カイヨウジパングとは、1995年生まれの日本の競走馬である。高知競馬史上初の三冠馬であった。
レベルも賞金も低い高知競馬でデビューする馬は大抵余所で入厩を断られた余りもので、よくわからない血統の馬がほとんどである。たまにサンデーサイレンス産駒が来たかと思えば、脚が変な方向に曲がっていたりする。
ところが、カイヨウジパングは違った。父ジェイドロバリー、母マドモアゼルナムラ、母の父フォルティノと高知競馬では滅多にいない良血で、少し小柄な以外は馬体にも問題は見当たらなかった。
1998年の1月に4歳でデビューしたカイヨウジパングは、快足を武器にデビュー戦以降圧勝に次ぐ圧勝で5連勝を達成。
続く6戦目は1997年に整備されたばかりの三冠戦第一弾、黒潮皐月賞。3番人気に甘んじたカイヨウジパングだったが、それまでの逃げ戦法を捨てて、後の代名詞となる後方からの競馬を見せ、同世代のライバル、セクチオとイージースマイルを最後の直線で一気に差し切り、格の違いを見せつけた。
次走C1特別は7着と大敗したものの、続く黒潮優駿も豪快に差し切って2冠を達成。飛ぶ鳥を落とす勢いのカイヨウジパングは、高知二冠の実績を引っ提げてG3名古屋優駿へと向かった。
現在ではたまにあることだが、高知の馬が名古屋へ遠征するというだけでも当時はえらいことであった。
中央馬も招待される中、名古屋優駿を制したのはダートの王者ウイングアロー。カイヨウジパングは見せ場なく8着に終わった。
それでも高知に戻ってくると圧倒的強さで重賞RKC杯を圧勝し、今度は金沢へ遠征し、サラブレッドチャレンジカップに出走。ここでは最後の直線よく追い上げて4着と大健闘。高知の意地を見せつけて、三冠最後の一冠、黒潮菊花賞へと向かった。
先の二冠でいずれも二着としたライバル、イージープリンスは精彩を欠き、セクチオは故障で出走すらしていない黒潮菊花賞、カイヨウジパングに敵などいなかった。
後続に5馬身も差をつけてまさしく圧勝。三冠が整備されてわずかに2年、早くも高知競馬に三冠馬が誕生した。
三冠馬カイヨウジパングが次なる戦場に選んだのは盛岡、G1ダービーグランプリであった。
11月23日に盛岡で行われる予定だったダービーグランプリであったが、当日になって大雪で中止。12月14日に水沢競馬場で仕切り直しが行われることにになり、カイヨウジパングは一旦高知に戻る羽目になった。
調整が難しそうだが、カイヨウジパングは移動にめっぽう強く、長距離行にも平然としていたという。
仕切り直しの水沢競馬場での一戦は、最後方からの競馬となったが、直線で追い上げて6着と健闘。過酷な移動がなければ、左回りの盛岡に対して水沢は右回りであり、その不利がなければ、そう思わせるいいレースであった。
その後高知に戻ったカイヨウジパングは年明けの県知事賞に出走。堂々の一番人気に推されたが、5着と敗退。その後は精彩を欠いてしまい、黒船賞にも出走したものの6着、そのほかも掲示板にも乗れないレースを繰り返した。
翌シーズンは中津競馬に移籍。心機一転巻き返しを狙ったものの、2戦していずれも惨敗し、往時の輝きは戻ってこなかった。
その後2001年に中津競馬は廃止。それに伴ってカイヨウジパングは登録を抹消され、その後の行方はようとして知れない。
中津競馬廃止時に所属していた馬の大半は肉にされ、動物園にエサとして売られたというので、きっとカイヨウジパングも処分されてしまったのだろう。
全国的には取るに足らない馬かもしれないが、遠路はるばる他の競馬場へ赴き、全国区の馬と渡り合ったカイヨウジパングの姿は、高知競馬のファンには忘れられない存在である。
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