ダイナナホウシユウ(Dainana Hoshu)とは、1951年生まれの日本の競走馬。
非常に小柄な馬体ながら、逃げ切るスピードと酷量に打ち克つパワーを兼ね備えた戦後屈指の名馬。
読みは「ダイナナホウシュウ」だが、当時は馬名に促音・拗音を使えなかったため「ダイナナホウシュウ」が正式な表記である。
「ホウシユウ」が冠名で、九州の炭鉱経営者で馬主の上田清次郎の所有馬ホウシユウに由来し、期待馬にはダイニ、ダイサンと番号を割り振って命名を行っていた。ホウシユウは多分「豊州(豊前・豊後)」から。
※馬齢表記はレース名や表彰名を除き、全て現表記で記載
父:シーマー、母:白玲、母父:レヴユーオーダー。血統表の中にいる馬は皆戦前・戦中生まれ。
父シーマーは戦中戦後の名種牡馬セフトを父に持ち、天皇賞を僅差で逃げ切った。母の白玲は全く分からん。母父レヴユーオーダーは1925年のデューハーストS(英国最高の2歳戦)を制したらしい。牝系は日本で最も古いシルバーバットン系に属し、11連勝を達成したウイザードは本馬の大伯父である。
ダイナナホウシユウを語る上で欠かせない事だが、非常に小さい馬である。一説には体重380kgという小柄な体型であると言われている。チビの代名詞であるステイゴールドやツインターボが410~430kg程度であり、非常に小さいことが分かる。幼名に「タマサン」と名付けられたが、上田清次郎の所有になって以降もタマサンの名前がそのまま競走名となった。つまるところあまり期待されてなかったのだ。
そのタマサンは1953年8月の小倉芝1000mでデビュー。鞍上に生産牧場である飯原農場にいた事がある石崎修騎手(バシシューじゃないよ)に任せ、デビュー戦をクビ差で逃げ切る。
するとここからレコード勝ちを含む7連勝。レースは全て1000~1200m。先頭に立ち続けて逃げ切るという強い競馬で8戦8勝のまま2歳シーズンを終える。
3歳になるとタマサンは「ダイナナホウシユウ」へと改名され、主戦騎手も上田武司調教師の養子で、厩舎所属の上田三千夫へ乗り替わりとなった。3月に復帰し連勝、2戦とも後続に大差をつけており、この頃には「褐色の弾丸列車」という異名を奉られた程、彼の快速は有名となった。皐月賞は前年3歳王者タカオーと僅差の2番人気に支持され、スタートから逃げると直線で後続を突き放し、2着オーセイに8馬身差をつけて圧勝。タカオーの11連勝を止めた一方で、本馬が11連勝を達成した。
しかし、ダービートライアルのNHK杯で3着に敗れ、連勝記録は11でストップ。続くダービー本番でも4着に敗れる。ダービーでは隣の馬とぶつかって大きく出遅れたのが敗因のようだ。
夏休みを挟んで9月に復帰。初戦のオープン(60kg)こそ勝つが続く京都杯とオープンを連続2着に落とす。しかし11月の神戸杯(今の神戸新聞杯、斤量64kg、次に重い馬とのハンデ差6kg)では3馬身突き放して勝利。さて、菊花賞では2番人気となったがここでダイナナホウシユウは大逃げを打つ。1番人気ミネマサの追撃を全く気にせず6馬身差で逃げ切り、ここに二冠を達成した。因みに1949年のトサミドリから6年連続で二冠馬が誕生している。
当時まだ有馬記念も無かったので年末のオープン競走へ出走。66kg背負って3馬身半突き放しました。テンポイント以前の斤量は半端ない。啓衆社による年度表彰において最優秀4歳牡馬に選出された。
3歳時の成績は11戦7勝。その中には皐月賞と菊花賞が入っている。
4歳になりオープンを連勝するが3戦目に敗れる。この時屈腱炎を発症し、以後脚部不安がつきまとうことになる。目標としていた春の天皇賞は諦め休養に入る。
当時の古馬の目標レースは天皇賞である。本馬が4歳だった1955年には宝塚記念や有馬記念はまだ無かったので、みんな酷量を承知の上でオープンや重賞に出ていたのだ。
9月に復帰しオープン(66kg)を快勝、続く秋の京都記念(当時年2回やってた)では65kgを背負いながら2分16秒4のレコードタイムで勝利。参考までに初版作成時点での京都芝2200レコードがトーセンホマレボシ(56kg)の2分10秒0である。斤量や当時の馬場状態を考慮する必要があるので一概には比較できないが。
当時の秋の天皇賞は東京芝3200mであり、東上し前哨戦のオープン(55kg、前戦のマイナス10kgって何だよ)もレコード勝ち。中山芝2000を2分02秒2。
天皇賞は勿論一番人気。脚部不安からごく軽い調教がなされ、レースでは逃げ粘るが最後の直線でフアイナルスコアが並びかける。しかし差し返してハナ差勝利し、天皇賞馬となった。因みに鞍上の上田左千夫はハナ差でも勝ったと確信があったらしい。
もちろん、最優秀5歳以上牡馬に選出。4歳シーズンは7戦6勝で終えた。
当時の天皇賞は「勝ち抜き制」と言って、一回天皇賞を勝つと以降の天皇賞には出られなくなる。天皇賞や戦前の帝室御賞典は種牡馬選抜の為の競走として、クラシックのような扱いを受けていた。無論オープンや重賞に挑戦する事も出来るが、天皇賞馬に対する斤量は60kg台後半、下手すれば70kgを超える。
というわけで天皇賞を勝った馬はその年限りで辞めちゃったり、1950年春の天皇賞馬オーエンスのように地方競馬に転出するケースもあった。戦後は地方競馬の創設ラッシュで馬資源が不足してたし。
本馬はと言えば、年末の中山に野球のオールスターを模した競走、中山グランプリ(現在の有馬記念)が新設される事を受け、それを目標に調整が進められた。11月まで休養の後、オープンと阪神大賞典を連勝。ただファン投票上位10位には入らなかったらしい。
2番人気に推されたが、「四本脚のうち三本がいかん」と言われたほど脚部不安が深刻化しており、実際のレース中に故障発生。入線こそ果たしたが11着に敗れ、ここで引退となった。
引退後種牡馬入りしたが、はっきり言うと種牡馬としては全くで、地方重賞の勝ち馬を数頭送り出したに留まった。1966年に種牡馬を引退。母父として、70年代のアングロアラブの名馬アイズムサシを出した。
その後、育成牧場にて若駒達の先生やったり、札幌の大学の馬術部で馬術競技馬となったり、最終的には九州の高校に寄贈された。1974年に死亡、享年23歳だった。
通算成績29戦23勝、2着2回、3着2回という圧倒的な成績を残しており、特に八大競走として定義される皐月賞、菊花賞、天皇賞を制している。脚質はスタートを決めてから一歩も譲らず逃げ、そのまま突き放し、粘り込みを決める。生産牧場である飯原農場はスパルタトレーニングで知られており、脚質も含めてミホノブルボンやタニノチカラなどに近いと思う。
65kg背負ってレコードタイムで勝ち、不良馬場も気にしないなど、スピードとパワーを兼ね備えたまさに「弾丸列車」であった。
1984年に、中央競馬の発展に多大な功績を収めた馬を顕彰する、JRA顕彰馬が制定された。
当時は選考委員の4分の3の賛成をもって選出されることとなっていた。1984年の初年度の審議においても選出は濃厚と見られていた。そりゃ八大競走3勝してるし、そもそも出られる大競争も無かったし。
が、選外。理由として選出委員の一人(当時何人で選出してたかは不明)が、
「小柄な馬体がサラブレッドとしての品格に欠ける」
という理由で強硬に反対。それで選外になるって事はどんだけ反対したんだよ。憶測ではあるが、反対した人はサラブレッドなどの馬匹改良に携わってきた人だったんだろう。馬主の上田清次郎は選外という事を聞いて激怒。競馬ファンの有識者からも異論が出たが結果は変わらず。
1990年に再度選考が行われ、テンポイントやメイヂヒカリが選出された中でもやはり選出されず。
ダイナナホウシユウさんが何やったんですか。
これだけは言わせて。タケホープとグリーングラス、フジノオーやバローネターフと共に顕彰馬に。
JRAは本馬を後世に語り継ぐ義務と責任があると思う。馬事文化の発展を望むのなら、過去の名馬とホースマンを軸とした歴史を編纂する必要があると、自分は思う。
| シーマー 1944 黒鹿毛 |
*セフト 1932 鹿毛 |
Tetratema | The Tetrarch |
| Scotch Gift | |||
| Voleuse | Volta | ||
| Sun Worship | |||
| 秀調 1936 鹿毛 |
大鵬 | *シアンモア | |
| *フリツパンシー | |||
| 英楽 | *チヤペルブラムプトン | ||
| 慶歌 | |||
| 白玲 1935 栗毛 FNo.4-g |
*レヴユーオーダー 1923 栗毛 |
Grand Parade | Orby |
| Grand Geraldine | |||
| Accurate | Pericles | ||
| Accuracy | |||
| 第三シルバーバツトン 1916 栗毛 |
*ブレアーモアー | Blairfinde | |
| Woollahra | |||
| *シルバーバツトン | Bachelor's Button | ||
| Queen of the Florin |
クロス:アウトブリード
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最終更新:2025/12/13(土) 04:00
最終更新:2025/12/13(土) 03:00
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