ジミー・ペイジ(Jimmy Page)とは、1944年1月9日イギリスのミドルセックス州ヘストン生まれのギタリストである。
レッド・ツェッペリンのリードギタリストでありバンドリーダーとして有名。
メンバーの発言から天才的なリフ・メイカーとして知られ、レッド・ツェッペリンのアルバムの全プロデュースを担当している。
1944年1月9日ジミー・ペイジ誕生。
9歳 ペイジ一家はサリー州のエプソムに引っ越す。引越し先に放置してあったスパニッシュ・ギターを与えられる。
13歳で地元のスキッフルバンドに加入。英国のTV番組 Wheldon Showに出演。
15歳 エルヴィス・プレスリーの「Baby Let's Play House」を聴いてロックンロールに目覚める。
ジェフ・ベックとはこの頃友人となる。ベック談「初対面の時奴はキラキラ輝いて見えた。絶対友達になっておかなきゃとその時思ったんだ。あの頃の奴は凄く細くて、パイプクリーナみたく細かった。物凄い速さでギターを弾いていたけど、問題はまだ誰も聴いていなかったってことさ。」
16歳 この頃中古の49年製ギブソン・レス・ポールを父親を保証人に手に入れる。”ニール・クリスチャン&ザ・クルセイダーズ”に加入、本格的に音楽活動を開始。
18歳 過労で体を壊し入院。バンドを脱退しアートスクールに進学する。キース・リチャーズ、エリック・クラプトンらと知り合い、彼らはジェフ・ベックと共にエプソムのペイジ家の居間をギターの練習場にする。
19歳 アートスクールを辞め音楽活動に専念。トップセッションギタリストとなり、数多くのヒット曲を陰から支える。この頃、ミッキー・モストが担当した全ての曲でギターを弾き、モストとは会社の共同経営者であったピーター・グラントと知り合う。
21歳 イミディエイト・レコードとプロデュース契約。レコーディング・プロデューサーとしてジョン・メイオール&ブルース・ブレイカーズなどを担当。後に著名なレコーディング・エンジニアとなるエディー・クレイマーと知り合う。
1965年エリック・クラプトンが抜けた穴埋めとして”ヤードバーズ”に誘われるが、これを断り、ジェフ・ベックを推薦する。しかし、1966年ヤードバーズからバンドの創立者でリーダーであったポール・サミュエル・スミスが抜けてしまい、既にプロデュース業を手がけていたペイジに再び誘いがかかり、ヤードバーズに加入することになる。最初はベーシストとして参加していたが、後にクリス・ドレヤと交代しジェフ・ベックとのツイン・リード・ギターを実現する。
しかし1968年7月ヤードバーズが空中分解、これを期にロバート・プラント、ジョン・ポール・ジョーンズ、ジョン・ボーナムと共にニュー・ヤードバーズを結成。やがて”レッド・ツェッペリン”と名を改め70年代の音楽業界を席捲する。
1980年9月25日USツアーのリハーサル中にメンバーのジョン・ボーナムが突然すぎる死去。
同年12月4日レッド・ツェッペリンの解散表明が正式に発表される。ペイジ自身も悲嘆に暮れ、ジョン・ボーナムの死去した自宅に篭り、健康状態の悪化を噂されながら鬱々とした隠遁生活に入る。トレードマークだったギブソン・レスポールも一時行方不明になり、「ギターを見れば亡くした友人を想いだしてしまう」と、音楽活動の断念を思うまで落ち込んだ。だが、1981年3月10日ロンドンのハマースミス・オディオンでの旧友ジェフ・ベックのライブに招かれ、アンコールの「ゴーイング・ダウン」を共演。音楽活動に復帰した。それから数ヶ月の間、自前のソルスタジオに篭り、エルトン・ジョン、ジョージ・ハリスン、ミック・フリードウッド、ビル・ワイマン、アラン・ホワイトらといったアーティストを迎えて過ごす。また、スーパー・グループ”XYZ”の構想が練られデモテープが録音されたが、正式に発表されることはなく企画段階で終わる。レッド・ツェッペリン10枚目のアルバム、「最終楽章(コーダ)」の為の音源の選定作業が行われたのもこの時期。
1981年8月チャールズ・ブロンソンの映画「ロサンゼルス」のサウンドトラックを依頼される。1982年2月発売。
1983年5月23日ギルフォード・タウン・ホールで行われたエリック・クラプトンのライブに招かれ、アンコールで「コカイン」「ファーザー・オン・アップ・ザ・ロード」の2曲を披露する。3ヵ月後、クラプトンから依頼されたペイジは多発性硬化症患者の支援団体「アームズ」と、同病に苦しむロ二ー・レインの為に9月20、21日の2夜に渡って行われたチャリティーライブ「アームズ・コンサート」に参加する。スティーヴ・ウィンウッドをヴォーカルに数曲を披露。アームズUSツアーも計9回行われ、ペイジはアメリカに同行。ツアーに参加出来なかったウィンウッドの代わりをポール・ロジャースが勤める。
1984年ロイ・ハーパーとTV番組「オールド・グレイト・ホイッスル・テスト」の為に、スコーフェル山で共演。他にも”ビーチボーイズ”、”イエス”らとライヴで共演するなど、音楽活動が活発化。
同年ポール・ロジャースらと”ファーム”を結成、本格的にバンド活動を再開する。
1985年ジェフ・ベック、ロバート・プラント、ナイル・ロジャース、ピーター・シェイファー、ディヴ・マシューズらと、”ハニードリッパーズ”の名義で、ミニアルバム『ヴォリューム・ワン』を発表。
1987年、麻薬不法所持で逮捕され執行猶予処分となる。だが、このことで麻薬依存症とアルコール中毒の治療を始め、ギタリストとしての活動にまで支障を来すほど悪化していた健康状態が改善。
1988年ファーム解散。同年6月初のソロ・アルバム『Outrider』(アウトライダー)をリリース。
1993年ディヴィッド・カヴァデールと”Coverdale Page”(カヴァデール・ペイジ)を結成。
同年3月『Coverdale Page』をリリース。長く封印されてきた、ZEP時代のノウハウが惜しみなくつぎ込まれた、このアルバムは衝撃をもって受け入れられ、全米チャート最高5位に食い込む健闘をみせたが、思ったほど長い間はチャートに留まらず、100万枚以上の売上げに留まるという、彼らからすると不本意な結果に終わる。時期が悪いことに、このころ既に80年代半ばから始まったチャートの上位をHR/HM勢が独占するというブームは、とっくに終焉を迎え、キッズたちの目はロックではなくラップに向き、アンダーグラウンドでもヘヴィーメタルは駆逐され、オルタナ・グランジ勢が勃興していたのだった。カヴァデールはバンドの存続を希望するが、チケットの売れ足の鈍いUSツアーをキャンセルして日本公演のみを行い、バンド活動に終止符を打つことにする。実はこの以前既にロバート・プラントから一緒に音楽活動を行おうとの依頼を受けていた。
1994年MTVの依頼で、人気番組アンプラグド内でジミー・ペイジとロバート・プラントのセッションが実現。これを期に、二人でアルバムをリリースするまでに至る。”ペイジ・プラント”は100公演を超えるツアーを行い、アメリカでの音楽史における興行記録を塗りかえる快挙を達成。
1996年レッド・ツェッペリンでロックの殿堂入り。”エアロスミス”らと共演。
2000年”ザ・ブラック・クロウズ”を引き連れてツアー。
2007年ロンドンでレッド・ツェッペリン再結成ライヴ。日本では女優・沢尻エリカが招待され、話題を掻っ攫う。
2008年64歳、英国サリー大学で名博士号を授与される。北京オリンピック閉会式で女性歌手レオナ・ルイスと「胸いっぱいの愛を」を共演。
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最終更新:2025/12/13(土) 19:00
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