宇都宮尚綱(うつのみや・ひさつな 1512~1549)とは、下野国の戦国大名である。
下野宇都宮家20代当主。子に宇都宮広綱。初名は俊綱。
2013年3月に『シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻 下野宇都宮氏』により新説が出ているため、俗説と旧説を併記する。
宇都宮興綱の子。
父・興綱が芳賀高経に殺されると1541年にこれを討った。
その後、尚綱は積極的な勢力拡大に乗り出したが、1549年に喜連川五月女坂の戦いにおいて、那須高資を攻めるが敗れて戦死した。那須軍の奇襲を受けて那須家臣・鮎ヶ瀬実光に射抜かれて絶命した。
後継者の子・広綱は5歳と幼く、壬生綱房に宇都宮城を奪われ、綱房や芳賀高照・塩谷義孝ら重臣団が宇都宮氏の実権を掌握する。
広綱は芳賀高定に伴われ真岡城に逃亡し、宇都宮氏は一時宇都宮城を失った形となった。
宇都宮成綱の次男。兄に宇都宮忠綱。弟に宇都宮興綱。
初め、僧となるために宇都宮氏ゆかりの慈心院に入っていたが、天文年間初めに弟・興綱が芳賀高経によって幽閉された後に還俗して家督を継いだ。
1539年、結城氏・小山氏と結ぶ高経を壬生綱房とともに討ち、家中を掌握する。
その後、尚綱は芳賀高照(高経の子)を追放して芳賀高定を送り込み、積極的な勢力拡大に乗り出した。
しかし1549年に喜連川五月女坂の戦いにおいて、那須高資を攻めるが敗れて戦死した。那須軍の奇襲を受けて那須家臣・鮎ヶ瀬実光に射抜かれて絶命した。
後継者の子・広綱は5歳と幼く、壬生綱房に宇都宮城を奪われ、綱房や芳賀高照・塩谷義孝ら重臣団が宇都宮氏の実権を掌握する。
広綱は芳賀高定に伴われ真岡城に逃亡し、宇都宮氏は一時宇都宮城を失った形となった。
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最終更新:2025/12/11(木) 19:00
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