松平信綱(1596~1662)とは、江戸時代前期に活躍した大名である。
江戸時代前期の幕閣ではぎりぎり徳川家康に面識がある世代。いわゆる大河内松平氏を盛り立てた人物。知恵伊豆。
三河の土豪である大河内久綱の息子として生まれるが、6歳の頃に叔父で長沢松平氏に養子入りしていた松平正綱の養子となった。この松平正綱は徳川家康が駿府に隠居してからも彼に近侍した人物であり、徳川家光の側近としても活動。この縁で正綱は家康に、松平信綱を徳川家光の近臣として推挙することとなった。
徳川家光が幼いころ、転がっていた火縄銃から家光を助け、青山忠俊に褒められたというエピソードや、家臣の給仕よりも家光の御用を優先し、それをとがめた松平正綱を逆に感心させたエピソード等、彼をほめたたえた逸話には枚挙が暇がない。
かくして徳川家光が元和9年(1623年)に将軍となると、従五位下・伊豆守かつ小姓組版頭に任じられる。さらに寛永年間に入ると出世を重ねて六人衆の一人や老中に列する一方、寛永11年(1634年)には忍城に3万石を与えれられる。
これには寛永9年(1632年)の徳川秀忠の死も影響しており、依然土井利勝や酒井忠勝といった古参幕閣に配慮しつつも、若年寄や大目付といった役職の創設など譜代家臣の中で子飼の側近を登用していったこの時期の徳川家光政権を代表する人物だったのである。
寛永12年(1635年)にはついに四位に昇叙、寛永17年(1640年)には川越城6万石に転封、正保元年(1644年)には侍従に昇任され、徳川家光政権末期まで依然として重用された。徳川家光への御奉公を第一としつつも、現実問題その期待にこたえ続けた松平信綱の実力は十分なものであったようだ。
この流れは慶安4年(1651年)の徳川家光の死、および徳川家綱の征夷大将軍就任後も変わらず、浪人問題、旗本の疲弊、御三家と幕閣の関係といった難問に着手していったのであった。そして寛文2年(1662年)についに亡くなり、幕府要人は新しい世代に変わっていくのである。
大坂の陣にすら参戦していない世代なのだが、徳川家光家臣団筆頭として何度か登場し、戦国立志伝への登場をきっかけにようやく定着した。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | 野望 | - | ||||
天翔記 | 戦才 | 134 | 智才 | 170 | 政才 | 162 | 魅力 | 50 | 野望 | 79 | ||||
将星録 | 戦闘 | 62 | 智謀 | 87 | 政治 | 86 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | - | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||
嵐世記 | 采配 | 54 | 智謀 | 77 | 政治 | 64 | 野望 | 74 | ||||||
蒼天録 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
創造 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
戦国立志伝 | 統率 | 82 | 武勇 | 40 | 知略 | 90 | 政治 | 88 |
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最終更新:2024/03/29(金) 10:00
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