アイネスフウジン 単語


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アイネスフウジン

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アイネスフウジンとは、1987年生まれの競走馬。57代ダービー馬である。

「ナカノコール」であまりにも有名。

概要

父シーホーク 母テスコパール 母父テスコボーイという血統。シーホークはモンテプリンスやウイナーズサークルなどを出したステイヤー型の名種牡馬である。

アイネスフウジンは牧場時代から人懐っこく、大人しい馬だったそうである。牧草地の草を食べ尽くすほど旺盛な食欲が育てた黒い馬体は迫力満点で、当初から大きな期待を集めていた。

この期待馬の主戦を勤めることになったのは、中野栄治騎手だった。

ぶっちゃけて言うとこの中野騎手。当時の競馬ファンはほとんど知らなかった。というか、知らなくても問題が無い。そんな騎手だった。だって、人気薄を激走させたりはしない騎手だったから。騎乗フォームが美しい騎手だと評価されていたらしいが、そんなことはファンの間ではまったく知られていなかった。

当時、既に減量がきつくなり過ぎ、騎乗機会も減り、引退寸前。そんな彼にたまたま巡って来たのがアイネスフウジンの手綱だった。厩舎関係者の間で騎乗技術が評価されていたことと、加藤修甫調教師が騎手にもチャンスを与える主義だった事がこの巡り合いを生んだのだった。

デビュー三戦目で初勝利。すると、次走は強気に朝日杯三歳ステークス(G1)へ向かった。無謀な挑戦、とも思われたが、アイネスフウジンはここを、マルゼンスキーの「不滅のレコード」1分34秒4と並ぶタイムを叩き出して優勝する。まさかこんなに強いとは思われていなかった一勝馬が、マルゼンスキーが唯一本気で走って出したというレコードに並んだことは競馬ファンを大きく驚かせた。

当然、クラシック戦線でも活躍が期待されるところである。しかし、この年のクラシック戦線は、期待馬が続々登場する、今思っても胸アツな戦国クラシックだったのだ。メジロライアン、ハクタイセイ、ホワイトストーン、ダイタクヘリオス。メジロマックイーンやメジロパーマーも、春には無名だったが同世代なんである。アイネスフウジンはメジロライアンに弥生賞をもぎ取られ、絶対王者とは言え無くなってしまう。

皐月賞ではスタート直後に他馬と接触。これが響いて逃げに失敗し、それでも首差には残ったものの、ハクタイセイの二着に敗れた。

この騎乗は物議を醸した。「中野では大舞台は苦しいのではないか?」という意見が出たのである。この時、皐月賞馬ハクタイセイの鞍上が勝ったにも関わらず南井克己騎手(ちなみにこの人は中野騎手の同期)から武豊騎手に乗り変わっていた。メジロライアンの騎手は横山典弘騎手。若いスター二人が乗るライバルに比べてアイネスフウジンの鞍上は確かに地味で実績も劣る。乗り代わりがあっても不思議は無いところであった。

しかし、加藤調教師は「皐月賞の負けは中野のせいではない。中野は変えない!」と宣言する。

こうなれば今度は中野騎手が加藤調教師の信頼に応える番であった。中野騎手はダービーフェスティバルでこう言った。

「アイネスフウジンを一番人気にして下さい。ダービーを一番人気で勝つのが夢です。自信はあります」

ファンはこの言葉を信用せず、アイネスフウジンは当日、三番人気だった。血統的には距離が伸びて良い筈のアイネスフウジンが人気を落としたのは、明らかに騎手人気の差であったろう。中野騎手は「借金してでもアイネスフウジンを一番人気にしてやりたい」と言ったそうである。

そして快晴の東京競馬場。約20万人という恐るべき数の観衆が見守る中、アイネスフウジンと中野騎手は一世一代のレースを展開するのである。

スタートして、ハナを切ったアイネスフウジン。首を下げた独特のフォームで飛ばして行く。1000mで1分を切るハイペース。中野騎手は時折後ろを確認しながら、後続を離さぬよう、詰められぬように逃げる。

このため、気が付かないうちにハクタイセイを始めとする先行馬はハイペースに巻き込まれ、なし崩しに脚を使ってしまっていた。4コーナーを回って更に伸びたアイネスフウジンを先行馬勢は見送るしか無い。しかも、あまりのハイペースに馬群はなが~くなっており、メジロライアンなど追い込み勢ははるか後方。

人馬一体の素晴らしいフォームで伸びるアイネスフウジンと中野騎手。最後の最後で必死に飛んできたメジロライアンを完封して、栄光のゴールを通過したのだった。タイムはダービーレコード2分25秒3である。

ゴールを通過した直後、ゴーグルを外した中野騎手は「ざまぁみろ!俺だってジョッキーだ!」と呟いたという。

向こう正面で馬を止めた中野騎手はしばらくそこで佇み、そしてゆっくりとスタンド前に帰ってきた。

すると、超満員(形容ではなくマジで立錐の余地も無い満員で、行った連中は皆一様に「地獄だった」と言ったくらい。コミケ目じゃなかったらしいよ)のスタンドから「ナカノ」「ナカノ」「ナカノ」と声が上がり始め、それが連なって「ナカノコール」が沸き起こったのであった。競馬はそれまであまりスポーツだとは見做されておらず、ましてや騎手や馬に声援をおくるのはゴール前で馬券が外れそうになった時に限られていた。「ナカノコール」は当時、前代未聞の出来事だったのである。

この瞬間、競馬がギャンブルから本物のスポーツになったのだという意見も多い。

アイネスフウジンはこの後、脚部不安を発症。遂に癒えずに引退した。ダービーのゴール後、向こう正面で立ち止まったのは、中野騎手が泣いていたからではなく、アイネスフウジンが引っくり返ってもおかしくないほどヘロヘロだったからなのだという。ダービーで燃え尽きたと言われた馬は他にもいるが、その言葉が最も似合うのはアイネスフウジンだと思う。

種牡馬入りしてからはそれほどパッとしなかったが、とどかにゃいで有名なファストフレンドを出すなどダート路線で結構活躍した馬が出た。晩年は宮城県で種牡馬生活を続け、2004年に死亡。17歳だった。晩年まで多くのファンが訪れ、人懐っこさを見せていたという。

アイネスフウジンのダービーは、競馬ブームの一つの頂点であった。同時に、バブル景気の絶頂期でもあった。どちらもこれ以降、ゆっくりと下り坂に入り、現在でも回復の兆しが無い。アイネスフウジンの馬主は1998年、会社の資金繰りの悪化を苦にして自殺した。それを聞いて、バブル崩壊と競馬人気の衰退の象徴的な出来事だと思ったものである。

ダービーを逃げ切った馬は78回を数えるダービーの中で僅かに11頭しかいない。その11頭中、メイズイ、コダマ、カブラヤオー、ミホノブルボン、サニーブライアンと二冠馬が5頭もいる。物凄い実力馬でなければ出来ないことなのである。そんな勝ち方で、スター続出世代1万2千頭の頂点に立ったアイネスフウジンはもっと評価されるべき名馬だと思うのだがどうだろう。彼の出したダービーレコードは東京競馬場が改修するまで破られる事は無かった。

中野栄治騎手は、ダービー以降、いよいよ減量がきつくなり、1992年には未勝利に終わるなど苦労した後、引退。調教師になってからはトロットスターで高松宮記念とスプリンターズステークスに勝っている。今後の活躍をきっとアイネスフウジンも見守っていることだろう。

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