オートメドン号事件とは、第二次世界大戦中の1940年11月11日に発生した英商船オートメドン号の撃沈事件である。この事件によってイギリス軍極東方面軍宛の機密文書がドイツ軍の手に落ちた上、同盟国の日本にも渡った。
1隻の商船がインド洋を航行していた。船の名前はアトランティス…ドイツ海軍の仮装巡洋艦である。ベルンハルト・ロッゲ艦長率いるアトランティスはイギリス商船がうようよいるインド洋を狩り場にし、獲物を求めて遊弋していた。
1940年11月11日の朝はとても晴れ渡っていて、波も穏やかであった。アトランティスの見張り員は南西の水平線上に薄い煙が上がっているのを発見。ちょうど艦の進行方向だったので、接近しつつ双眼鏡で確認してみるとどうやら英ブルーファンネル社保有の連絡船のようだ。つまり獲物である。距離をグングン縮めていったアトランティスは戦闘旗を掲げ、隠していた大砲を哀れな敵船へと向ける。敵船の正体はオートメドン(排水量7529トン)だった。リヴァプールを出港してから48日、寄港地ペナンへの入港を目前に控えていた。このため船員たちはリラックスしていて、襲撃に気付くのが遅れてしまった。アトランティスはオートメドンの船首方向に威嚇射撃を行い、停船を求めた。しかし勇敢にもオートメドンは無線でRRR信号(襲撃を受けた事を意味する信号)を発し、周囲の船に助けを乞うた。だがこれが悪手となってしまう。信号を打たれた事でロッゲ艦長は臨検から撃沈へと方針を切り替え、照準を敵船に合わせる。1800mの距離から放たれた一斉射はオートメドンの船橋を捉え、エワン船長以下要員が全滅。更なる斉射で船体中部に11発の命中弾を与えた。アトランティスは一度砲撃を中止したが、オートメドンの船尾にある75mm砲に人影が見えたため抵抗の意志があると見て砲撃を再開。ぼろぼろになるまで痛めつけた。砲を動かそうとした船員が死亡し、ついにオートメドンが停船すると、英語が堪能なモール中尉を中心とした臨検隊を派遣。抵抗を試みた事が仇となり、船内は砲撃によって廃船のように破壊されていた。船員は死亡するか怪我を負っている状態で、6名の重傷者がアトランティスに搬送された。積荷として自動車の予備部品、箱詰めされた航空機、軍服、ミシン、顕微鏡、リキュール、タバコ、食料品等の高価な品が満載されていた。とりあえず食糧品だけ押収してアトランティスに積み、残りは放置した。そして、それらの品の中には重大なものが隠されていた。
移乗したドイツ兵が15個のカバンを発見、そこからイギリス極東方面軍宛の機密文書が大量に発見されたのである。その膨大な量は、モール中尉は「よくこのような船に積んだな」と感嘆するほどだった。海図室からも小さな緑色のカバンが発見され、それには「高度な機密」と注意書きされていたという。本来であれば船長が責任を持って破棄しなければならなかったが、不運にもアトランティスの砲撃で船長は戦死し、機密文書は手付かずのまま残された。機密文書の中には日本の運命を左右する超重要な情報が眠っていた。大型の封筒には、チャーチル英首相から極東方面軍司令サー・ロバート・ブルック・ポパム大将に宛てた指令書が入っており、更にシンガポールの防備状況、日本軍から攻撃を受けた時の作戦計画、オーストラリアとニュージーランドの役割分析まで添えられていた。この文書を読んだロッゲ艦長は興味を隠しきれなかったという。こうして重要情報を手にしたアトランティスは、安全のため普段は使用を禁じている無線を躊躇無く使用。ベルリンの海軍司令部に「イギリスの最高機密を獲得した」と打電。すかさずロッゲ艦長は機密文書の移送を決心し、拿捕船オール・ジェイコブ号を呼び寄せた。直接ドイツ本国に届ける事も考えたが、距離的に同盟を結んでいる日本に行って駐日ドイツ大使館に届けるのが得策と判断。ポール・カメンツ大尉率いる7人のドイツ兵と61名の抑留船員が操船するオール・ジェイコブ号は重要書類を託され、翌12日に同盟国日本へ向けて出発した。ロッゲ艦長は船員の反乱を防ぐため、日本に辿り着いたら解放すると抑留船員に約束していた。
1940年12月4日、オール・ジェイコブ号はドイツの軍艦旗を掲げながら神戸港に到着した。神戸では2名のドイツ大使館員が待っていて、午後12時20分発の特急燕号によって21時に東京へ到着した。駐日ドイツ大使館付海軍武官のパウル・ヴェネッガー少将はすぐに重要性に気付き、文書の概要をベルリンの海軍司令部に送付するとともに、一部をコピー。機密を日本側へ提供するよう許可を求めた。その後、機密文書は外交急便でウラジオストクに送られ、シベリア鉄道を通ってベルリンに届けられた。それから5日が経過した12月9日、ベルリンから機密の提供を許可する電文が届いた。既に在ベルリン駐独海軍武官の横井忠雄大佐にも機密が提供されていた。ただ情報源は秘密情報機関とするよう指示があった。12月12日、ヴェネッガー少将は軍令部を訪れ、近藤信竹軍令部次長と会談。挨拶も抜きに機密文書を手渡した。最初は怪訝そうな顔をしていた近藤次長であったが、読み進めていくうちに興味を示すようになった。どうやら機密情報は日本側にとっても有益だったようで、その晩に近藤次長はヴェネッガー少将を招いて感謝の言葉を述べ続けた。当初はこの機密情報を疑う声があり、「シンガポールを攻撃させようとするヒトラーの陰謀」と思われていたが、日本側が独自に得た情報と符合する点が数多く確認されたため、真実だと認められた。どれも日本側を唸らせる重要な情報だったが、特に極東のジブラルタルと評されるシンガポールの防備が筒抜けになったのは僥倖であった。ゆえに対米英戦争の決断に大きな影響を与えたとされる。
一方、イギリス側は在ベルリン海軍武官の暗号を解析した事で1940年末に機密情報の漏洩を知った。しかし厳しい情報管制が敷かれ、あろう事かポパム大将にすら知らされなかった。これが影を落とし、大東亜戦争開戦劈頭にシンガポールがあっさり陥落する事になる。
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最終更新:2025/12/13(土) 03:00
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