに奇襲をかけようと近づいていた武田信義武田信玄の先祖)に驚いた水鳥の羽音を源氏の襲撃と勘違いし、戦わずして敗走を始めた。

頼朝は富士の戦いに乗じて京都に進行……はせず、鎌倉での地固めに専念した。鎌倉で頼朝は味方した武士の論功に応じて土地の分配を行った。これによって武士たちは所領支配を認められ貴族の管理下から解放される。中央からの独立武士の長年のであり、頼朝が彼を持ち上げた武士から最もめられていたことであった。所領を認める代わりに、頼朝に味方する。この関係を御恩と奉と呼ぶ。

この頃には幼い頃に別れ寺に預けられた、の九郎義経とも再会している。義経は当時、平家にも匹敵する大勢力である奥州藤原氏護を受けており、その力を恐れた頼朝の警心を高めたとされる。また1181年には平家の大柱である清盛も逝去し、京都に動揺を起こした。

木曾義仲

一方で頼朝と同時期に挙兵した木曾義仲(頼朝のいとこ)が利伽くりからとうげ)の戦いで古代中国の戦術を模倣した火の策で平家の大軍を破った。これを恐れた頼朝は義仲に兵を向けるも討てず、義仲の嫡男の義高か、当時頼朝軍を出奔し義仲の下へ身を寄せていた行のどちらかを引き渡すように要した。義仲は酷く頭を悩ませた後に、義高を頼朝に引き渡して頼朝と和した。

源氏同士での諍いは年前から続く源氏のお芸である。義仲の父親である義賢も、頼朝のである義朝と争い殺されているし、ご存知のよう頼朝はこれ以降義仲も義経も殺している。これは身内びいきが過ぎて反感を買った平家とは対照的であろう。

木曾義仲の勢いは止まらず北陸道を駆け抜け、怒濤の勢いで京都に進行した。これに対し、清盛死後に跡を継いだ内大臣の平宗盛はあえて対抗せず、幼い安徳天皇と共に西へと脱出した。これが平家の都落ちである。一見都落ちというと情けない敗走劇のように見えるが、西平家の勢力基盤であり飢餓に喘ぐに留まるよりも兵を整えるのに向いていた。更に西ならば戦が中心になり、騎戦を得意とする源氏の侵攻を阻むことも出来る。平家は元々海賊退治で名を挙げたであり戦はお手の物であった。そして何より平家の手には天皇天皇の正当性を示す三種の神器があり、これに逆らうことは朝敵の汚名を被せられしまう。これらの理由により平家の西転進は優れた選択であったと言われる。

都に入った木曾義仲はすぐに兵糧の問題に直面した。途中質を問わず兵の数を増やす事を重視していた義仲軍は食を失った事によって統制を失いの都を荒らし回った。義仲自身も、13歳まで都に住んでいた頼朝と違って木曽というド田舎で育ったので、でのマナーをまるで知らず公家からは木曽の山バカにされる始末であった。当然人心は義仲から去っていった。義仲に対して後白河上皇征夷大将軍の位を授け、将軍と名乗らせた。武士ではじめて征夷大将軍を名乗ったのは実は頼朝ではなく義仲であったのだ。しかし、これは後に頼朝から天狗と呼ばれる程の政治力を示した後白河上皇卑劣であった。

征夷大将軍になったというと、家康思い出して時代の勝者になったと思いがちであるが、これは大きな間違いである。征夷大将軍と言っても所詮は朝廷の位であり、実力もなく官位を貰ってしまえば朝廷に頭が上がらなくなってしまう。官位授与は軍事力を持たない朝廷の切り札の一つである。武士に対して高い官位を送って自らの支配下に置こうとすることを位打ちという。これを恐れて頼朝は、ご人に自分の許可なく官位を貰う事を禁じたのであるが、義経はこの命無視したため頼朝に睨まれることとなったのである。

話を京都に戻す。義仲にほとほと呆れ果てた後白河法皇は頼朝を上京させ義朝を討たせようとした。一方の義仲も勢いを取り戻そうと平氏打倒のために西に軍を進めるが、減った兵力、慣れない戦、そして何より兵糧不足によって大敗する(水島の戦い)。陸では無敵だった義仲もの上では力であったのだ。に敗走した義仲は後白河法皇が頼朝と手を結んだことを知り激怒する。法皇閉し、朝廷全に武力制圧してしまった。しかし、既にには義経と、その監視役の和田義盛梶原景時が迫っており、宇治の戦いにて義仲はあえない最期を遂げた。

源義経

その後、義経の大活躍により、一のの戦いでの鵯越え、屋の戦い、そして壇ノでとうとう平家を滅亡に至らせた。しかし、義経は先述の通り頼朝の言い付けを破って勝手に官位を受けたこと、壇ノで最優先事項であった三種の神器の奪回に失敗していたことによって頼朝の信頼を著しく損なっていた。上にも書いたが源氏の身内争いはお芸である。もし後白河法皇義経をたてて頼朝に対抗したら、今までの苦労がの泡である。義経平家と戦っている間、所(御家人を統制する行政官)、公文所(政務担当の役所)、問注所(訴訟を扱った役所)などの行政システムを設置するなど着々と武士の政権設立の為に働いていた頼朝にとって義経は悩みの種であった。

当の義経は捕虜の平宗盛を引き連れて意気揚々と鎌倉へ凱旋しようとしていた。しかし頼朝は義経鎌倉入りを認めなかった。ここに至って後白河法皇義経に、頼朝追討の院宣を下すも頼朝が京都北条時政を送った事によってすぐにこれを取り消した。頼朝は義経追討を名として全に守護(ごとに設置された軍事警察る役)と地頭(全の荘園を管理し徴税を担う役)を設置。ここで武政権としての鎌倉幕府の基礎が完成した。

その後、義経奥州藤原氏の下にいることが分かる。奥州藤原氏金山を元に平家に勝るとも劣らない栄を誇った大勢力である。これには頼朝も闊に手は出せない。しかし3代藤原秀衝(ひでひら)が逝去した後に跡をついだ泰衡(やすひら)は頼朝の脅威に怯え、義経に向かって兵をだした。ここで義経は最期を迎えるが、頼朝はそれにも構わず州を責め立て奥州藤原氏を滅ぼした。頼朝に対抗しうる最後の勢力を排除したことで後顧の憂いがなくなり、とうとう頼朝自身が上をする。

鎌倉幕府

1190年、上した頼朝は征夷大将軍希望するも後白河法皇からは権大納言・右近衛大将を受ける。2年後に両官位を辞して鎌倉への帰路についた。

1192年、後白河法皇が崩御したことをきっかけに頼朝はついに征夷大将軍となり、名実共に鎌倉幕府を完成させた。この年が学校で習う「いい1192)作ろう鎌倉幕府」である。しかし、ここまで読んだ人なら分かるであろうが、この征夷大将軍の官位は鎌倉幕府の実態とは余り関係がなく、最近では1192年を鎌倉幕府の成立の年と必ずしも見なさないようになっている。また当時は「幕府」という言葉はなく、単に「関東」や「鎌倉」、あるいは「武」と呼ばれていた。

1199年、頼朝は相模川で行われた供養の帰りに落。この事故がもとで亡くなった。享年53歳。

頼朝が築いた武士の支配は執権北条義時承久の乱勝利することよって完成し、700年の後の1867年、つまり大政奉還まで(建武の新政を除いて)続く事になる。

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