戦艦が簡単に沈むか!! 単語


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戦艦が簡単に沈むか!!とは、2012年に公開されたハリウッド映画「バトルシップ」の台詞である。「でも今の駆逐艦はすごいぞ。最高だ。」「みんないつか死ぬ。だが今日じゃない」などとならぶ本作の名台詞のひとつ。

概要

環太平洋合同演習、通称RIMPACの最中に突如、大気圏外から落下してきた複数の物体。それはエイリアンの船だった。バリアでハワイを外界から隔絶、残された駆逐艦<みょうこう>、USS<サンプソン>、USS<ジョン・ポール・ジョーンズ>も撃沈され、万事休したかに思われたそのとき、主人公アレックス・ホッパーたちの目にとっておきの最終兵器がとびこんでくる。


アイオワ級戦艦USS<ミズーリ>。かつて太平洋戦争時に建造され、いまは観光名所の記念艦として余生をおくっている艦だ。

ホッパーらは<ミズーリ>をたたき起こし、地球を救うためにエイリアンの母船へ舳先をむける。

敵もさるもの、イージス駆逐艦をも轟沈させた兵装で猛攻をくわえてくる。<ミズーリ>もついに被弾。

「大丈夫か!?」

敵兵器のおそろしさを知る駆逐艦乗員の生き残りの問いに対し、<ミズーリ>とともに戦争を生き抜いてきた古老は悠揚迫らず、

「戦艦が簡単に沈むか!!」

と返したのであった。

戦艦不沈伝説

戦艦はもともと、巨砲による大火力と、一般的に想定される交戦距離で自身と同威力の砲に撃たれても耐えられる重装甲が最大の特徴だった。多少の被弾など意に介さず1トンの砲弾を音速以上の存速でぶちこんでくる。それが戦艦の強みであったのだ。
では史実の戦艦がいかに頑丈であったかを簡単に見てみよう。

<大和>が簡単に沈むか!

戦局も押し迫った1945年4月、米軍の攻撃にさらされている沖縄を援護するため、<大和>は巡洋艦<矢矧>、駆逐艦<雪風>、<磯風>、<霞>などをひきいて出撃。

しかし道中で米空母部隊に発見され、絶え間ない熾烈な空襲に見舞われることとなる。

航空支援がなく、制空権を失った状況。
敵機は戦闘機でさえ全機が爆弾やロケットを装備して海を耕してくる。一隻、また一隻と僚艦が沈んでいくなか、<大和>と乗員は決死の対空戦闘を敢行した。同艦の攻撃にあたった米パイロットのなかには「島を攻撃しているかのようだった」と述懐する者や、10回以上も空母へ帰還、補給して再出撃した搭乗員もいるほどで、その頑健さたるや、結果的に日本の建艦技術の高さをしらしめることとなった。

<大和>はけっきょく米空母11隻、米艦載機386機(367機説あり)もの波状攻撃で魚雷10本、中型爆弾5発、数え切れない機銃とロケットの被弾をうけ、世界最大と謳われた威容を九州坊ノ岬沖に沈めた。

なお、魚雷1本であっても、なみの戦艦であれば傾斜、転覆しかねない威力がある。<大和>はでかいくせして航空攻撃になすすべなく沈んだ欠陥戦艦と人口に膾炙されているが、逆にいえばここまで被弾しなければ<大和>は沈まなかったということだ。

実戦という、これ以上ない技術アピールの場で、最強の軍事国家たるアメリカに航空機のみのチキン戦法しかとらせなかった大和は、思いもかけない形見をのこす。終戦をむかえた日本に、敗戦国であるにもかかわらず、造船の発注が各国から相次いだのだ。造船は裾野が広いため多くの雇用を創出できる。ほかならぬ<大和>が日本の造船技術の高さを立証してくれたからこその評価だった。

また、ホテルニューオータニ東京の最上階に鎮座する展望レストランはフロアごと回転することで有名だが、この回転機構を設計したのはだれあろう、大和型戦艦の象徴ともいえる46cm三連装砲の砲塔の設計陣であった。日本を守るために生み出された、2800トンもの砲塔を回転させるオーバーテクノロジーは、21世紀の現代でもなお、形を変えてわれわれを見守っている。

進水から沈没まで4年と8ヶ月という短い生涯の<大和>は、たしかに戦場での戦果は皆無といってよかったかもしれない。だが彼女と乗員たちは、技術という形で、日本の復興を影ながら、それでいて強固にささえてくれたのである。

<武蔵>が簡単に沈むか!

前進基地トラック島も失い、太平洋戦争における初の大規模艦隊どうしの決戦といえるマリアナ沖海戦に完敗した日本にとっては、もはや現状維持だけができうることのせいいっぱいという状況であった。1944年10月、フィリピンに米軍が進攻すると、日本海軍はなりふりかまわぬ特攻作戦を採用。動ける艦艇のすべてをあげて、敵上陸船団の泊地になぐりこみすることになった。

ようするに、日本と南方のあいだを分断されたなら、本国は資源枯渇で干上がる、南方派遣部隊は孤立してなぶり殺しにあう、という最悪の局面をむかえていたのである。

それだけはなんとしても阻止せんとして、<大和>、<武蔵>、<長門>、ほか多数の巡洋艦と駆逐艦を擁する栗田艦隊はブルネイを出航。パラワン水道からシブヤン海を通過し、サンベルナルジノ海峡を抜けてレイテ湾に突入するために北上を開始した。

が、出撃早々、パラワン水道にて米潜水艦に遭遇、<摩耶>と<愛宕>が沈没、<高雄>が大破。貴重な水上戦力である重巡洋艦3隻をいちどに脱落させてしまう。のちに「パラワン水道の悲劇」とよばれた戦闘である。

潜水艦の洗礼だけでは同艦隊の試練は終わらなかった。敵空母の索敵機に発見されてしまったのである。

激烈な対空戦闘の火蓋がきられた瞬間だった。お世辞にも対空射撃能力が高いとはいえない日本側は苦戦に苦戦を強いられた。結果、<武蔵>は全6波、5時間にわたる苛烈な空襲に、航空支援のない状態でさらされることになる。魚雷20本、爆弾17発、至近弾20発以上という、ほかの戦艦なら10回は沈んでいるであろう大被害に、不沈艦もついに力つきる。

これが人類史上最大の海戦、レイテ沖海戦の端緒であることを知るものは、このときはだれひとりとしていなかった。

<武蔵>が姉より被弾に耐えたのは、被害が左右均等で、浸水もまた左右で均等に進んだことがあげられるが、大和型自慢の集中防御構造と、乗員たちの必死のダメコン作業の貢献もまた大なりであることはたしかだろう。<武蔵>の散りざまについては「戦艦武蔵のさいご」(著・渡辺清。童心社)にくわしい。

進水から沈没まで3年11ヶ月の艦歴であった。

<榛名>が簡単に沈むか!

太平洋戦争中、日本が保有していた12隻の戦艦のうち、もっとも老齢だったのが金剛型4姉妹であったが、もっともめざましい活躍をしたのも、またこの金剛型であった。最大の理由は、日本の戦艦のなかでもっとも速い30ノットという高速をもっていたからである。当時すでに主役の座を確立しつつあった空母に護衛として随伴できて、かつ、戦艦の火力と装甲をあわせもつということは大きな武器といえた。

とくに<榛名>は、金剛型のみならず、アメリカのアイオワ級戦艦の登場まで、太平洋において最高速の30・5ノットの俊足をほこる戦艦だった。

ゆえに武勲めでたく、南雲機動部隊の直衛を皮切りに、南太平洋海戦、インド洋、ミッドウェー海戦ともちまえの高速をいかして姉妹ともども縦横無尽の活躍をしただけでなく、かのガダルカナル島飛行場砲撃にも長姉<金剛>とともに大戦果をおさめるにいたる。

しかし、奮闘むなしく戦局は日増しにわれに不利となり、米軍は破竹のいきおいでフィリピンにせまった。これをむかえうつ日本海軍最後の大海戦、レイテ沖海戦の序盤で至宝<武蔵>が没し、<榛名>は<金剛>とともにレイテ沖大追撃戦、いわゆるサマール沖海戦を遂行した。この一連の戦いで日本海軍は壊滅といってよいほど艦艇を喪失する。

<榛名>の栄光の日々も終わりを告げようとしていた。金剛型で唯一生き残り、祖国に帰還できたものの、内地では燃料が底をつき、30ノットの高速を発揮する機会は二度となかった。<榛名>にできることは、ただ敵機を避けて、あっちの島影、こっちの島影へと江田島沖を逃げまわるだけだった。趨勢が完全に定まった1945年7月、呉は大空襲をうける。真珠湾の意趣返しのごとき猛攻に、動けぬ<榛名>は大破着底。着底とはすなわち海底に船底が接地することで、浅瀬だからこそ海没していないだけの、事実上の沈没状態である。だが<榛名>乗員らは「着底したんならこれ以上沈まねえ!」とかえって気炎をあげたという。

同年8月6日、朝8時15分。広島の方角から突如として閃光がはしり、ついで沖天めがけ奔騰する巨大な雲を呉からでも仰ぎ見ることができた。沈坐している<榛名>は、ただみることしかできなかった。

終戦後、<榛名>は解体。その資材は戦後復興のために供された。ありし日は姉妹らとともに海原を駆けて敵を討ち、戦いが終わったあとはその身を祖国にささげたのである。

進水から解体完了まで32年と5ヶ月。戦闘艦としては長く、また多難な生涯であった。

<伊勢>が簡単に沈むか!

よく扶桑型は欠陥戦艦で伊勢型は改良されているから優秀と評されることがある。しかし、伊勢型とて居住性の悪さと、低乾舷のための凌波性の悪さ(はやい話がよく揺れる)、副砲配置のまずさ、建造中に生起したユトランド沖海戦の戦訓が反映できていない防御力不足、23ノットという速力の低さなど、さまざまな欠陥をかかえていた。そんなわけで伊勢型もまた扶桑型のようにつぎつぎと近代化改装をうけることになる。

ユトランド沖海戦の戦訓についても軽くふれておこう。これ以前の艦砲は敵に砲口を直接むけて撃つ直射だったのだが、砲の大口径化がすすみ、射程がのびたことで、放物線をえがくように撃つ曲射に移行しつつあった。その曲射砲がまともにぶつかりあったのがユトランド沖海戦である。放物線をえがくということは空から砲弾が落ちてくるということだ。つまり甲板に着弾してしまうのである。いままでのように垂直面だけ防御をかためても意味がない。甲板のような水平面も防御しなければならない・・・というわけだ。ほかにも、戦艦といえども速度も重要だということが実証された。これ以前の思想で設計された軍艦をプレ・ユトランド型、この戦訓をとりいれたものをポスト・ユトランド型という。新造時の伊勢型はまぎれもなくプレ・ユトランド型だったのだ。

で、最初の改装からあしかけ9年。昭和12年7月に改装後の英姿をうかべた<伊勢>は、長門型につぐ新鋭戦艦に生まれ変わっていた。25ノットの速力は、一流とまではいえないが、じゅうぶんに一線を張れるものであった。

昭和17年のミッドウェー海戦における歴史的大敗で大型空母4隻を失ったことで、伊勢型におおきな転機がおとずれる。航空戦艦への改造である。5、6番砲塔を撤去して格納庫と作業甲板をのせ、艦上爆撃機を艦載して、喪失した空母の補充をはたそうという算段だった。搭載機はのちに瑞雲に変更され、<伊勢>は大改装を完了させるが、とんでもない誤算があった。瑞雲の生産がまにあわなかったのである。

結果、無意味に砲をおろしただけの状態でレイテ沖海戦にとびこむことになってしまう。

だが、この囮作戦、世にいうエンガノ岬沖海戦で、<伊勢>が神業をみせることになる。

脳筋、もとい猛牛ハルゼー提督隷下の執拗な空襲によって、空母<瑞鶴>、<瑞鳳>、<千歳>、<千代田>、巡洋艦<多摩>、駆逐艦<秋月>、<初月>が散華していくなか、<伊勢>はひたすら取り舵を切りつづけることで爆撃を回避。無傷とまではいかないが無事にこの難局をのりきったのである。その操艦たるや、<伊勢>の航跡がみごとなまでに円になるほどであった。撃たれても耐えられる戦艦は数あれど、よける戦艦など伊勢型くらいなものであろう。

姉妹艦<日向>とともに呉に帰還した<伊勢>に、新たな任務があたえられた。敵の制海権下の南シナ海をつっきってシンガポールに行き、資源をもってかえってくる輸送作戦である。<伊勢>と<日向>は巡洋艦<大淀>らとともに出撃。例によって潜水艦にみつかったり100機ちかい敵大編隊に襲われたりする。そのたびに艦隊はスコールに逃げ込み、後半は潜水艦がちかよれない浅瀬をえらんで進んだりと地の利を活かして無事帰還。こんどは無傷での完遂であった。格納庫には燃料のつまったドラム缶が林立し、ほかにも生ゴムやスズ、タングステン、もろもろの天然資源が輸送され、司令部を狂喜乱舞させた。

そんな<伊勢>にも運命のときがおとずれる。燃料もつき、呉に繋留され、1945年3月から連日つづいた空襲に敢闘するも、ついに7月28日、11発の直撃弾をうけて大破着底。2番砲塔は最大仰角で敵機の跳梁する空をにらんだまま停止した。それを見た乗員たちは「<伊勢>はまだ戦うつもりなのだ」と胸を打たれたという。

日本海軍の艦艇で最後の発砲をしたのは駆逐艦<響>とされているが、日本の戦艦で最後に発砲したのは<伊勢>だった。彼女は故郷をまもるため、最後の最後まで戦いぬいたのである。終戦後は解体されている。

進水から解体までおよそ29年。波乱万丈の艦歴であった。

<長門>が簡単に沈むか!

41cm砲を8門という、かつてない大火力を有し、太平洋戦争がはじまるまで日本海軍の最大艦だったのが長門型である。攻撃力、防御力、ともに長門型は本格的なポスト・ユトランド型戦艦の一番艦で、戦艦の設計上、それまでとは一線を画す名艦と断言してよい。

とくに防御は徹底した集中防御方式を採用しており、水中防御も二重の防御縦隔壁と、水密区画の細分化により、前例のない強力なものとなった。ものすごく簡単にいうと、ダンボール箱をならべたような構造と考えてほしい。横腹に穴を開けられても、そこをさっさと閉鎖してしまえば、水没するのはその区画だけですむ、という寸法である。

姉妹艦<陸奥>とともに連合艦隊旗艦を交互につとめ、真珠湾攻撃の命令も発したことのある、まさに日本の象徴として国民にひろく愛された戦艦であったが、時代が航空主兵にうつりゆくなか、<長門>はなかなか前線にでて直接戦火をまじえる機会にめぐまれなかった。ようやく敵艦とまみえたのはマリアナ沖海戦である。しかし、敵戦艦をたたきのめすべく誕生した41cm砲は、いまや飛行機にむけられるものとなっていた。サマール島沖海戦では米護衛空母部隊に念願の対艦射撃をおこなうが、戦果はえられなかった。

内地で終戦をむかえた<長門>は、アメリカに原爆実験の標的艦として接収されることとなった。アメリカとしては日本の象徴である<長門>を焼却処分することで国民を屈服させたい、復讐を果たしたいという理由もあったが、なによりソ連に同艦をとられたくないという事情が大きかった。軍艦、とくに戦艦の建造技術が遅れに遅れていたソ連にとって、<長門>は喉から手がでるほどほしい艦であった。あらたな仮想敵国であるソ連には渡したくないが、もっていてもしかたがない、ならほかの老朽艦といっしょに原爆実験につかおう・・・こういった流れで<長門>はクロスロード作戦に参加させられることになったのである。

1946年7月1日におこなわれた第1実験では、核爆弾は高度158m、長門から水平方向に1・5kmの距離で炸裂。軽巡<酒匂>、米駆逐艦<ラムソン>など5隻が沈没。しかし<長門>は表面が多少融解しただけで航行にさえ問題がない状態だった。

なんとかして沈めてやろうと、アメリカは<長門>の船体にいくつもの穴をあけ、機雷までくくりつけた。こうして同25日、第2実験が開始される。こんどは水中での炸裂で、しかも1000mと離れていなかったが、さきに述べた水中防御の強化が功奏し、<長門>は耐えた。祖国を2度も蹂躙した許されざる炎に対し、彼女はやはり2度耐えてみせたのである。それはまるで唯一の被爆国である祖国の核兵器への怒りを代弁しているかのようであった。同時に<長門>は、しょせん後進国と主要各国からさげすまれていた日本の造船技術の名誉と、日本海軍の誇りを示したのである。

しかし、第2実験から4日後の朝、海上に<長門>の艦影はなかった。終戦からまる1年が経とうとしていたなかにあって、本来の戦艦としてはちがう形とはいえ戦後を戦った<長門>は、みずからにあたえられた役目をまっとうし、最後は人目につくことなく夜半のうちに波間に沈んでいったのである。

なお、クロスロード作戦で被爆しながらも沈没しなかった艦は存外に多く、米戦艦<ネヴァダ>、<ニューヨーク>、<ペンシルヴェニア>、米空母<インディペンデンス>、独重巡<プリンツ・オイゲン>などが生き残っている。これは核兵器開発者や運用側にすくなからず影響をあたえた。装甲され密閉された艦船に対しては核爆発では思うように被害をあたえられないということがあきらかとなったのだ。しかも一網打尽をふせぐために艦どうしが数海里の間隔をあけていればもっと被害は局限される。

効果がすくない、というのは核兵器廃絶デモの数億倍の効果がある。冷戦期にはミサイルのみならず砲弾、魚雷、地雷までも核兵器化されたが、クロスロード作戦の参加艦があっさり沈んでいれば、世界の核軍拡はよりいっそう推進していたことだろう。<長門>たちは、その身を犠牲にして、世界の核軍拡に一定の歯止めをかけたのである。

進水から沈没まで26年と8ヶ月。連合艦隊の栄枯盛衰を閲し、祖国の平和に多大な寄与を果たした生涯であった。

<大和>なんか作らずに飛行機つくってりゃよかったのにwww日本馬鹿じゃね?www

<大和>、<長門>は艦隊決戦のために建造されたもののその機会をえられなかった薄幸の戦艦として現代に伝わっている。日本のみならず、第一次大戦以降はどの国の戦艦も似たり寄ったりの冷遇にあった。

考えてもみてほしい。戦艦の運用国が想定していた艦隊決戦とは、「ヤアヤア我こそは・・・」と名乗りをあげてはじめる合戦のようなものだった。これが現実で起きると、まともな戦局眼をもった指揮官が双方にいれば、じぶんが有利か不利かくらいは即座に判断できる。不利とわかれば決戦になど応じるはずもない。とっとと逃げる。戦争はスポーツとちがってかならずどちらかが有利であったり不利であったりするからだ。よって戦艦どうしの艦隊決戦はなかなか起きなくなる。戦艦はすでに第一次大戦時から斜陽のきざしをみせていたといえるかもしれない。とくに<大和>は航空攻撃に敗れさったから、当項目のような感想をいだく人も日本には多い。

ではなぜ日本をはじめ、当時の世界の海軍はイケイケドンドンで新戦艦を配備しつづけたのだろうか。

それは、戦艦が最強の攻撃力をもつ戦略兵器であることには疑いの余地がなかったからである。

艦隊決戦が起きないのはじゅうぶんな戦力があっておたがいがおたがいの反撃を恐れて手出しできないからだ。この戦力とは戦艦が基幹となる。戦艦がなければ、相手は遠慮なく本国まで攻めてくるだろうし、無理難題な要求をつきつけてきたりするだろう。抑止力として戦艦は必要不可欠だったのだ。

さて、ここまで読んで、現代にも戦艦と似たような兵器があることにお気づきになられただろうか。最強の攻撃力をもち、その保有数が軍事力、ひいては国力のバロメーターであり、国際的な発言力を保障する兵器・・・。

そう、核兵器である。

いまのところ、核兵器にかわる兵器は登場していない。とうぶんのあいだ、核兵器を陳腐化させ、時代遅れにせしめる兵器は現われないだろう。いつかは登場するかもしれないが、いまではない。
2015年5月、終戦70周年の節目におこなわれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議では、全会一致が原則となっている最終文書の採択ができず、事実上なんの成果もあげられないまま閉幕した。原因をかみくだいていうと、核保有国がその特権を手放したがらないエゴイズムによるものという一語につきる。核保有国にあらずんば主要国にあらず。むかしはそれが戦艦だったのだ。

何十年さきか、何百年さきかはわからないが、核兵器にとってかわるもの、新しい概念が世にでたとき、われわれは未来の人間たちから笑われているだろう。「なぜ巨費を投じ環境汚染のリスクまでおかして核兵器なんて時代遅れなものに固執していたんだ?」と。当時の人間にはほかに選択肢などなかったのである。

核兵器にかわるものを想像できる者だけが、当時の対艦巨砲主義を笑う資格をもつのである。

<陸奥>が簡単に沈むか!

あ?ああそうだな……いい船だったよ

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関連項目

  • バトルシップ
  • でも今の駆逐艦はすごいぞ。最高だ。
  • 第二次世界大戦

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