阿部忠秋(1602~1675)とは、江戸時代前期に活躍した大名である。
三河譜代の家に生まれ、人質時代から徳川家康に近侍した阿部正勝の孫。彼の父・阿部忠吉も大番頭として五千石を知行していた。
阿部忠秋は慶長15年(1610年)に徳川家光の小姓となる。次第に家光の信任を得て取り立てられ、元和9年(1623年)に家光が将軍になると小姓組番頭となり、上洛の際従五位下・豊後守に任じられた。松平信綱よりも年少であったが家格が高かった阿部忠秋であったが、徳川家光政権下で老中として肩を並べていく。
しかし知恵伊豆な松平信綱に比べると、篤実で一徹だった阿部忠秋は、何かと対照的な逸話を残しており、家光没後の慶安事件で酒井忠勝が厳罰を求めると、阿部忠秋が浪人に寛大な措置とるよう提言し、こちらが受けいられている。
松平信綱がその死の際遺児を頼んだほどの阿部忠秋であったが、晩年は幕閣から疎んじられ、隠居を命じられるとついに一度も登城しなかった。その最期は徳川家光の元へ魂が行くため、北向きに寝、北に向かって合掌しつつ往生を遂げる、というものであったようだ。
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最終更新:2025/12/05(金) 23:00
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