二階堂行光 単語

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二階堂行光(にかいどう・ゆきみつ)とは、二階堂家が誇る集団である。同名の人物が4名該当する。初代から通字である「行」が断続的に興隆から滅亡まで続いている。

なお、4人を時代別に区分するとこうなる。

  1. 平安時代末期~鎌倉時代初期
  2. 鎌倉時代
  3. 南北朝時代
  4. 戦国時代

1.(平安時代末期~鎌倉時代初期 1164-1219)

二階堂家2代当主。二階堂行政の子。二階堂行村の弟。子に二階堂行盛がいる。

鎌倉幕府の初代政所執事を務める。政所執事とは、政所の上級役人であり、政務に参与し、会計を担当した。源氏三代に仕え、鎌倉幕府黎明期を下から支えた。

政所執事は2代目こそ甥・伊賀光宗が担当したが、1224年に伊賀氏の変で流罪となり、子・行盛が3代政所執事になると、以降二階堂家がこれを世襲制という形で独占することとなった。

2.(鎌倉時代 生没年不詳)

二階堂行広の子。子に二階堂忠広がいる。事跡などは全く伝わっておらず、父・行広は11代当主・二階堂貞衡の弟にあたる。9世孫は六郷氏を名乗り、信長の野望で御馴染みの六郷政乗を輩出している。

3.(南北朝時代 生没年不詳)

二階堂行親の子。子に二階堂行永がいる。1の7世孫にあたる。彼も事跡が不明であり、詳細は分からない。ただ、鎌倉幕府滅亡前後の生まれであると推測される。

4.(戦国時代 ?-1477)

二階堂家13代当主。二階堂為氏の嫡男。子に二階堂行詮がいる。3の5世孫にあたる。

父が須賀川の地に土着してからの2代目にあたる。母は恐らく父の仇敵であった二階堂治部大輔の娘・三千代姫であろう。だとすれば1445~1447年生まれとなるが。ちなみに為氏の生年は1432年前後であり、生年がかなりキツキツとなっており、更に嫡男・二階堂行詮(?-1495/1497/1500)とその子・二階堂行景(?-1504、晴行の兄)の存在もあるため、為氏・三千代姫の子供ではないかと思われる。

彼も事跡は明らかになっていないが、1464年に父の死で若年の身で家督を継いだと思われる。須賀川を中心に岩瀬郡を支配して勢力拡大に躍起になっていたのだろうか?周囲には白河直朝・白河政朝父子、蘆名盛高、田村盛顕、二本松持重・二本松政国父子、奥州長沼氏、石橋氏などと言った強豪・新興勢力が割拠しており、生き残りに必死だったのは容易であると思われる。

余談

信長の野望では、

  • 15代・二階堂行詮
  • 16代・二階堂晴行
  • 17代・二階堂輝行
  • 18代・二階堂盛義

としており、『戦国大名系譜人名辞典』の系図をそのまま参照すれば14代当主となるのだが、実は晴行には先に登場した二階堂行景という人物が家督を継いでいたため、13代当主扱いとなる。

またwikipediaでは二階堂貞衡で当主の数が途切れている。鎌倉時代の終焉というのもあるが。父・為氏を12代にしておくと信長の野望の代数と何故か整合性がとれてしまうので、とりあえず暫定的に行光を13代とする。

関連項目

  • 福島県
  • 須賀川市
  • 神奈川県
  • 鎌倉市
  • 鎌倉時代の人物の一覧
  • 南北朝時代の人物の一覧
  • 戦国時代の人物の一覧

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