戦艦が簡単に沈むか!! 単語


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戦艦が簡単に沈むか!!とは、2012年に公開されたハリウッド映画「バトルシップ」の台詞である。「でも今の駆逐艦はすごいぞ。最高だ。」「みんないつか死ぬ。だが今日じゃない」等と並ぶ本作の名台詞の一つ。

概要

環太平洋合同演習、通称RIMPACの最中に突如、大気圏外から落下してきた複数の物体。それはエイリアンの宇宙船だった。バリアでハワイを外界から隔絶、残された海上自衛隊護衛艦<みょうこう>、米海軍駆逐艦USS<サンプソン>、USS<ジョン・ポール・ジョーンズ>も撃沈され、万事休したかに思われたその時、主人公アレックス・ホッパー達の目にとっておきの最終兵器が飛び込んで来る。


アイオワ級戦艦USS<ミズーリ>。かつて太平洋戦争時に建造され、今は観光名所の記念艦として余生を送っている巨大戦艦だ。

ホッパーらは<ミズーリ>を叩き起こし、地球を救うためにエイリアンの母船へ舳先を向ける。

敵もさるもの、イージス駆逐艦をも轟沈させた兵装で猛攻を加えて来る。<ミズーリ>もついに被弾。

「大丈夫か!?」

敵兵器の恐ろしさを知る駆逐艦乗員の問いに対し、<ミズーリ>と共に戦争を生き抜いてきた古老は悠揚迫らず、

「戦艦が簡単に沈むか!!」

と返したのであった。

戦艦不沈伝説

戦艦とは元々、巨砲による大火力と、一般的に想定される交戦距離で自身と同威力の砲に撃たれても耐えられる重装甲が最大の特徴だった。多少の被弾など意に介さず1トンの砲弾を音速以上の撃速でぶちこんでくる。それが戦艦の強みであったのだ。

しかし、いくら戦艦といえど、イージス艦をいともたやすく撃沈せしめるエイリアンの兵器を受けてなお戦闘の続行が可能なのだろうか。


では史実の戦艦がいかに頑丈であったかを簡単に見てみよう。

<大和>が簡単に沈むか!

戦局も押し迫った1945年4月、米軍の攻撃に晒されている沖縄を援護するため、<大和>は巡洋艦<矢矧>、駆逐艦<雪風>、<磯風>、<霞>などを率いて出撃。

しかし道中で米空母部隊に発見され、絶え間ない熾烈な空襲に見舞われることとなる。

航空支援がなく、制空権を失った状況。
敵機は戦闘機でさえ全機が爆弾やロケットを装備して海を耕してくる。一隻、また一隻と僚艦が沈んでいくなか、<大和>と乗員は決死の対空戦闘を敢行した。同艦の攻撃にあたった米パイロットのなかには「島を攻撃しているかのようだった」と述懐する者や、何回も空母へ帰還、補給して再出撃した搭乗員もいるほどで、その頑健さたるや、結果的に日本の建艦技術の高さを知らしめる事となった。

<大和>は結局、米空母11隻、米艦載機386機(367機説あり)もの波状攻撃で魚雷10本、中型爆弾5発、数え切れない機銃とロケットの被弾を受け、世界最大と謳われた威容を九州坊ノ岬沖に沈めた。

なお、魚雷1本であっても、並の戦艦であれば傾斜、転覆しかねない威力がある。<大和>はデカい癖して航空攻撃になすすべなく沈んだ欠陥戦艦と人口に膾炙されているが、逆にいえばここまで被弾しなければ<大和>は沈まなかったということだ。

実戦という、これ以上ない技術アピールの場で、最強の軍事国家たるアメリカに航空機による空襲しかさせなかった大和は、思いも掛けない形見を遺す。終戦を迎えた日本に、敗戦国であるにも関わらず、造船の発注が各国から相次いだのだ。造船は裾野が広いため多くの雇用を創出できる。他ならぬ<大和>が日本の造船技術の高さを立証してくれたからこその評価だった。

また、ホテルニューオータニ東京の最上階に鎮座する展望レストランはフロアごと回転することで有名だが、この回転機構を設計したのは誰であろう、大和型戦艦の象徴ともいえる46cm三連装砲の砲塔の設計陣であった。日本を守るために生み出された、2800トンもの砲塔を回転させるオーバーテクノロジーは、21世紀の現代でもなお、形を変えて我々を見守っている。

進水から沈没まで4年と8ヶ月という短い生涯の<大和>は、確かに戦場での戦果は皆無と言って良かったかもしれない。だが彼女と乗員達は、技術という形で、日本の復興を影ながら、それでいて強固に支えてくれたのである。

<武蔵>が簡単に沈むか!

前進基地トラック島も失い、太平洋戦争における初の大規模艦隊同士の決戦といえるマリアナ沖海戦に完敗した日本にとっては、もはや現状維持だけが出来得る事の精一杯という状況であった。1944年10月、フィリピンに米軍が進攻すると、日本海軍は形振り構わぬ特攻作戦を採用。連合艦隊の残存艦艇全てを以て、敵上陸船団の泊地に殴り込みすることになった。

要するに、日本と南方の間を分断されたなら、本国は資源枯渇で干上がる、南方派遣部隊は孤立してなぶり殺しにあう、という最悪の局面を迎えていたのである。

それだけはなんとしても阻止せんとして、<大和>、<武蔵>、<長門>、ほか多数の戦艦、巡洋艦と駆逐艦を擁する栗田艦隊はブルネイを出航。パラワン水道からシブヤン海を通過し、サンベルナルジノ海峡を抜けるという航路でレイテ湾に突入するために北上を開始した。

が、出撃早々、パラワン水道にて米潜水艦に遭遇、<摩耶>と<愛宕>が沈没、<高雄>が大破。貴重な水上戦力である重巡洋艦3隻をいちどに脱落させてしまう。のちに「パラワン水道の悲劇」とよばれた戦闘である。

潜水艦の洗礼だけでは同艦隊の試練は終わらなかった。敵空母の索敵機に発見されてしまったのである。

激烈な対空戦闘の火蓋が切られた瞬間だった。お世辞にも対空射撃能力が高いとはいえない日本側は苦戦に苦戦を強いられた。結果、<武蔵>は全6波、5時間にわたる苛烈な空襲に、航空支援のない状態でさらされることになる。魚雷20本、爆弾17発、至近弾20発以上という、ほかの戦艦なら10回は沈んでいるであろう大被害に、不沈艦もついに力つきる。

これが人類史上最大の海戦、レイテ沖海戦の端緒であることを知るものは、この時は誰一人として居なかった。

<武蔵>が姉より被弾に耐えたのは、被害が左右均等で、浸水もまた左右で均等に進んだことがあげられるが、大和型自慢の集中防御構造と、乗員たちの必死のダメコン作業の貢献もまた大なりであることはたしかだろう。<武蔵>の散りざまについては「戦艦武蔵のさいご」(著・渡辺清。童心社)にくわしい。

進水から沈没まで3年11ヶ月の艦歴であった。

<榛名>が簡単に沈むか!

太平洋戦争中、日本が保有していた12隻の戦艦のうち、最も老齢だったのが金剛型4姉妹であったが、最もめざましい活躍をしたのも、またこの金剛型であった。最大の理由は、日本の戦艦のなかで最も速い30ノットという高速を持っていたからである。当時すでに主役の座を確立しつつあった空母に護衛として随伴できて、かつ、戦艦の火力と装甲を併せ持つと言う事は大きな武器と言えた。

とくに<榛名>は、金剛型のみならず、アメリカのアイオワ級戦艦の登場まで、太平洋において最高速の30・5ノットの俊足を誇る高速戦艦だった。

ゆえに武勲めでたく、南雲機動部隊の直衛を皮切りに、南太平洋海戦、インド洋、ミッドウェー海戦ともちまえの高速を活かして姉妹ともども縦横無尽の活躍をしただけでなく、かのガダルカナル島飛行場砲撃でも長姉<金剛>とともに大戦果を収めるに至る。

しかし、奮闘空しく戦局は日増しに我に不利となり、米軍は破竹の勢いでフィリピンに迫った。これを迎え撃つ日本海軍最後の大海戦、レイテ沖海戦の序盤で至宝<武蔵>が没し、スリガオ海峡では<扶桑>、<山城>率いる西村艦隊が作戦目的であったレイテ突入に駆逐艦<時雨>以外戦没という最悪のかたちで失敗、エンガノ岬沖にて<瑞鶴>をはじめとした空母が全滅する苦境のなか、<榛名>は<金剛>とともに一大遭遇戦、いわゆるサマール沖海戦を遂行した。この一連の戦いで日本海軍は壊滅といってよいほど艦艇を喪失する。

<榛名>の栄光の日々も終わりを告げようとしていた。金剛型で唯一生き残り、祖国に帰還できたものの、内地では燃料が底をつき、30ノットの高速を発揮する機会は二度となかった。<榛名>にできることは、ただ敵機を避けて、あっちの島影、こっちの島影へと江田島沖を逃げまわるだけだった。趨勢が完全に定まった1945年7月、呉は大空襲をうける。真珠湾の意趣返しのごとき猛攻に、動けぬ<榛名>は大破着底。着底とはすなわち海底に船底が接地することで、浅瀬だからこそ海没していないだけの、事実上の沈没状態である。だが<榛名>乗員らは「着底したんならこれ以上沈まねえ!」とかえって気炎をあげたという。

同年8月6日、朝8時15分。広島の方角から突如として閃光が奔り、次いで沖天めがけ奔騰する巨大な雲を呉からでも仰ぎ見ることができた。沈坐している<榛名>と乗員たちは、ただ見る事しか出来なかった。

終戦後、<榛名>は解体。その資材は戦後復興のために供された。在りし日は姉妹らとともに海原を駆けて敵を討ち、戦いが終わったあとはその身を祖国にささげたのである。

進水から解体完了まで32年と5ヶ月。戦闘艦としては長く、また多難な生涯であった。

<伊勢>が簡単に沈むか!

よく扶桑型は欠陥戦艦で伊勢型は改良されているから優秀と評されることがある。しかし、伊勢型とて居住性の悪さと、低乾舷のための凌波性の悪さ(早い話が波を被りまくって甲板作業員さんが死ぬ)、副砲配置のまずさ、建造中に生起したユトランド沖海戦の戦訓が反映できていない防御力不足、23ノットという速力の低さなど、様々な欠陥を抱えていた。そんなわけで伊勢型もまた扶桑型のように次々と近代化改装をうけることになる。

ユトランド沖海戦の戦訓についても軽くふれておこう。これ以前の艦砲は敵に砲口を直接むけて撃つ直射だったのだが、砲の大口径化がすすみ、射程がのびたことで、放物線を描くように撃つ曲射に移行しつつあった。その曲射砲がまともにぶつかりあったのがユトランド沖海戦である。放物線を描くということは空から砲弾が落ちてくるということだ。つまり甲板に着弾してしまうのである。いままでのように垂直面だけ防御をかためても意味がない。甲板のような水平面も防御しなければならなくなる。ほかにも、戦艦といえども速度も重要だということが実証された。これ以前の思想で設計された軍艦をプレ・ユトランド型、この戦訓をとりいれたものをポスト・ユトランド型という。新造時の伊勢型はまぎれもなくプレ・ユトランド型だったのだ。

で、最初の改装から足掛け9年。昭和12年7月に改装後の英姿をうかべた<伊勢>は、長門型につぐ新鋭戦艦に生まれ変わっていた。25ノットの速力は、一流とまでは言えないが、十分に一線を張れるものであった。

昭和17年のミッドウェー海戦における歴史的大敗で大型空母4隻を失ったことで、伊勢型に大きな転機が訪れる。航空戦艦への改造である。5、6番砲塔を撤去して格納庫と作業甲板をのせ、艦上爆撃機を艦載して、喪失した空母の補充を果たそうという算段だった。搭載機はのちに瑞雲に変更され、<伊勢>は大改装を完了させるが、とんでもない誤算があった。瑞雲の生産が間に合わなかったのである。

結果、無意味に砲をおろしただけの状態でレイテ沖海戦に飛び込む事になってしまう。

だが、この囮作戦、世にいうエンガノ岬沖海戦で、<伊勢>が神業を見せることになる。

猛牛ハルゼー提督隷下の執拗な空襲によって、空母<瑞鶴>、<瑞鳳>、<千歳>、<千代田>、巡洋艦<多摩>、駆逐艦<秋月>、<初月>が散華していくなか、<伊勢>はひたすら取り舵を切りつづけることで爆撃を回避。無傷とまではいかないが無事にこの難局をのりきったのである。その操艦たるや、<伊勢>の航跡が見事なまでに円になるほどであった。撃たれても耐えられる戦艦は数あれど、よける戦艦など伊勢型くらいなものであろう。

姉妹艦<日向>とともに呉に帰還した<伊勢>に、新たな任務があたえられた。敵の制海権下の南シナ海を突っ切ってシンガポールに行き、資源をも持って帰ってくる輸送作戦である。<伊勢>と<日向>は巡洋艦<大淀>らとともに出撃。例によって潜水艦に見つかったり100機近い敵大編隊に襲われたりするが、そのたびに艦隊はスコールに逃げ込み、後半は潜水艦が近寄れない浅瀬を選んで進んだりと地の利を活かして無事帰還。今度は無傷での完遂であった。格納庫には燃料の詰まったドラム缶が林立し、ほかにも生ゴムやスズ、タングステン、諸々の天然資源が輸送され、司令部を狂喜乱舞させた。

そんな<伊勢>にも運命の時が訪れる。燃料も尽き、呉に繋留され、1945年3月から連日続いた空襲に敢闘するも、ついに7月28日、11発の直撃弾をうけて大破着底。2番砲塔は最大仰角で敵機の跳梁する空をにらんだまま停止した。それを見た乗員たちは「<伊勢>はまだ戦うつもりなのだ」と胸を打たれたという。

日本海軍の艦艇で最後の発砲をしたのは駆逐艦<響>とされているが、日本の戦艦で最後に発砲したのは<伊勢>だった。彼女は故郷を護る為、最後の最後まで戦い抜いたのである。終戦後は解体されている。

進水から解体までおよそ29年。波乱万丈の艦歴であった。

<長門>が簡単に沈むか!

正41cm砲を8門という、かつてない大火力を有し、太平洋戦争が始まるまで日本海軍の最大艦だったのが長門型である。攻撃力、防御力、ともに長門型は本格的なポスト・ユトランド型戦艦の一番艦で、戦艦の設計上、それまでとは一線を画す名艦と断言してよい。

特に防御は徹底した集中防御方式を採用しており、水中防御も二重の防御縦隔壁と、水密区画の細分化により、前例のない強力なものとなった。ものすごく簡単にいうと、ダンボール箱をいくつもならべたような構造と考えてほしい。横腹に穴を開けられても、部屋が細かく区切られているので、そこをさっさと閉鎖してしまえば水没するのはその区画だけですむ、という寸法である。

姉妹艦<陸奥>とともに連合艦隊旗艦を交互に務め、かの関東大震災の折には救援物資を積んで最大速度で東京へ急行したり、真珠湾攻撃の命令も発したことのある、まさに日本の象徴として国民に広く愛された戦艦であったが、時代が航空主兵に移ろいゆく中、<長門>はなかなか前線にでて直接戦火を交える機会に恵まれなかった。ようやく敵艦と見えたのはマリアナ沖海戦である。しかし、敵戦艦を叩きのめすべく誕生した41cm砲は、今や飛行機に向けられるものとなっていた。サマール島沖海戦では米護衛空母部隊に念願の対艦射撃を行うが、戦果は得られなかった。

内地で終戦を迎えた<長門>は、アメリカに原爆実験の標的艦として接収されることとなった。アメリカとしてはべつに嫌がらせというよりソ連に同艦をとられたくないという事情が大きかった。軍艦、とくに戦艦の建造技術が遅れに遅れていたソ連にとって、<長門>は喉から手が出るほど欲しい艦であった。あらたな仮想敵国であるソ連には渡したくないが、かといって自分らが持っていても仕方がない、ならほかの老朽艦と一緒に原爆実験に使おう・・・こういった流れで<長門>はクロスロード作戦に参加させられることになったのである。

1946年7月1日におこなわれた第1実験では、核爆弾は高度158m、長門から水平方向に1・5kmの距離で炸裂。軽巡<酒匂>、米駆逐艦<ラムソン>など5隻が沈没。しかし<長門>は表面が多少融解しただけで航行にさえ問題がない状態だった。

同25日に実施された第2実験では、水中での炸裂で、しかも1000mと離れていなかったが、先に述べた水中防御の強化が功奏し、<長門>は耐え抜いた。祖国を2度も蹂躙した許されざる炎に対し、彼女はやはり2度耐えてみせたのである。それはまるで唯一の被爆国である祖国の核兵器への怒りを代弁しているかのようであった。同時に<長門>は、所詮は後進国と主要各国から蔑まれていた日本の造船技術の名誉と、日本海軍の誇りを示したのである。また、『長門沈マズ』の報を聞いた<長門>の元艦長夫人は「幾万もの英霊達が水底を支えているのですよ」と述べたと言う。

しかし、第2実験から4日後の朝、海上に<長門>の艦影はなかった。終戦から丸1年が経とうとしていた中にあって、本来の戦艦としては違う形とはいえ戦後を戦った<長門>は、自らに与えられた役目を全うし、最期は己の死に様を衆目に晒す事を拒むかのように、人目につくことなく夜半のうちに波間に沈んでいったのであった。

なお、クロスロード作戦で被爆しながらも沈没しなかった艦は存外に多く、米戦艦<ネヴァダ>、<ニューヨーク>、<ペンシルヴェニア>、米空母<インディペンデンス>、独重巡<プリンツ・オイゲン>などが生き残っている。これは核兵器開発者や運用側に少なからず影響を与えた。装甲され密閉された艦船に対しては核爆発では思うように被害を与えられないと言う事が明らかになったのだ。しかも一網打尽を防ぐために艦同士が数海里の間隔をあけていればもっと被害は局限される。

効果が少ない、というのは核兵器廃絶デモの数億倍の効果がある。冷戦期にはミサイルのみならず砲弾、魚雷、地雷までも核兵器化されたが、クロスロード作戦の参加艦があっさり沈んでいれば、世界の核軍拡はよりいっそう推進していたことだろう。<長門>たちは、その身を犠牲にして、世界の核軍拡に一定の歯止めをかけたのである。

進水から沈没まで26年と8ヶ月。連合艦隊の栄枯盛衰を閲し、祖国の平和に多大な寄与を果たした生涯であった。

<ビスマルク>が簡単に沈むか!

独戦艦<ビスマルク>は、ビスマルク級戦艦のネームシップとして1940年8月に就役し、大西洋に君臨した、当時世界最大の超弩級戦艦だった。
その名は「祖国の統一は鉄と血によってのみなしとげられる」との演説から鉄血宰相とよばれ、純粋に利益目的で数々の戦争を起こし、すべてに勝ってねらいどおりに終戦に導き、ドイツ統一をなしとげた救国の英雄オットー・フォン・ビスマルクに由来する。

この戦艦の特徴は、なんといっても防御力にある。装甲材にはニッケル、クロム、モリブデン鋼からなるヴォタンをもちい、その防御重量は、排水量50900トンのうち実に40パーセント。
それでいて速力は高速戦艦の名に恥じない30・1ノット。攻撃力も、工業立国ドイツの光学技術が投入された光学式射撃管制装置にささえられた、当時の新鋭戦艦の標準たる38cmを連装砲で4基そなえていた。

ただ、垂直面の防御は固いが、甲板のような水平面の装甲はいささか難があった。いわゆるプレ・ユトランド型の旧態依然とした設計が残っていたのである。なぜか?

ビスマルク級戦艦の生い立ちをたどるにあたり、ヴェルサイユ体制を無視することはできない。

第一次大戦終結後に結ばれたヴェルサイユ条約は敗戦国ドイツにとって過酷きわまるものだった。当時のドイツの国家予算20年ぶんにあたる1320億金マルクの制裁金陸海軍の大幅な縮小戦車、軍用機、潜水艦の保有禁止、とどめに排水量1万トン以上の艦艇の建造禁止などである。つまり戦艦が建造できなくなったのだ。ドイツは農業用トラクターと偽って戦車をつくったり、どうみても爆撃機な飛行機を「いやいやこれはただの連絡機です」と飛ばして航空機技術を発展、継承させたりと涙ぐましい努力をつづけたが、戦艦はどうにもならなかった。戦艦はボクシングでいうヘヴィー級なのに、フライ級までしか体重を増やしちゃダメといわれたようなものだからだ。

1万トン以下という制限のために、リベットを使わない電気溶接工法でぎりぎりまでダイエットしたポケット戦艦装甲艦を誕生させたが、やはり他国の戦艦と殴りあうなど無理な相談であった。

ヒトラーが条約を破棄したことで戦艦建造が解禁されたものの、15年の空白は大きかった。戦艦の建艦技術が失われてしまっていたのである。よって新鋭戦艦の技術を取り入れることはできず、技術者たちは最後にドイツが戦艦を保有していた第一次大戦の前時代的な設計で建造するしかなかったのだ。

ともかくも<ビスマルク>はドイツ第三帝国栄光の旗手として、1941年5月、重巡<プリンツ・オイゲン>とともにゴーテンハーフェンを抜錨した。同国にとって待望久しい戦艦による通商破壊、ライン演習作戦の発動である。

主敵たる英国は島国であるがゆえ、通商破壊で兵糧攻めすれば孤立し、やがては物資が枯渇してドイツに屈服することだろう。

この巨艦の跳梁を英国が座して静観するはずもなかった。捜索にあたっていた英重巡<サフォーク>が<ビスマルク>と<プリンツ・オイゲン>を発見。急報にアドミラル級巡洋戦艦<フッド>とキングジョージⅴ級戦艦<プリンス・オブ・ウェールズ>が駆けつける。ここに、大西洋へ抜けようとする<ビスマルク>らと、それを阻止しようと立ちはだかる英艦隊とで海戦が勃発した。「デンマーク海峡の戦い」である。

巡洋戦艦<フッド>は、1920年の就役時には世界最大の軍艦で、その大きさと、艦影の美しさ、高速戦艦と名乗ってもよいほどの攻撃力などから、英国民にも「強大なフッド」と親しまれ、英国海軍の象徴とまでいわれた誉れ高き艦だった。日本でいう<長門>のような存在といえよう。

砲撃開始から1分もしないうちに、その<フッド>のメインマストに<プリンツ・オイゲン>の砲弾が命中した。負けじと<ビスマルク>も3斉射めで<フッド>を夾叉。第5斉射めの射弾は、もののみごとに<フッド>に直撃。弾薬庫に誘爆した<フッド>は大爆発を起こし、真っ二つに折れ、数百mにもなんなんとする火柱をあげて、文字通り轟沈したのだった。

ヴェルサイユ条約の締結から21年。戦艦<ビスマルク>は長らく英国民に愛されたマイティ・フッドをたった一発で撃沈し、その天に挑戦するかのような火柱と黒煙をもって、臥薪嘗胆、ドイツ帝国復活の狼煙をあげたのである。

つづいて<プリンス・オブ・ウェールズ>にも<ビスマルク>の巨砲は矛先をむけ、光学式射撃管制装置に裏づけされた正確な砲撃をくわえた。結果、<プリンス・オブ・ウェールズ>は司令部が破壊され、さらに3発くらって戦闘続行不能となり、一時撤退。だが黙ってやられる大英帝国海軍ではない。<プリンス・オブ・ウェールズ>は退却するさいの振り向きざま、主砲弾3発を<ビスマルク>にお見舞いしていたのだ。<ビスマルク>はこれで浸水し、2000トンもの海水を飲むはめになる。

勝利をおさめた<ビスマルク>一行であるが、損傷をうけたまま作戦続行はむずかしい。ライン演習作戦は中止となり、2隻は帰還のためフランスに舵を切った。

たしかに<フッド>撃沈は大戦果といえた。だが、これが英国海軍、ひいては英国の逆鱗に触れることとなる。ヴェルサイユ条約のおかげであと50年はおとなしくしているだろうと見ていた敗戦国の、それも旧式な設計の戦艦に、世界の海軍の祖を自負するロイヤル・ネイヴィが完全敗北させられたのである。烈火のごとく怒り狂ったイギリス海軍総司令部は、現有戦力すべてを<ビスマルク>の追撃に投入する決定を下したのだ。

「戦艦も巡洋艦も駆逐艦も、ありとあらゆる戦力をかき集めろ! あの大西洋の粗大ゴミを焼却処分してやる!」

「あのう、俺ら今、商船の護衛してるんですけど・・・」

「そんなもんどうでもいい!」

かくして、大事な船団護衛までほっぽりだして、<ビスマルク>ただ1隻のためだけに、大英帝国海軍は一家総出で弔い合戦をくりひろげることになった。後年に「ビスマルク追撃戦」と呼称される戦いの幕開けである。

高速戦艦たる<ビスマルク>に艦隊では追いつけない。そこで最初の刺客、イラストリアス級空母<ヴィクトリアス>から夜間にもかかわらず発進したフェアリー・ソードフィッシュ雷撃機9機が急行する。ちなみにこのソードフィッシュという飛行機、まさかの複葉機である。太平洋では九七艦攻やダグラスTBDデヴァステーターといった全金属製の単葉雷撃機がしのぎを削っていた時代に、英国は古めかしい複葉機に最新のレーダーやロケットなどを搭載して飛ばしていたのである。複葉機なので当時の雷撃機の平均より時速100kmも遅いが、あまりに遅すぎて対空砲の見越し射撃を誤り、<ビスマルク>の対空射撃がソードフィッシュも前を通り過ぎていくという珍事が多発した。おまけに命中しても弾が貫通するだけで暖簾に腕押し。火がついても手袋で叩けば消えるというおそるべき生存性までもっていた。

こんな雷撃機が投下した7本の魚雷のうち、1本が<ビスマルク>のカタパルト下に命中した。だが<ビスマルク>は大した打撃をうけなかった。重量の4割が装甲でできている同艦にとってたった1本の魚雷など問題ではなかったのだ。<金剛>がこっちを見ている

ついで翌日の夜、空母<アーク・ロイヤル>から飛び立った15機のソードフィッシュが<ビスマルク>を捕捉。魚雷を投下し、2本が命中する。1本は左舷中央部で、このときも<ビスマルク>は大した損害をださなかった。

しかしである。

もう1本の当たり所が非常にまずかった。よりにもよって舵にピンポイントで命中したのである。これによって<ビスマルク>はその場でクルクル回ることだけしかできなくなってしまう。時代遅れの複葉機は、翌日にはフランスに投錨できていたであろう<ビスマルク>のアキレス腱を狙いすまして射抜いたのだ。

続々と駆けつける英艦隊。舵を直そうにも酷寒のうえ天候も最悪で船外活動は不可能。英駆逐隊は<フッド>の復仇を果たそうと肉薄し魚雷をたたきこんでくる。<シェフィールド>に4斉射めで命中弾をあたえ、小破せしめるなど、懸命に抵抗しながら故国をめざす<ビスマルク>は満身創痍となっていた。舵の故障で操艦機能を失い、自慢の高速も推進軸の回転で騙し騙し操舵するために7ノットしか出せず、艦自体も傾斜が続いている。

そんなおり、英艦隊にとっては待望の、<ビスマルク>にとって絶望の瞬間が訪れる。北東から戦艦<キングジョージⅴ>、戦艦<ロドネー>がその巨体を現したのだ。<キングジョージⅴ>は<プリンス・オブ・ウェールズ>の長姉、<ロドネー>は16in(40・6cm)砲を搭載するビッグセブンの一柱。これに重巡<ノーフォーク>と<ドーセットシャー>も加わり、ほぼ身動きできない<ビスマルク>に一方的な砲雷撃をくわえた。手も足も折れた人間を大勢で囲んで、動かなくなるまで、いや動かなくなっても金属バットで殴りつづけるがごときなぶり殺しが始まったのである。

もはや<ビスマルク>の命運は尽きていた。<ロドネー>は最接近時には2500mという、戦艦からすれば手を伸ばせば届く距離に詰め寄りながら何発も何発も<ビスマルク>に撃ちこみつづけた。<ロドネー>は駄目押しに雷撃まで敢行。戦艦が発射した魚雷が敵艦に命中する人類史上初の快挙をなしとげる。

しかしまだ<ビスマルク>は浮いていた。戦闘能力が完全に喪失しても、艦というより燃える洋上廃墟となりながらも、まだ沈まず、それどころか3基ある主機はいずれも無事で、のろのろとであるが自力航行まで可能だった。

とはいえ沈没は時間の問題だ。砲も全門沈黙している。ここにいたって<ビスマルク>のリンデマン艦長は自沈という苦渋の決断を下した。稼動全ポンプで艦内に注水し、キングストン弁を開放、冷却機用排水口に爆薬がしかけられた。<ビスマルク>は艦尾から沈降、さらに左に傾斜していく。乗員が退避しおわったあと、リンデマン艦長は傾斜の強まる艦首へ歩を進め、艦首先端にたどりつくと、海面に浮かぶ生存者へむけ別れの敬礼をおくった。<ビスマルク>が横倒しになって海没したのはまさにそのときである。2大戦艦との戦闘が始まってから2時間が経っていた。

結局、<ビスマルク>の被弾は、<ヴィクトリアス>の雷撃隊から数えて推定魚雷命中本数が8~13本。<ロドネー>の発射弾数は主砲380発、副砲719発<キングジョージⅴ>の発射弾数は主砲339発、副砲660発。重巡<ノーフォーク>と<ドーセットシャー>の発射弾数は計781発。命中弾の合計は400~600ともいわれている。同艦の追撃にあたって投入された艦艇は47隻、航空機は100機以上。まさに英国海軍の総力が<ビスマルク>ただ1隻の撃沈のためにつぎこまれたのである。しかも、これほどの戦力を傾注してもなお、<ビスマルク>は自沈で最期を迎えており、英海軍はついぞその手で<フッド>の仇を沈めるには至らなかったのだった。

なお、ジェームズ・キャメロン監督の『海底の戦艦ビスマルク』によれば、<ビスマルク>の装甲を貫徹できていた砲弾はたったの3発だけであったという。

進水から戦没まで2年と3ヶ月という短い生涯の彼女は、名の由来であるオットー・フォン・ビスマルクと違って祖国に勝利をもたらすことはできなかった。だが、ただ1隻だけで、世界に冠たるロイヤル・ネイヴィの心胆を寒からしめ、倉皇させたのは事実である。戦艦と砲火をまじえることすらかなわなかった戦艦が少なくないことを鑑みれば、彼女の艦歴は決して不幸なものではなく、むしろ第二次大戦を通してみても有数の武勲艦であるといってよいだろう。

<ウェストバージニア>が簡単に沈むか!

現地時間1941年12月7日早朝、その日のハワイは快晴で風も少なく、日曜日ということもあって快適な一日が約束されていたはずであった。オアフ島の軍港たる真珠湾では星条旗がいましも掲揚され、戦艦の甲板上では軍楽隊による定例の演奏がさわやかな朝の始まりを告げているところだった。

そこへ、異様に低空を飛行する複数の航空機が航過していった。掲揚される星条旗に敬礼していた地上の軍人たちは、グレゴリー・ボイントンのような跳ねっかえりか、陸軍のジョージ・プレディみたいなお調子ものだろうとため息をつくか苦笑をもらした。しかし、航空機が胴体に懸吊していた爆弾を地上施設へむけ投下、爆炎がまきあがったことで、かれらの表情は一様に凍りつくことになる。

日本軍による真珠湾攻撃については、アメリカが事前に察知していたにもかかわらず、不戦を公約にかかげたフランクリン・D・ローズヴェルト大統領が日本に第一撃を引かせる形で対日戦に参加したいがためにわざと知らぬふりをしていたという陰謀説、ただ単に日本の外務省の手違いで宣戦布告が遅れてしまって結果的に奇襲になってしまっただけという説、日本の不穏な動きはつかんでいたが南方ならともかくまさか長躯ハワイに攻撃してくるとは思っていなかったという説など、現代でも諸説さまざまあるが、いずれにせよ現地で勤務していた将兵らにとっては、まさに晴天の霹靂、寝耳に水の奇襲であったことには相違ない。

浅瀬である港湾に停泊している艦船を攻撃するため、投下されてから水中へ射入するまでのあいだ空中で姿勢が制御できる頭のおかしい航空魚雷を揃え、搭乗員らにどこを攻撃しにいくか詳細は明かさないまま真珠湾に酷似した鹿児島県錦江湾で殺人的な猛訓練をほどこし、無線封鎖を徹底したうえで発見されにくい単冠からの北回りルートから接近するなど、おそるべき周到さと精度で作戦を進めた日本海軍に、ハワイ島は混乱のるつぼに叩き落された。シナ事変では大陸から敵機を消したという最強の航空隊、第一航空戦隊をはじめとした精鋭搭乗員を載せた航空母艦<赤城>、<加賀>、<蒼龍>、<飛龍>、<翔鶴>、<瑞鶴>から飛び立った艦載機は真珠湾を力のかぎり蹂躙した。
例として、<蒼龍>に搭乗していた艦攻隊の金井昇は、爆撃競技会においてまさかの命中率100%をたたきだした怪物である。こんなばけものぞろいの攻撃隊第1波183機、第2波167機もの猛攻に、フォード、ヒッカム飛行場は抵抗むなしく破壊され、雷撃隊の魚雷や水平爆撃に在泊中の艦艇も攻撃をうけた。戦艦<アリゾナ>、<オクラホマ>、標的艦<ユタ>が撃沈されたほか、多数の艦艇が損壊し、300機もの基地航空隊が発進するまえに残骸に変えられた。

コロラド級戦艦<ウェストバージニア>も、当時真珠湾に停泊し、姉妹艦<メリーランド>、テネシー級戦艦<テネシー>、<カリフォルニア>、ペンシルベニア級戦艦<ペンシルベニア>らとともに戦艦ゆえに重要目標とされ集中攻撃をくらう。回避行動などのぞむべくもなく、魚雷7本、爆弾2発をうけて大破、着底してしまう。

もともと<ウェストバージニア>は1921年11月のワシントン軍縮会議にて廃艦とされるはずの艦であった。ようするにこの会議が開かれるまでに完成していない40・6cm砲搭載戦艦は廃棄しようね、という話である。当時このサイズの砲は艦砲としては最大で、つまり最強の兵器であったので、そんなものいっぱいつくっても財政破綻するだけだよ、うちも作るのやめるからおたくもやめようよというのが趣旨であった。日本は会議開催までに夜に日をつぐ突貫工事で長門型戦艦2番艦<陸奥>を完成させようとし、会議1ヶ月まえの10月には竣工したとして軍艦旗をかかげてしまった。しかしどうみても未成であることはあきらかである。日本は完成艦であると頑としてゆずらず、白熱の議論の結果、ついに米英は<陸奥>の保有をみとめたが、代償として英のネルソン級2隻の建造、米は未成であった<コロラド>、<ウェストバージニア>の完成をみとめさせることとなった。

つまり、<ウェストバージニア>は日本の強弁がなければこの世に生をうけることがなかったが、こんどはその日本の手によって一敗地にまみれることになったのである。あまりに皮肉な運命といえよう。

だが<ウェストバージニア>の命運はつきていなかった。浅瀬であることがさいわいし、ひきあげて修理することになったのだ。

戦艦を新造するとなると、島のように大きな鉄のかたまりを作って、そこから削りだしていかねばならず、非常に金と時間がかかる。修理できるものならしたほうが安くて早い。港を3万トン超の鉄塊がふさいでいては邪魔だからどのみちひきあげてどかさなければならない。

もしこれが深度のふかい海であればひきあげることもできなかったであろう。日刊駆逐艦、週刊軽空母、月刊正規空母とまでいわれ、空母量産のためにまず街をあらたに作るところからはじめたさしものアメリカも、喪失した戦艦戦力の補充のために一から戦艦を建造し戦力化するのは時間と経済的負担が大きすぎる。
が、これはあまり有意義な仮定とはいえない。海原のど真ん中に戦艦があるときは、かならず複数の僚艦をともない、四方八方に見張りをたて、偵察機を飛ばして警戒しているはずだから、日本の機動部隊といえども容易に接近はできないだろう。<ウェストバージニア>たちは浅瀬の港だから沈められ、浅瀬だからこそ復活できたのだ。

ともあれ、修理ついでに大幅改修をうけた<ウェストバージニア>は、およそ3年のときをかけ、1944年に戦列に復帰。リベンジの機会はすぐにおとずれた。同年10月25日深夜、西村祥治中将ひきいる艦隊がフィリピンの決戦場レイテ湾に突入するべくスリガオ海峡に進入。同艦隊は、欠陥がめだつために内地で士官の教室となっていた扶桑型戦艦<扶桑>、<山城>はじめ、航空巡洋艦<最上>、駆逐艦<時雨>、<満潮>、<山雲>、<朝雲>と、いずれももといた部隊が壊滅した生き残りという、文字通りの寄せ集め艦隊だった。なりふりかまわぬ進撃。日本は背水の陣である。

海峡というからには狭い。ジェス・B・オルデンドルフ少将指揮下の戦艦戦隊は、戦艦6隻、重巡4隻、軽巡4隻、駆逐艦21隻、魚雷艇39隻という圧倒的戦力でむかえうった。戦艦6隻とはすなわち<ウェストバージニア>、<メリーランド>、<テネシー>、<カリフォルニア>、<ペンシルベニア>、<ミシシッピ>。そう、<ミシシッピ>以外は真珠湾で日本軍に大破着底させられ、修理され戦場にもどってきた艦ばかりであった。

<ウェストバージニア>は修理のさいに最新のレーダー、Mk8Mod2(マーク8モッド2と発音。日本風にいうと8号電探改二)を搭載されていた。この人類史上最大の海戦、レイテ沖海戦の中盤となるスリガオ海峡夜戦にてこれが真価を発揮した。ほかの戦艦らがまんぞくに射撃できないなか、<ウェストバージニア>は夜陰をものともせず正確なレーダー射撃を実行できたのである。

味方の駆逐艦や魚雷艇の魚雷がスリガオ海峡の海を縦に横にと切り裂き、まず<山雲>を轟沈させたのを皮切りに、<満潮>と<朝雲>の艦首を食い破って落伍においこんだ。<扶桑>は船体をまっぷたつにして火だるまになりながら沈没し、その姉妹艦<山城>も4本の魚雷と熾烈な砲撃に散華した。せまりくる敵艦隊を魚雷で漸減したのち重巡と戦艦の追い討ちでとどめをさすという、日本の研究していた戦術がアメリカの手で炸裂した瞬間だった。結果、西村艦隊は<時雨>を残して全滅する。

<ウェストバージニア>のアクションリポート(戦闘詳報。何時何分に主砲をこれこれこういう敵に何発撃ちましたよーというふうに、戦闘のようすを詳細を記録したもの)には、<山城>に砲撃したときの状況が克明に記されている。http://www.ibiblio.org/hyperwar/USN/ships/logs/BB/bb48-Surigao.html

驚愕するべきはその命中精度であろう。本リポートによれば、距離2万メートルの<山城>に対し、第1斉射で夾叉させ、しかも命中させているとある。その後の計13回にわたる斉射すべてで夾叉を確認し、命中弾4発、不確実なものも含めると13発以上も命中せしめたという。実際、同艦の射撃開始4分後に<山城>から爆炎が観測されている。<ウェストバージニア>の射撃がいかに正確であったか、それで知れる。しかも<ウェストバージニア>のレーダーは、敵艦のみならず、弾着時の水柱をも観測。混戦のなかにあって、水柱の高さや太さから味方艦と自艦の弾着をみわけることさえ可能にしていたという。

また、精密機械であるレーダーは主砲射撃の衝撃に耐えられないという意見もあり、事実、<ビスマルク>は「デンマーク海峡の戦い」における第1斉射でさっそくレーダーが使用不能になっているが、<ウェストバージニア>に搭載された2基のMk8はどちらも自艦の発砲による悪影響は見られなかった。

<山城>は本艦の6斉射までですでに命運を定められている。初弾発砲からわずか4分弱のことである。1~6斉射までの<ウェストバージニア>の発射弾数は47発とある。うち命中弾は4発。この数字を鵜呑みにするなら、<ウェストバージニア>の<山城>への命中率は8%ということになる。世界でも屈指の練度を誇った黄金期の日本海軍ですら、昼間の実射訓練において9~15%が限界だった。なお戦時の命中率は平時の1割から5割にまで落ちるのが通例である。つまり実戦での命中率は1%もあればいいという世界だ。夜間で8%という命中率は特筆に値しよう。

ともあれ、<ウェストバージニア>らは敵艦隊を打ち破り、仲間が多数上陸しているレイテを守った。扶桑とは日本の異称である。その名をいただく戦艦を撃沈せしめることで、<ウェストバージニア>たちは真珠湾での同胞らの無念を晴らし、みごと雪辱をはたしたのであった。

終戦後、<ウェストバージニア>は、ほかの戦艦や空母などの艦艇と同様、欧州や太平洋の島々に派兵された何十万という兵らを帰還させる一大事業、マジック・カーペット作戦に復員船の一翼として参加した。巨体ゆえに多くの寝台を提供できる<ウェストバージニア>は大勢の兵士を祖国に帰還させた。

その後は予備役として後方に下がり、1959年3月1日に除籍、同年8月にスクラップとして売却された。

進水から売却まで37年8ヶ月と長命だった彼女は、数奇な運命によって命拾いし、いちど沈んでも蘇り、すでに旧式化していたにもかかわらず檜舞台で復仇をはたしてみずからの任務を完全に遂行した。戦いが終わったあとは、数えきれない同胞を愛する者たちのまつ祖国へ還し、平和になった故郷を見届けたのち、すべての役目を終えて舞台袖へと去っていった。

不撓不屈、祖国のために老骨に鞭打ち、務めを完遂した彼女は、乗員らとともにまぎれもなく愛国者の一員として数えられることだろう。なお、彼女のメインマストは艦名の由来となった州の学府、ウェストバージニア大学に贈呈されており、展示物としてだれでもみることができるようになっている。

彼女はいまでも故郷で次代を担う若者たちを優しく見守っているのである。

〈ウォースパイト〉が簡単に沈むか!

第二次世界大戦は、急激な発達をみせた航空機と、それを運用する洋上移動基地、すなわち空母が海戦の主役として台頭し、それまで戦力の基幹であった戦艦が戦艦たりえた最後の戦争だった。重装甲、高速化、大火力化という相反する性能を1隻に集約した結果、戦艦は建造費が天井知らずとなり、それでいて機雷や魚雷、潜水艦などに脆弱であるので、「来週の火曜日、何時何分にどこそこ沖で戦艦どうしの艦隊決戦を行いたいと思いますので、みなさまお誘い合わせのうえお越しください」と相手と文通でもしていないかぎり、おいそれとは戦場に投入できなくなっていたのだ。

だが、彼女は違った。

二度の世界大戦を戦い、祖国に勝利をもたらしつづけた銘艦。数多の戦場を駆け抜け、戦争を忌み嫌う名のとおり、戦いではついぞ沈まなかった不朽の戦艦。

クイーン・エリザベス級戦艦2番艦HMS〈ウォースパイト〉は、第一次大戦よりも前の1913年11月26日に進水し、1915年3月8日に就役した。その名は「戦さを軽蔑するもの」を意味する。新造時では、38・1cm42口径連装砲を4基、15・2cm45口径単装砲8基、10・2cm45口径単装高角砲4基などをそなえていたが、最大の特徴は機関のボイラーを重油専焼にしたことだった(当時の軍艦は石炭が燃料だったり、石炭と重油の混焼が主流だった)。石炭よりはるかに燃焼効率にすぐれる重油を燃料に採用したことで、重武装ながら25ノットという高速を獲得する。

彼女の艦歴は受難そのものだった。まず、就役と同時に本国艦隊の第2戦艦戦隊に配属されたのだが、9月に座礁事故を起こしている。修理したのち、1番艦〈クイーン・エリザベス〉、3番艦〈バーラム〉、4番艦〈ヴァリアント〉、5番艦〈マレーヤ〉、すなわちおなじクイーン・エリザベス級戦艦のみで編成される第5戦艦戦隊に転属となるが、ここでは姉妹艦〈バーラム〉と衝突して大破

1916年5月31日には、人類史上最大規模の海戦となるユトランド沖海戦に出陣(おなじく超大規模な海戦といえば第二次大戦のレイテ沖海戦が挙げられるが、あちらは「パラワン水道の悲劇」「シブヤン海の戦い」「スリガオ海峡夜戦」「エンガノ岬沖海戦」「サマール沖海戦」の総称で、1海戦の規模は本海戦が上回る)。敢闘のさなか、ドイツ海軍から15発の砲弾を浴び、姉妹艦〈ヴァリアント〉と激突しそうになるも急旋回してこれを回避。しかし、被弾の影響なのか突如ここで舵が故障。回避行動のために切ったまま舵が固定されてしまい、その場で回ることしかできなくなってしまう。

この「死の行進」により〈ウォースパイト〉は敵艦隊の眼前で2回も円を描いた。ドイツ海軍は大破させた英装甲巡洋艦〈ウォーリア〉にとどめを刺そうとしていたが、そこへ〈ウォースパイト〉がさながら髪を振り乱して走る凶女のようにグルグル回りはじめたものだから、彼らの注目と関心、ひいては砲口の照準をも引き寄せることとなった。窮地に立たされていた〈ウォーリア〉の乗員たちは舵のことなど知るはずもなく、〈ウォースパイト〉が命がけで守ってくれたと勘違いし、信頼と感謝を寄せた。結果、〈ウォースパイト〉は大小あわせて29発を被弾し、からくも生還したものの、爾来、彼女は生涯にわたってこの舵の呪い不具合に悩まされることになる。

ユトランド沖海戦の損害を修理し、復帰した彼女だが、12月には〈ヴァリアント〉と衝突。こんどはかわせなかった。さらに翌1917年6月に駆逐艦とも衝突した。1918年にはボイラー室で火災が起きている

数々の苦難に見舞われながらも人類史上初の世界大戦をなんとか生きのびた〈ウォースパイト〉は、きたるべき次の戦いにそなえ近代化改修を受けた。航空機の格納庫を設置し、機関を換装、主砲を改修し、水平防御を強化され、艦橋も現代の軍艦のような外観の塔型に改められた。ほぼ別艦といってよいほど生まれ変わった〈ウォースパイト〉は地中海艦隊旗艦の座につくが、改修後の試験航行で面舵のまま固定されてしまうトラブルが発生。さらに機関部にも不調が見つかり、地中海への到着が予定より5ヶ月も遅れてしまう。

第二次世界大戦勃発後の1940年4月、すでに艦齢25歳の老朽艦となっていたが、ドイツ海軍のノルウェー侵攻にともない、〈ウォースパイト〉は僚艦らとともに一路ノルウェー沖へと展開。
同13日には、ドイツにとって北欧侵攻の重要な拠点であるナルヴィクを占領したドイツ軍を攻撃するため、〈ウォースパイト〉はトライバル級駆逐艦〈ベドウィン〉、〈コサック〉、〈バンジャビ〉、〈エスキモー〉、K級駆逐艦〈キンバリー〉、H級駆逐艦〈ヒーロー〉、I級駆逐艦〈イカルス〉、F級駆逐艦〈フォレスター〉と〈フォックスハウンド〉の9隻の駆逐艦を率いてオフォト・フィヨルドに侵入した。
そこで燃料と弾薬の不足で足止めされていたドイツの駆逐艦8隻と遭遇し、交戦状態となる。〈ウォースパイト〉らの奮戦は、ドイツ駆逐艦隊のただでさえこころもとなかった弾薬を払底させ、艦隊を追い詰め、全滅させた。イギリスの駆逐艦にも損害はでたものの、この「第二次ナルヴィク海戦」は〈ウォースパイト〉たち英国海軍の完全な勝利に終わった。

氷河の戦いを制した〈ウォースパイト〉は本来の寝床である地中艦隊にもどり、7月7日、船団護衛のためエジプトのアレクサンドリアを抜錨。9日に地中海艦隊とオーストラリア海軍からなる連合国軍は、イタリア半島のつま先にあたるカラブリア半島から約50kmの沖合いで、おなじく船団護衛に従事していたイタリア艦隊と遭遇、戦闘を開始した。「カラブリア沖海戦」の角笛が吹かれたのである。

〈ウォースパイト〉はイタリア戦艦ジュリオ・チェザーレに21000mという超長距離から砲撃、みごとに命中させた。これは移動する艦艇から移動目標への砲撃としては世界でも有数の記録である。海戦そのものは引き分けに終わったが、〈ウォースパイト〉の活躍もあり、以降はイタリア海軍はたとえ優勢であっても英海軍との戦闘を避けるようになり、実質的に英国は地中海を支配下におくことができた。

翌1941年3月28日に生起したマタパン岬沖海戦では、姉妹艦〈バーラム〉、〈ヴァリアント〉らとともに夜戦で重巡3隻、駆逐艦2隻を撃沈破するなど大手柄をあげる。

しかし喜んだのもつかの間、5月22日の「クレタ島の戦い」ではドイツ軍の激烈な空襲の前に大破している

空襲の痛手は思いのほか大きかったようで、その年のうちに〈ウォースパイト〉は大規模な修理のために母港アレクサンドリアからインド洋経由で米国にむかい、8月にワシントン州のピュージェット・サウンド海軍造船所に入院。ところが12月8日、日本が真珠湾を攻撃、宣戦布告したため、修理をきりあげ抜錨し、オーストラリア南岸を通ってセイロン島に到着。そこで東洋艦隊旗艦の任に就く。

セイロン島といえば空母〈ハーミズ〉や重巡〈コーンウォール〉、〈ドーセットシャー〉などが日本の機動部隊に撃沈されたセイロン沖海戦が勃発した場所だが、〈ウォースパイト〉自身はいろいろ歯車が噛み合わず南雲機動部隊とは会敵していない。こののちミッドウェー海戦が起きたこともあって日本軍がインド洋で攻勢をかけなくなったため、とくに損傷もなく平穏にすごしている。ただし、1943年6月に地中海へ帰還する途中、またしても舵が謎の故障を起こしている

7月、シシリア島上陸を目的としたハスキー作戦が企図されるが、地中海の雄たる〈ウォースパイト〉にはお声がかからなかった。そこで、〈ウォースパイト〉艦長が地中海艦隊司令官アンドリュー・カニンガム提督に砲撃支援として参加させてほしいと訴えると、

提督「そうは言っても、平時の〈ウォースパイト〉は地中海では砲撃が最悪だったじゃないか」

艦長「じゃあ、戦時はどうでした?」

提督「絶対に失敗しなかったな」

ということで参加が決定。戦車対水上艦というめずらしい一幕も発生するなか、〈ウォースパイト〉はドイツ軍の攻撃をたくみにかいくぐり、例のごとく舵が故障して味方の駆逐艦にぶつかりそうになりながらも、枢軸国に熱々のデリバリーをプレゼントした。帰投後、カニンガム提督から、

「作戦は成功した。オールド・レディもスカートを上げれば走ることができる」

というブリティッシュジョークあふれる賛辞の信号が届く。このことから〈ウォースパイト〉はオールド・レディの愛称で親しまれることとなった。

しかし9月16日、ドイツ軍の思わぬ猛反撃に連合国軍が劣勢に追い込まれたことから急遽、支援任務にもどり、サレルノ沖で姉妹艦〈ヴァリアント〉と艦砲射撃を遂行中だった〈ウォースパイト〉は、かつてイタリア戦艦〈ローマ〉をたった1発で海の底へ永久追放した誘導爆弾フリッツXに被爆。3発投下されたうち2発が直撃する。さすがの〈ウォースパイト〉もただではすまず、1発は煙突のすぐ後ろに命中し、主甲板を貫通、機関区で炸裂する。もう1発は右舷側のバルジを貫徹し爆発した。これにより第4ボイラー室は破壊され、隣接するボイラー室も浸水。6基あるボイラー室のうち稼動できるのは1基のみとなり航行不能におちいる。

ふつうなら沈没するか自沈させる以外に選択肢のない絶望的な損害だったが、幸運にも死者数は9名、負傷者数も14名と人的被害は少なく、〈ウォースパイト〉自体も沈む気配がなかったので、後退し、マルタ島で1ヶ月ちかくも修理を受けた。だが、やはり被害が甚大にすぎ、全壊した第4ボイラー室は修理を断念され、4基あった主砲塔も稼動するのは2基だけの状態で帰還が決定された。
帰るついでに本国行きの船団と合流するが、そのときの〈ウォースパイト〉は、人間でいえば片腕を首から三角巾で吊り、片足はなく、残った手足で松葉杖をついてえっちらおっちら歩いているというようなもので、〈ウォースパイト〉が船団を護衛しているのか船団が〈ウォースパイト〉を守っているのかわからないありさまだったという。

イギリスのロサイスでも修理されるが、けっきょく第3砲塔は復旧できず、速力も21ノットまでしか回復できないまま戦列への復帰を余儀なくされた。D-DAYが迫っていたのである。

1944年6月6日、〈ウォースパイト〉の艦影は東洋機動艦隊の一員としてノルマンディー上陸作戦に参加しているところを見ることができた。決死の抵抗を続けるドイツ軍からふたたびフリッツXの鉄槌を第3砲塔に食らうも事なきを得て、砲撃支援を敢行、ソード海岸やゴールド海岸で味方の上陸を強力に援護した。

ひと仕事終えた〈ウォースパイト〉は、主砲の砲齢が寿命を迎えたので交換のためロサイスに向かう途中、左舷後部が機雷に触雷し、機関やスクリュー、舵に損傷を受け、左舷のタービン2軸にいたっては完全に停止してしまった。ロサイスでの修理も陸への艦砲射撃ができればいいという程度の必要最小限にとどめられ、4基あった推進軸は3基となり、速力も15ノットにまで低下した。

8月には早くも戦線にもどり、フランスのブレストやル・アーブルを砲撃している。

同年11月1日、ゼーラント州ワルヘレン島への砲撃が、〈ウォースパイト〉の主砲が火を噴いた最後の任務となった。

明けた1945年2月に予備役に編入。そのまま終戦を迎える。保存をもとめる声も多かったが、たび重なる損傷のせいもあり、スクラップとして売却されることとなった。

だが、これまでしぶとく生き抜き勝利を重ねてきた〈ウォースパイト〉が黙ってスクラップになどされようはずもなかった。解体場所のファスレーンに曳航される途中に嵐で曳航索が切断されると、彼女はこれ幸いとばかりに漂流し、プロシア入り江で座礁するまで解体業者から「スカートを上げて」逃げ続けたのだ。発見されたのちはその場で3年もかけて解体作業が進められた。座礁にはじまり、座礁に終わったのである

進水から解体完了までの37年のあいだ、絶えず戦場を駆け巡り、不沈艦としてイギリス中に慕われた〈ウォースパイト〉の輝かしい戦歴も、一抹の哀惜とともにようやく終止符が打たれたのであった。

〈ウォースパイト〉は終生、衝突や舵の不具合に悩まされ続けた。戦闘での被弾も数知れない。だが、どんな傷を負っても不死鳥のごとくよみがえり、「戦さを忌み嫌うもの」でありながらかならず戦場に舞い戻り戦果を上げた。第一次世界大戦と第二次世界大戦の両方に出撃し、ことごとく勝利をおさめ、かつ戦没しなかった戦艦は彼女をおいてほかにない。まさに伝説の戦艦であり、世界で最も偉大な武勲艦と言っても過言ではないだろう。

<ミズーリ>が簡単に沈むか!

現代の海軍には戦艦という艦種は存在しない。当然、新造もされていない。世界最大の戦艦<大和>と<武蔵>の両艦は激烈な空襲にその巨体を沈め、<ビスマルク>は英海軍の総攻撃に散華し、不死鳥と名高い<ウォースパイト>も最後はスクラップとなった。

しかし、すべての戦艦がこの地球から消え去ったわけではない。

アイオワ級戦艦は、アメリカが最後に建造した戦艦であり、同時に、世界最後の戦艦である。また、21世紀のいまでもなお蒼海に英姿を浮かべている戦艦でもある。

前年にヒトラーがドイツ首相に就任しナチスが政権を樹立、日独があいついで国際連盟を脱退し、満州国が非承認国に門戸を閉ざすなど、時代が混迷の一途をたどっていた1934年、アメリカ海軍は日本海軍の動向に神経を尖らせていた。

来年はロンドン海軍軍縮条約が失効となる年である。同条約が日本海軍に大きな痛手を与えていたのはアメリカも承知だった。日本からすれば、先のワシントン海軍軍縮条約で戦艦の数を減らされたので駆逐艦や巡洋艦、潜水艦といった補助艦艇に力を入れていたのに、こんどはロンドン海軍軍縮条約でそれらにも厳しい制限がかけられたのだから、戦わずして米英に負けたも同然だったのである
条約の対抗策は「空母がたくさん作れないから、陸上基地から展開する大型陸上攻撃機を発展させる」か、「軍艦の数が作れないのなら、そのぶん1隻の性能を強化すればいいじゃない」という一点豪華主義のふたつだけ。ワシントン海軍軍縮条約のおりには、駆逐艦にはとくに制限がなかったのをいいことに、当時は近海の警備がおもな任務で外洋に出るなどだれも考えていなかった駆逐艦に巡洋艦なみの攻撃力と航洋性をもたせるというナナメ上の発想(ボクシングでいえば、ライト級なのにマーク・ハントみたいなやつがでてきたようなもの)で裏をかいてきた日本である。おとなしくしたがっているはずがない。
また、ロンドン海軍軍縮条約失効と同時に第二次ロンドン海軍軍縮条約の会議が持たれることとなっていたが、もし日本がこれを蹴れば、日本は国際世論を敵に回すという代償とひきかえに合法的に条約無視の戦艦を建造できることになる。日本には国際連盟脱退という“前科”もある。ドイツではヒトラー首相が総統となり、ナチス政権による独裁が始まり、全体主義が台頭していた1934年は、日米が水面下で熾烈な情報戦を繰り広げていた年でもあった。

日本は日本で、条約失効と同時にもしも米英が強力な新型戦艦を戦力化した場合、現状では太刀打ちできないので、前例のない巨砲を積んだ巨大戦艦の設計を軍が艦政本部(日本の軍艦の設計を取り仕切る部署)に命じていた。A140-F6型戦艦と仮称されたその新型戦艦は、存在そのものが極秘で、議会に予算を通す際も、架空の駆逐艦や潜水艦の建造という名目で計上したり、<比叡>や<蒼龍>の改装費用を少々水増ししてそこから頂戴したりと偽装工作を重ね、砲塔の旋回部分の図面が紛失したときには技師と製図工あわせて8名を泣く子も黙る特高がスパイ容疑で拷問、うち3名は職場復帰不能にまで追い詰められ、犯人の少年は一族郎党、満州へ送られるなど、その防諜はきわめて厳重だった。

さて、軍縮条約の期間延長を図る第二次ロンドン海軍軍縮条約の交渉にあたり、現状維持を望む英米に日本は「お前らに都合のいいルールばっかりこっちにおしつけやがって!」(意訳)と、12月にまずワシントン海軍軍縮条約を破棄、続いてロンドン海軍軍縮条約も1936年1月15日に脱退した。イタリアも抜けたため、5ヶ国で調印するはずだった第二次ロンドン海軍軍縮条約は英米仏の3ヶ国で締結することになった。

では、日本は条約無視で戦艦を作れるのに、英米仏は条約に縛られたままでいなければならないのか?

こんなこともあろうかと、同条約にはエスカレーター条項という内容も追加された。ここでいうエスカレーター条項とは「ロンドン海軍軍縮条約に批准した国家が第二次ロンドン海軍軍縮条約から脱退した場合、批准国の制限を緩和する」もので、ものすごく噛み砕いていうと、

「相手から先に約束破ったんだから、こっちまで律儀に守る必要ないよね!」

つまり、日本が脱退したことで、米英仏は、戦艦の主砲砲口直径は14インチまで、排水量は35,000トンまでという同条約の制限から、16インチ、45,000トンまで大型にしてもよいことになったのだ。さらに保有隻数も拡大された。

米の気がかりは日本がいまどんな戦艦を作っているのかということである。条約を破棄した以上、長門型なみの16インチ砲搭載艦をまたぞろ新造しているかもしれない。徹底した防諜の甲斐あって、A140-F6型というなにやらとてつもなく巨大な戦艦の建造に着手しているということまでは掴んだが、肝心の砲口直径がわからない。そこでアメリカが日本に、

「新型戦艦を建造しているようだが、その主砲は16インチか否か答えられたい。返答なき場合は16インチ搭載艦を建造していると見なす」

と訊ねたところ、日本は無視。これをもってアメリカは、日本が16インチ砲搭載の戦艦を新造していると判断した。

なお、実際には16インチ(40・6cm)どころか18インチ、つまり46cmだった。のちにA140-F6型は大和型と名づけられ世界最大の戦艦となるのだがアメリカは知る由もない。

とにもかくにも、当時のアメリカ海軍最大の仮想敵たる日本海軍が条約を無視して新型戦艦をそろえようとしている事実は重大だった。対抗できる戦艦を配備しなければならない。

ただ強くて重装甲にするだけなら簡単だが、米海軍の頭痛の種は日本海軍が誇る金剛型高速戦艦の存在だった。米海軍の戦艦とは、まず空母機動部隊で制空権を奪取したのち、敵航空機の心配をせずなおかつ味方航空機の援護を受けられる状況下で砲撃戦をおこなうものという位置づけだった。戦艦が主役で、空母や巡洋艦、駆逐艦はその舞台をととのえるための引き立て役というわけだ。
もし、日本の空母機動部隊に金剛型戦艦が随伴していたら?
金剛型戦艦は巡洋艦なみの俊足を持った戦艦だ(当時アメリカは金剛型の速力が30ノットだとまでは把握していなかったが、足の速い戦艦であるとは認知していた)。巡洋艦では歯が立たないし、28ノット弱のノースカロライナ級では追いつけないし逃げられないかもしれない。

(※アイオワ級設計にあたって金剛型戦艦を意識したという話は後世の捏造という説もある。ただ単に空母に随伴できる戦艦を追求したら高速戦艦になったというだけで、人間爆弾桜花がミサイルのヒントになったなどという逸話とおなじくデマの可能性もじゅうぶん考えられる)

要求された性能は、16インチ砲を搭載しているであろう新型戦艦にも対抗しうる火力と防御力、条約型戦艦最高傑作のサウスダコタ級高速戦艦を超える速力。

その解答こそが、アイオワ級戦艦だった。

装甲を増やして防御力を高めるとなると、重くなり、速力も落ちる。けれども高速性もほしい。ではどうするか。

よりハイパワーなエンジンを積めばいい。単純明快である。

前級のサウスダコタ級戦艦が全長207m、全幅32・97m、基準排水量37,970トン(条約では戦艦は35,000トンまでだが、ちょっとくらいオーバーするのはふつうだった)で最大出力130,000馬力、最大速力は27・8ノットであるのに対し、アイオワ級戦艦は全長270m、全幅32・96m、基準排水量48,425トンと、幅以外は巨大化しているが、機関出力212,000馬力、過負荷で254,000馬力の化け物エンジンを搭載することにより、32・5ノット、満載時でも金剛型を超える31ノットの高速をたたき出す、世界最高速の韋駄天戦艦となった。これはガスタービンエンジン(つまりジェットエンジン)搭載の現代の軍艦にも匹敵する速力である。

主砲のMk.7も、砲口直径こそ16インチとサウスダコタ級戦艦搭載のMk.6と同じだが、口径は45口径から50口径へと長砲身化された。砲の口径とは、「砲身の長さが砲口直径の何倍あるか」をあらわす。45口径なら砲身が砲口の45倍で、50口径なら50倍だ。砲身が長いほど砲弾が砲筒内で加速される時間が長くなるため、おなじ直径の砲弾でも初速や射程で勝る。
アメリカの軍艦はパナマ運河を通行できなければならない。よってパナマ運河の幅より太く設計できない。アイオワ級がサウスダコタ級の全幅とほとんど変わっていないのも、サウスダコタ級がすでにパナマ運河を通行できる上限の幅……パナマックスぎりぎりであったことによる。全幅が変わらないということは、アイオワ級もサウスダコタ級より砲塔を大型化させるのはむずかしいということであるわけで、16インチの砲口直径も艦がパナマックスにおさまる設計上の限界の大きさだった(日本はそれを知っていたから16インチを超える46cm砲搭載戦艦を建造した)。16インチより大型化できないがゆえ、長砲身化により火力の強化を図ったのである。

排水量をおさえるため、装甲は従来の45口径16インチ砲であれば16,000m~28,000mの距離で撃たれても防御できるものの、自身の砲である50口径16インチ砲の対応防御には至らなかった。

高速性獲得のため艦首を細く絞った結果、縦揺れが激しく、長砲身化のため横揺れも大きいという欠陥を抱えていた。

さらに、4隻のアイオワ級戦艦USS<アイオワ>、USS<ニュージャージー>、USS<ミズーリ>、USS<ウィスコンシン>が竣工した戦中はすでに大艦巨砲主義から航空主兵へと時代が移り変わっており、設計当初に期待されていた戦艦どうしの艦隊決戦はなかなか生起しない状況となっていた。戦艦が主役で空母が脇役の時代が、空母が主役で戦艦はその護衛という時代に変わっていたのである。

3番艦<ミズーリ>も、就役は1944年6月11日であり、初陣は翌45年2月16日に空母<レキシントン>を筆頭とした任務群による日本本土空襲のための空母護衛であった。その後は空母部隊とともに硫黄島へむかい、支援砲撃をおこなっている。瀬戸内海付近でも基地や飛行場への対地砲撃に従事。3月下旬には沖縄攻略のために支援砲撃を敢行した。
陥落寸前の沖縄の援護のため、日本海軍は稼動可能な艦隊をかき集めて天一号作戦を決行。<大和>を旗艦に巡洋艦<矢矧>と8隻の駆逐艦が豊後水道を抜けて南下、沖縄本島に舳先をむけた。<大和>ほか艦艇を沖縄の浅瀬に座礁させて砲台とし、砲弾が尽きたるのちは乗員が陸戦隊となって突撃するという、生還を期さない特攻作戦である。
アメリカ側も航空偵察や潜水艦からの報告で<大和>以下水上部隊が接近しつつあることを掴んでいた。レイモンド・スプルーアンス大将はこれに艦隊決戦で応じようと企図する。夜間を選べば、スリガオ海峡夜戦などで実証されたように、レーダー性能で上回る米海軍が優位に立てるだろう。第54任務部隊の士気は高まった。ついに日本の艦隊と堂々撃ち合う念願の艦隊決戦が実現できる。部隊に合流していた<ミズーリ>の乗員らも意気軒昂だった。米側の戦艦は<ミズーリ>と姉妹艦<ニュージャージー>、<ウィスコンシン>などあわせて6隻、巡洋艦は11隻、駆逐艦にいたっては30隻以上と数でも有利だった。負けるはずがない。
しかし、機動部隊を率いるマーク・ミッチャー中将は、航空攻撃の有用性を証明する絶好の機会ととらえ、艦載機による空襲を強硬に進言。けっきょくミッチャー中将の案が採用され、<大和>は途切れることのない空襲についに命運つきた。<ミズーリ>は千載一遇となる戦艦との砲戦の機会を失した。

8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、降伏。降伏文書の調印式会場には<ミズーリ>艦上が選ばれた。

戦争が終わり、<ミズーリ>の妹となるはずだった<イリノイ>と<ケンタッキー>も建造中止となったが、彼女自身の艦歴にはまだ幕が下りなかった。1950年に朝鮮戦争が勃発したのだ。日本を倒したことで、いままで日本が担ってきた共産主義南下防止の任はアメリカが負わなければならなくなっていた。アメリカは本戦争に介入し、韓国軍を支援するため<ミズーリ>を派遣。<ミズーリ>は9月には戦後はじめてとなる砲撃をおこなっている。

朝鮮戦争後はモスボール(不活性化。またいつか使えるように保管しておくための措置)処理され予備役に編入され、長い眠りにつく。

時代は東西冷戦のまっただなか、1981年初頭、ソ連海軍の軍備増強に危機感を抱いたアメリカは、475隻だった海軍の艦艇を600隻にまで増やす軍拡を決定。「600隻艦隊構想」の一環として、モスボール状態にあったアイオワ級4隻を現役復帰させた。30年近い眠りから覚めた<ミズーリ>には最新鋭の武装が搭載された。トマホーク巡航ミサイルに、ハープーン対艦ミサイル、敵の対艦ミサイルを迎撃するためのCIWS、それに電子機器などである。湾岸戦争では28発のトマホークを発射している。
さらには、朝鮮戦争以来となる主砲発射で、<ミズーリ>は<ウィスコンシン>とともにイラク軍の砲台や陣地、司令部、燃料庫などを粉砕した。戦艦による艦砲射撃は上陸作戦を展開する米海兵隊の心強い味方になったという。

1991年、真珠湾攻撃からちょうど半世紀の節目にハワイで開催される真珠湾攻撃50周年記念式典への参加が、戦艦USS<ミズーリ>の最後の任務となった。1998年には民間へ寄贈され、浮かぶ博物館として、真珠湾にておなじく記念艦となっている戦艦<アリゾナ>のそばで公開される運びとなった。太平洋戦争開戦と同時に沈められた<アリゾナ>と、終戦の象徴ともいえる<ミズーリ>が、いまではともにパールハーバーの平和な青い海を望み、観光客らをわけへだてなく迎えているのである。

ところで、<大和>ら水上特攻参加艦が坊ノ岬沖に沈んでから4日後の1945年4月11日のことである。午後2時43分、鹿児島県薩南諸島喜界島沖で、1機の爆装零戦が<ミズーリ>の右舷艦尾に体当たりした。燃料に引火したものの、即座に消火。被害は軽微だった。
わが命をも顧みない攻撃に<ミズーリ>のウィリアム・キャラハン艦長は、回収された零戦搭乗員の遺体を水葬することを提案した。敵国の、しかもスーサイドアタックなど仕掛けてくる狂人にそのような必要はないと反対の声もあったが、キャラハン艦長は、

「いかに敵でも、戦場で戦って死んだのだからノーサイドだ。死ねば敵ではない。かれは祖国のために命を捧げたのだ。おなじ軍人として鄭重に葬ってやりたい。これは艦長の意向である」

と艦内放送で乗員に伝えた。キャラハン艦長は兄を日本軍との戦闘で失っている。その艦長の決定である。それ以上だれも反対できようはずもなかった。

遺体は日の丸を描いた星条旗に包まれ、翌12日、礼砲5発、総員敬礼をもって水葬されたという。

搭乗員の身元は長らく不明であったが、戦後、「戦艦ミズーリ記念協会」のボランティアが記録を丹念に調査したところ、特攻機は鹿児島県の鹿屋基地から飛び立った第五建武部隊の1機で、操縦していたのは石野節雄二等飛行兵曹であることが判明した。岡山県出身のかれは当時まだ19歳だった。

いまでも、<ミズーリ>の右舷艦尾には「カミカゼ・アタック・サイト」、つまりカミカゼ攻撃を受けた場所として凹みが残されており、これはだれでも見ることができる。もしハワイに旅行で訪れて、<ミズーリ>に乗艦する機会に遇したら、ぜひともその歴史の傷跡を確かめてほしい。

水葬から56年目にあたる2001年4月12日、特攻隊員らの遺族が<ミズーリ>艦上の慰霊祭に招待された。石野二飛曹の遺族は高齢のため出席できなかったが、ともに鹿屋を出撃した隊長や戦友の遺族がかわりに出席し、キャラハン艦長の長男や元乗員らと対面した。半世紀という時を超えて実現した光景だった。

<ミズーリ>をふくめたアイオワ級戦艦は、いずれも敵の猛攻を受けたことがない。よって、<大和>、<武蔵>、<長門>、<ビスマルク>などのように頑丈さを示すわかりやすいエピソードがないのは事実である。

しかし、戦闘能力のない記念艦になっているとはいえ、往年の姿をほぼ完全に保ったまま海に浮かんでいる数少ない戦艦であることもたしかである。電源は陸から引いているし、主砲は砲身の仰角はとれるが砲塔の旋回はできないし、そもそも砲塔を操作するだけで500ページものマニュアルを熟読しておかなければならない代物だが、1944年1月29日の進水以来いまだ沈みも解体もされずに現存しているという点では、まさに不沈艦の名にふさわしい。

<ミズーリ>は数々の栄誉に彩られた銘艦でもある。あわせて17の勲章を受けており、17すべての略綬(勲章を簡略化したリボン)が艦橋に描かれている。その内容は上段の左から順に、

  1. Combat Action Ribbon(優れた戦闘を見せた)
  2. Navy Unit Commendation(優れた支援をおこなった)
  3. Navy Meritorious Unit Commenndation(賞賛に値する武勲)
  4. Navy E Ribbon(効果のある戦闘をおこなった)
  5. China Service Medal(中国での戦いへの栄誉)
  6. American Campaign Medal(第二次世界大戦における活躍への栄誉)
  7. Asiatic-Pacific Campaign Medal(アジア・太平洋での戦いへの栄誉)
  8. World War Ⅱ Victory Medal(第二次世界大戦戦勝記念)
  9. Navy Occupation Service Medal(太平洋戦争と朝鮮戦争の両方で活躍したことへの栄誉)
  10. National Defence Service Medal(国防従軍記章)
  11. Korean Service Medal(朝鮮半島での活躍)
  12. Armed Forces Expeditionary Medal(海外遠征記章)
  13. Southwest Asia Service Medal(湾岸戦争での活躍への栄誉)
  14. Navy Sea Service Deployment Ribbon(海上に特有の困難な任務をなしとげた)
  15. Korean Presidential Unit Citation(韓国殊勲部隊章)
  16. United Nations Korea Medal(朝鮮戦争において国連軍を支援した)
  17. Kuwait Liberation Medal(クウェートを解放した栄誉)

<ミズーリ>は武勲艦でもあるといえるだろう。エイリアンと正面切って戦えるのも納得である。

<大和>なんか作らずに飛行機つくってりゃよかったのにwww日本馬鹿じゃね?www

<大和>、<長門>は艦隊決戦のために建造されたもののその機会をえられなかった薄幸の戦艦として現代に伝わっている。日本のみならず、第一次大戦以降はどの国の戦艦も似たり寄ったりの冷遇にあった。

考えてもみてほしい。戦艦の運用国が想定していた艦隊決戦とは、「ヤアヤア我こそは・・・」と名乗りをあげてはじめる合戦のようなものだった。これが現実で起きると、まともな戦局眼をもった指揮官が双方にいれば、じぶんが有利か不利かくらいは即座に判断できる。不利とわかれば決戦になど応じるはずもない。とっとと逃げる。戦争はスポーツとちがってかならずどちらかが有利であったり不利であったりするからだ。よって戦艦どうしの艦隊決戦はなかなか起きなくなる。戦艦はすでに第一次大戦時から斜陽のきざしをみせていたといえるかもしれない。とくに<大和>は航空攻撃に敗れさったから、当項目のような感想をいだく人も日本には多い。

ではなぜ日本をはじめ、当時の世界の海軍はイケイケドンドンで新戦艦を配備しつづけたのだろうか。

それは、戦艦が最強の攻撃力をもつ戦略兵器であることには疑いの余地がなかったからである。

艦隊決戦が起きないのはじゅうぶんな戦力があっておたがいがおたがいの反撃を恐れて手出しできないからだ。この戦力とは戦艦が基幹となる。戦艦がなければ、相手は遠慮なく本国まで攻めてくるだろうし、無理難題な要求をつきつけてきたりするだろう。抑止力として戦艦は必要不可欠だったのだ。

さて、ここまで読んで、現代にも戦艦と似たような兵器があることにお気づきになられただろうか。最強の攻撃力をもち、その保有数が軍事力、ひいては国力のバロメーターであり、国際的な発言力を保障する兵器・・・。

そう、核兵器である。

いまのところ、核兵器にかわる兵器は登場していない。とうぶんのあいだ、核兵器を陳腐化させ、時代遅れにせしめる兵器は現われないだろう。いつかは登場するかもしれないが、いまではない。
2015年5月、終戦70周年の節目におこなわれた核拡散防止条約(NPT)再検討会議では、全会一致が原則となっている最終文書の採択ができず、事実上なんの成果もあげられないまま閉幕した。原因をかみくだいていうと、核保有国がその特権を手放したがらないエゴイズムによるものという一語につきる。核保有国にあらずんば主要国にあらず。むかしはそれが戦艦だったのだ。

何十年さきか、何百年さきかはわからないが、核兵器にとってかわるもの、新しい概念が世にでたとき、われわれは未来の人間たちから笑われているだろう。「なぜ巨費を投じ環境汚染のリスクまでおかして核兵器なんて時代遅れなものに固執していたんだ?」と。そんなこといわれても当時の人間にはほかに選択肢などなかったのである。

核兵器にかわるものを想像できる者だけが、当時の大艦巨砲主義を笑う資格をもつのである。

<陸奥>が簡単に沈むか!

あ?ああそうだな……いい船だったよ

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関連項目

  • バトルシップ
  • でも今の駆逐艦はすごいぞ。最高だ。
  • 軍事関連項目一覧
  • 軍用艦艇の一覧

参考文献

高知新聞・平成17年11月22日付

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