長門探題とは、鎌倉幕府によって設立された地方機関…ではなく元寇以降長門・周防領守護に特殊な権限が与えられたことによる学術用語である。
元寇前後、二月騒動で不穏分子を排除した鎌倉幕府は、戦時体制に移行するために建治元年(1275年)北条氏を中心に守護をはじめとした地方統治のあり方を再構成する必要が出てきた。守護移行の記録自体は半分しか残存してはいないものの、これを持って全国のほとんどが北条氏による支配が行われるようになったのである。
その一つが長門・周防の守護職であり、それまで守護を担当していた二階堂氏らから北条時宗の弟である北条宗頼に交代されたのである。彼は六波羅探題より西に向かった最初の北条氏一族であった。そして彼が弘安二年(1279年)に亡くなった後も、代々北条氏の守護、もしくはその息子や弟である名代が長門・周防守護を務め、最後に長らく鎮西探題の一番引付頭人であった金沢時直の代に滅亡を迎えるのである。
なお長門探題と便宜的に呼称されているが、六波羅探題や鎮西探題と違い特にそのような機関があったわけではなく、上にもあるようにあくまでも特殊な権限を与えられた守護に過ぎない
※後日加筆予定
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最終更新:2024/12/26(木) 12:00
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