宇都宮尚綱(うつのみや・ひさつな 1513~1549)とは、下野国の戦国大名である。
下野宇都宮家20代当主。初名は俊綱(としつな)。初め僧侶であったが、19代当主・宇都宮興綱が家臣に幽閉(のち強制自害)された事で家督を継ぐ。先々代より続く家中の混乱を治めようと尽力するが、志半ばで戦死する。
子に宇都宮広綱。
出自については、2013年3月に『シリーズ・中世関東武士の研究 第四巻 下野宇都宮氏』により新説が出ているため、俗説(旧説)と新説を併記する。
旧説では19代・宇都宮興綱の子。17代・宇都宮成綱の甥、18代・宇都宮忠綱の従兄弟。
新説では17代・宇都宮成綱の次男。18代・宇都宮忠綱の弟、19代・宇都宮興綱の兄。
興綱の生年に関する新旧説に関する詳細は当該項目を参照の事。
初め、僧となるために宇都宮氏ゆかりのある慈心院というところに出家して入っていたが、天文年間初め(1531~1536ごろ)に興綱が芳賀高経や壬生綱房によって幽閉された後、還俗して家督を継いだ。
芳賀高経は近隣の結城氏・小山氏と手を結んで宇都宮家中の権力を掌握していたが、1541年、尚綱は壬生綱房と手を結んで「謀反の疑いあり」と高経を討った。が、これによって今度は綱房の権力が増大する。なんでこの家こんな奴ばっかりなんだ……。
その後の尚綱は家中掌握のため、芳賀高照(高経の子)を那須家へと追放して益子勝宗の三男・芳賀高定を芳賀家に送り込み、下野国において地盤固めを行いながら積極的な勢力拡大に乗り出した。
しかし1549年、喜連川五月女坂の戦いにおいて那須高資を攻めるも、那須家臣・鮎ヶ瀬実光にの矢に当たり戦死。享年37歳。残された子・宇都宮広綱はこの時わずか5歳と幼かった。
もちろん5歳の子供に家臣を抑えられる力があるわけがなく、この機に乗じた壬生綱房によって宇都宮城を奪われ、綱房を筆頭に芳賀高照(※1)、塩谷義孝(※2)ら重臣団に勢力を乗っ取られてしまう。
広綱は芳賀高定により保護され、芳賀氏の本拠・真岡城に逃亡した。宇都宮氏は芳賀高照と壬生綱房の両名が死ぬまでの8年間もの間、本拠地・宇都宮城を失い一時雌伏の時を過ごす事になる。
「信長の野望」(PC)シリーズにおける宇都宮尚綱の能力一覧。
よわい。広綱、国綱と比べても大抵一回り弱いという悲しさ。問題の壬生綱房は義理8(創造では必要忠誠値14)という困った人だが、非常に強いので使いこなしていきたい。余談ながら、初期のシリーズの列伝では尚綱が21代当主と書かれており全員1代ズレている。嵐世記でミスに気付いたのか、以後の列伝では20代になった。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | |||
覇王伝 | 采配 | 72 | 戦闘 | 60 | 智謀 | 53 | 政治 | 51 | 野望 | 65 | ||||
天翔記 | 戦才 | 124(B) | 智才 | 106(C) | 政才 | 102(B) | 魅力 | 72 | 野望 | 66 | ||||
将星録 | 戦闘 | - | 智謀 | - | 政治 | - | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 48 | 戦闘 | 44 | 智謀 | 50 | 政治 | 52 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 47 | 智謀 | 41 | 政治 | 39 | 野望 | 50 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 40 | 知略 | 54 | 政治 | 55 | ||||||||
天下創世 | 統率 | - | 知略 | - | 政治 | - | 教養 | - | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | 38 | 武勇 | 24 | 知略 | 37 | 政治 | 56 | ||||||
創造 | 統率 | 49 | 武勇 | 30 | 知略 | 46 | 政治 | 59 |
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最終更新:2024/04/24(水) 19:00
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