ドレスデン爆撃とは、第二次世界大戦末期の1945年2月13日から15日にかけて行われた連合軍のドレスデンへの爆撃である。多くの一般市民が犠牲となった事から「ドイツのヒロシマ」とも言われる。
1945年初頭、ドイツは窮地に立たされていた。西と南からは連合軍が、東からはソ連軍が大挙して雪崩れ込み、ドイツの息の根を止めるべく首都ベルリンへ進撃していた。そんな中、ドイツ東部の街ドレスデンには東プロイセンから逃れてきた避難民であふれ返っていた。ここは交通の要衝であると同時に、空襲を殆ど受けた事がない安全地帯だったのだ。さらにドレスデンは無防備都市を宣言しており、ドイツ軍は駐留していなかった。つまりここを空襲しても戦略的価値は全く無いはずだった。
ところが、戦後を見据えてソ連を牽制しておきたい米英は圧倒的軍事力を誇示するための舞台を欲していた。その思惑にぴったりな場所こそが、ソ連軍の鼻先に位置するザクセン州の州都ドレスデンであった。
1945年2月13日早朝、この日のドレスデンは暗雲が広がっていた。当初の予定ではアメリカ軍の航空隊が昼間爆撃をするはずだったが、悪天候のため一旦中止。続いて夜間爆撃を担当するイギリス空軍に出撃命令が下り、同日18時に200機以上のランカスター爆撃機が英本土から発進した。陽動のため別働隊も出撃させ、計1180機が投入された。
22時過ぎ、ドレスデン上空に先発隊が到達。照明弾を落とし、後続の本隊に爆撃目標の位置を知らせた。目標はツヴィンガー宮殿、ドレスデン城、聖母教会、市役所、十字架教会など歴史的価値の高いものまで含まれた。やがて本隊が到着、22時30分頃に第一陣の243機のランカスターが爆撃を開始した。まず高性能爆弾で建物の屋根を吹き飛ばし、丸見えになった内部へ焼夷弾を投下する戦法が取られた。建物はあっと言う間に炎に飲み込まれ、その炎によって地表付近は真空状態となり、火災旋風を引き起こした。大火は生き物のように燃焼範囲を広げていき、ドイツ市民を無慈悲に喰らって焼き尽くした。爆撃自体は僅か24分で終わったが、地獄はまだ始まったばかりだった。イギリス軍は爆撃機隊を二つに分けており、第一陣の爆撃から3時間後に第二陣が爆撃するよう練られていた。これは避難や消火作業が最も活発になる時間帯を狙って爆撃するためで、明らかに非戦闘員を狙い撃ちにした鬼畜の所業であった。
日付が変わって翌14日午前1時23分、第二陣のランカスター529機が到着。予想以上に燃え広がっていたので、作戦を変更して爆撃エリアを拡大させた。今度は通常爆弾を投下していった。二度の爆撃で1477トンの爆弾と1081トンの焼夷弾が投下され、ドイツ有数の文化都市は炎の海に沈んだ。市内は高温になり、窓と言う窓から炎が噴き出していた。建物を支える骨組みは熔け、次々に崩れ落ちた。
2月14日昼、今度はアメリカ軍の爆撃機隊が襲来。ほとんど廃墟になったドレスデンの街に爆弾474トンと焼夷弾300トンを投下した。さらにエルベ河畔に避難していた一般市民に機銃掃射を加え、殺害。あまりにも凄惨かつ広範囲に渡った爆撃のため、正確な死者数は未だ判然としていない。後年の研究では、3万5000名ほどではないかと言われている。ドレスデンの町並みは破壊し尽くされ、85%が灰燼に帰した。
不可解な事に、連合軍はエルベ河北部にある軍事施設には全く手をつけず、非戦闘員だけを殺傷していった。このような鬼畜の手に染めたのは、ドイツ軍が誇るV2号ロケットをイギリスが恐れていたとも、ロンドンやコベントリーに対する爆撃の報復とも言われている。
生き残った市民が目の当たりにしたのは、うず高く積み上げられた瓦礫の山だった。あちこちに倒れていた焼死体は一旦街の端っこに集めて焼却していたが、作業が間に合わなかったので中央の広場に運んでまとめて焼いた。一度は壊滅したドレスデンだったが、市民の努力によって見事復興した。
戦後、東ドイツ領になったドレスデンは西側諸国を非難する宣伝材料として使われた。また現代では2月13日に追悼集会が行われているが、同時にネオナチを始めとする国粋主義グループも外国人排斥のデモを行っている。
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最終更新:2025/12/11(木) 19:00
最終更新:2025/12/11(木) 18:00
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