元寇とは、13世紀のモンゴル帝国(元王朝)・高麗による日本への侵攻を指す言葉である。
日本には「文永の役」「弘安の役」の2回攻めてきており、この2つを指して「元寇」と呼んでいる。この出来事は、江戸時代中期より前は「蒙古襲来(もうこしゅうらい)」などと呼ばれていたが、徳川光圀の「大日本史」で「元寇」が使われ始めてからは「元寇」の呼び名が定着していった。近年では再び「蒙古襲来」と呼ぶ動きもみられる。
文永の役・弘安の役の2回とも、暴風雨(※)による影響で元軍は被害を受けたといわれる。しかし、文永の役では暴風雨があったかどうか自体に諸説があり、仮に暴風があったとしても、そのタイミングはモンゴル帝国側の軍が撤退する最中とみられている。また、弘安の役では暴風雨が来るまでの間、2ヶ月もの間日本で戦闘が続いている。
そのため、「暴風雨で元軍は被害を受けた」というのは(少なくとも弘安の役では)事実と思われるが、「そのおかげで日本は勝てた」というのは正確な表現ではなく、それ以外の日本側とモンゴル帝国側の要因も強く影響しているとみられている(参考)。
元寇に関する史料が少ないため、上記の暴風雨以外にも元寇に関する様々な事項について、書籍の間で記述や解釈の違いが起こっている。
※なお、この暴風雨を「神風」と呼ぶことがある。「神風」という言葉自体の初出は日本書紀であり、元寇ではない。しかし、現在の日本では「神風」という言葉からは多くの場合「元寇の神風」か「神風特攻隊」がイメージされることが多いと思われる。
1259年に高麗(朝鮮半島)がモンゴル帝国に征服され、1266年から1272年にかけて国書を携えた使節が6回日本を訪れる。最初は「(従わなかったときの武力侵攻の可能性を示しながら)親睦を深めたい」という文面の内容だったが、後に服属を直接的に要求する内容へと変わっていった。
しかし、交渉はうまくいかなかった。詳しく述べると、当時の外交担当である朝廷が返事を7ヶ月もの間渋ったり(第2回使節)、返事を出そうとした朝廷が鎌倉幕府の反対を受け結局返事しなかったり(第4回使節)(※)、そもそも九州にあった政庁の太宰府(現:福岡県太宰府市)を訪れる前に高麗や対馬で使節が引き返したり(第1・3回使節)した。この様子をみたフビライ(クビライ)は、日本への侵攻を決定する。
※「当時の執権の北条時宗がモンゴル帝国の要求を拒否した」とよく言われるが、時宗が代表して拒否の書状を送ったというわけではなく、朝廷・幕府側ともに黙殺する形となった。
その間に、鎌倉幕府側もモンゴル帝国への対策を進めた。これは、南宋(中国南部)から渡来した仏僧から、モンゴル帝国の軍事力や暴虐的な統治に関する訴えがあったことによるものである。代表的なものとして、1272年の「異国警固番役」の設置が挙げられる。九州の御家人に対し、元軍の侵攻に備えて沿岸部を警備させた。
1274年10月5日、元・高麗軍が対馬・壱岐島を侵略し、さらに九州の松浦(現在の長崎県北部)を攻撃した。この情報が伝わり、九州の御家人が太宰府に集結した。
10月20日には博多湾に元・高麗軍が上陸し、赤坂(現:福岡市中央区赤坂)が占領される。しかし、菊池武房が元軍を破り、さらに竹崎季長らの御家人の攻撃により、鳥飼潟(福岡市鳥飼)から百道原(福岡市早良区百道)、姪浜へと元・高麗軍が移動し、最後には海上へと撤退した。
文永の役において日本側と元・高麗側のどちらが優勢であったかには様々な説がある。教科書等では「最初に名乗りを上げ、一騎討ちをする戦法が中心の日本の武士は元寇で苦戦した」とする記述が多くみられた。しかし、このもととなった内容が載っている史料「八幡愚童訓」の記述には異論も上がっており、他の元寇の史料と比較すると矛盾する点も多いとされる。例えば、竹崎季長の蒙古襲来絵詞では、一騎討ちではなく集団で襲いかかる御家人の絵も描かれている。
また、元軍によって火薬が入った「てつはう」も使用され、御家人を混乱させたともされる。しかし、「てつはう」は炸裂弾と見られているものの、戦場でどの程度の効果があったかはまだ不明な点が多い。
撤退する最中に元・高麗軍は暴風雨にあったとされる。この規模についても諸説あり、「低気圧によるものではないか」とする説や「そもそも暴風雨は吹いていない」とする説もある。
撤退の途中21日頃,沖合いの玄界灘で,低気圧による風波のため,構造の劣悪な軍船が若干遭難した.このために,ある程度の溺死者を出した
文永の役における元軍の撤退は、元軍首脳と高麗軍首脳の作戦上の対立と幕府軍の果敢な抵抗によるもので、暴風雨はなかったというのが今日の日本の学界では通説であると思われ、…
包黎明(2010)「中学校歴史教科書における「元寇」記述についての比較研究」
広島大学大学院教育学研究科紀要, 59, p.97-103.
文永の役の後、鎌倉幕府側は異国警固番役を強化し、博多湾周辺に土塁や石塁などの元寇防塁(石築地)を建造し、長門国(山口県北西部)に長門探題を設置した。使節に対しても鎌倉幕府は強硬策に転じ、モンゴルから来た2回の使節を斬首に処した。
元側も南宋を滅ぼし、造船を進めるなど日本侵攻への準備を進めた。
中国からの渡来僧である無学祖元は、弘安の役を1ヶ月ほど前に察知し、北条時宗に対し「驀直去(まっしぐらに行け)」と伝えたと言われる。
1281年に弘安の役が起こった。モンゴル帝国側では、前回の文永の役の3倍以上の軍が動員された。まず、元・高麗を中心とする軍(東路軍)が5月下旬に対馬・壱岐・長門に襲来し、のちに再び博多湾に現れた。しかし、博多湾にはすでに防塁が築かれており、防塁の前に立って戦う御家人もおり(河野通有)、侵攻は容易ではなかった。
そこで元・高麗軍は博多湾からの上陸を断念し、付近の志賀島(福岡市東区志賀島)に上陸した。しかし、志賀島は「海の中道」と呼ばれる砂州で九州側とつながっており、海路・陸路両方から攻められてしまった。6月初旬に東路軍は志賀島を放棄し、壱岐島へと戻った。
壱岐島で東路軍と江南軍(旧・南宋の勢力を中心とした軍)が6月15日に合流する予定だったが、その日を過ぎても江南軍は現れなかった。江南軍は総司令官の交代などが原因で出航が遅れ、さらに当初の予定とは異なり平戸島を目指していた。6月下旬に江南軍の主力部隊が平戸島・鷹島(長崎県松浦市鷹島町)に到着した。
6月29日には少弐資能などが壱岐島を総攻撃にかかり、東路軍は壱岐島を放棄して平戸島に移り、両軍が合流した。7月中旬には、平戸島からさらに太宰府に近い鷹島へと主力部隊を移動した。
このとき東路軍・江南軍は船を鷹島沖に停泊させており、そこを7月27日に日本軍が襲撃している(鷹島沖海戦)。さらに、7月30日に暴風雨が襲来し、東路軍・江南軍ともに被害を受けた。この暴風雨については、他の史料との関連や、現地に船の残骸が沈んでいること、気象学的にも暴風雨が襲来していてもおかしくはない時期であることから、実際に起こっていたものと考えられている。
その後、軍議で撤退が決まり、諸将が日本を去った。このとき、鷹島に東路軍・江南軍の兵士が残されたとされている。その兵士たちは、2~3万人の捕虜を出して掃討されたといわれる(鷹島掃討戦)。
モンゴル帝国側では3度目の日本侵攻も計画されていたが、高麗・大越(ベトナム北部)での内乱の発生や、チャンパー王国(ベトナム南部)への侵攻の失敗、フビライの死などが重なり、実施はされなかった。
一方、勝利した日本側だったが、自衛戦争だったため、鎌倉幕府は活躍した御家人に恩賞をすぐに与えることができなかった。さらに、異国警固番役の負担も当面続いたため、御家人の不満が高まったといわれる。また、3回目以降の元寇への備えのためなどもあって、鎌倉幕府内で得宗に権力が集中し、「得宗専制政治」が形成された。
そのため、「元寇は鎌倉幕府滅亡の遠因にもなった」とも言われることがある。ただし、そもそも元寇に参加していない御家人もいたり、得宗専制政治の形成には他の要因もあったりするため、鎌倉幕府の滅亡は「貨幣経済の浸透」など他の要因が大きいとする見方もある。
あまりにも実際の歴史からかけ離れているものでも掲載する。
掲示板
137 ななしのよっしん
2024/05/20(月) 01:43:54 ID: gnqB7jJe3U
時代的に呪術の類いも本当に力があると思われてたもんね
実際に戦った武士団だけでなく呪術祈祷で加勢した寺社仏閣勢も褒美合戦に参戦してカオス
台風も来て信ぴょう性ありありだしw
138 sage
2024/10/01(火) 12:42:45 ID: CfNHseDjqP
名乗り上げって、どちらかというと味方に対してのものなんかないか?と
「これから武功を挙げるから、名前覚えておいてあとで証人になってね」的なw
139 ななしのよっしん
2024/10/19(土) 17:09:20 ID: 0KxPeARHgw
なぜ中国人は元寇を知らない? 公教育が避ける「中華民族による侵略の歴史」
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最終更新:2024/12/26(木) 01:00
最終更新:2024/12/26(木) 01:00
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