新自由主義 単語


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シンジユウシュギ

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新自由主義英:Neoliberalism)とは、思想・信条の一類型である。

市場原理主義英:Market fundamentalism)と批判者に呼ばれることがある。

概要

定義

新自由主義を定義すると次のようになる。

比較優位の理論に基づいて自由貿易を絶対的に尊重しつつ自由貿易のためになる経済体制を構築しようとすることを新自由主義という。

自由貿易は絶対に正しいと信じる

新自由主義は自由貿易の絶対的な正しさを信じる思想である。新自由主義者は自由貿易の短所を指摘されたときに「自由貿易には短所があるのかもしれないが、その短所を打ち消してあまりあるほど大きい長所を持っている」と述べる。

新自由主義者が自由貿易の正しさを信じるときの根拠は比較優位である。比較優位を簡単に言うと「自由貿易を推進して国家間の国際的分業を推し進めると世界全体の実質GDPが増える」というものである[1]

自由貿易には企業の収益が増えて費用が減るという長所がある。一方で自由貿易には、農林水産業の分野でそれを行ったときに先進国の地方で過疎化が進んで人口空白地域が発生し凶悪犯罪者が凶悪犯罪の証拠品を隠滅しやすくなって先進国で治安が悪くなるという短所があるし、製造業やサービス業の分野でそれを行うと先進国で労働者の賃金が減少して人口が減少し移民の流入に頼ることになり言語や文化の統一性が失われて人々の間で情報が流通しにくくなり国家全体の生産技術が劣化するという短所がある。

保護貿易は自由貿易の全く逆である。保護貿易には企業の収益が減って費用が増えるという短所がある。一方で保護貿易には、農林水産業の分野でそれを行ったときに先進国の地方で過疎化が進まず人口空白地域が発生せず凶悪犯罪者が凶悪犯罪の証拠品を隠滅しにくいままになって先進国で治安が維持されるという長所があるし、製造業やサービス業の分野でそれを行うと先進国で労働者の賃金が維持されて人口が維持され移民の流入に頼ることにならず言語や文化の統一性が維持されて人々の間で情報が流通しやすい状態が維持され国家全体の生産技術が維持されるという長所がある。

「自由貿易には長所と短所があり、保護貿易には長所と短所がある。ゆえに自由貿易と保護貿易のどちらかを極端に正しいと信じるべきではなく、時勢に応じて自由貿易と保護貿易を切り替えるのが大切である」といった考え方が合理的で理性的な考え方である。

しかし新自由主義は「自由貿易は絶対的に正しい」と考える思想であり、合理的でもなく理性的でもない思想であり、宗教家が信仰対象に対して無謬性を認めるのと同じように自由貿易に対して無謬性を認める思想であり、ある種の宗教的情熱が込められた思想である。

株主資本主義との両立

新自由主義の世になると自由貿易が推進され、国内の企業が安価な外国製品との競争にさらされるようになる。

そうなったとき国内の企業は、同業者同士で合併して企業の規模を大きくしてスケールメリットを享受したり、収益を増やして費用を減らして株主の配当を増やして株価を釣り上げて世界中の国際的投資家から大量の資金を集めたりして、安価な製品を作れるような企業体力を付けることを目指す。

特に後者は株主資本主義株主至上主義)と呼ばれる。新自由主義の時代には必ずといっていいほど株主資本主義が勃興するので、両者は一体不可分である。

株主資本主義の特徴のことを新自由主義の特徴と扱うこともあるが、両者は表裏一体の組み合わせなので、あながち間違いではない。

新自由主義と株主資本主義をあえて区別するのなら「国家の枠組みを超えたマクロ的(巨視的)な視点で考えるのが新自由主義で、個別の企業を眺めるミクロ的(微視的)な視点で考えるのが株主資本主義」となる。

国際的資本移動の自由化

新自由主義は自由貿易を絶対的に支持する思想である。その自由貿易が進展するときは必ずと言っていいほど国際的資本移動の自由化が進んでいく。

国際金融のトリレンマに従うと、世界中の国は①閉鎖経済の国と、②大国開放経済の国と、③固定相場制を採用する小国開放経済の国の3つに分類される。ただし、④変動相場制を採用する小国開放経済の国も存在しており、経済学において重要な分析対象になっている。

この①~④のなかで、国際的資本移動の自由化を導入していて自由貿易との相性が極めて良い国は②と③と④である。したがって新自由主義の時代において理想視される国は②と③と④である。

国際的資本移動の自由化は、自由貿易と同じように、長所と短所がある。

国際的資本移動の自由化の長所は、世界中の投資家から資金を集めることができ、企業の資金調達の金額が巨額になりやすくなることである。「日本の青森県の企業が公募増資して、アイスランドの投資家やブラジルの投資家がその株式を買う」という現象が起こりうる。

国際的資本移動の自由化の短所は、直接金融が過剰に発達してしまい企業に対して良質な情報を伴わずに融資・出資することが増えて企業の成長が促されなくなるという点である。国際的資本移動の自由化により国家に流入する資金は、その国家において直接金融の形態で市場を通じて貸し付けられたり出資されたりする。直接金融というのは間接金融に比べて大きな欠点があり、企業に対して情報の提供が行われにくいというところである。間接金融なら融資担当の銀行員が企業の社長と定期的に会って他の業界から仕入れた情報を豊富に与えることが恒例となり企業の成長が促されるのだが、直接金融ではそういうことが起こりにくい。

「国際的資本移動の自由化によって世界中の投資家から巨額の資金を集めよう」という考え方は金融の量を重視する考え方であり、「国際的資金移動の自由化を制限して間接金融を重視して貸し手から借り手に良質の情報が届くようにしよう」という考え方は金融の質を重視する考え方である。国際的資本移動の自由化を好む新自由主義者の姿は「質より量」という言葉が当てはまるものである。

「自分は国際的に活躍できていない」という劣等感を癒す

新自由主義は日本において根強い人気を博している。その人気の理由の1つは、「自由貿易を絶対的に推進することで、国際的に活躍する人を肯定している気分になり、国際的に活躍する人の仲間入りをした気分になれる」というものである。

日本は日本語を公用語とする国であるが、その日本語は国際的言語ではない。国際的言語の地位を確立している言語というと英語である。

日本で大学教育を受けるとき、多くの場合において、国際的言語の地位を確立した英語で論文を読んだり書いたりすることを強制される。そういう強制を受けるたびに日本語話者の大学生は、日本語が国際的言語ではなくローカル言語であることを思い知らされることになり、「自分はローカル言語の日本語を話しており、国際的に活躍できていない」というような劣等感を抱きがちである。

「自分はローカル言語の日本語を話しており、国際的に活躍できていない」という劣等感を抱く人にとって自由貿易を絶対的に支持する新自由主義は救いの神といった存在である。新自由主義を支持すれば、国際的に活躍する人を多く生み出す自由貿易を絶対に支持することになるので、国際的に活躍する人の仲間入りをした気分になることができ、「自分は国際的に活躍できていない」という劣等感を癒すことができる。

つまり、新自由主義は癒し系の思想だということである。

経済活動の自由を拡大させるが労働三権や積極的情報提供権を縮小させる

新自由主義の自由とは、自由貿易の自由であり、経済活動の自由の自由である。

新自由主義の時代では経済活動の自由が拡大される。経済活動の自由を支えるのは日本国憲法第29条の財産権や日本国憲法第22条の居住・移転・職業選択の自由である。

一方で新自由主義の時代では労働三権や積極的情報提供権(表現の自由)が縮小する。自由貿易に対応するため各企業が株主資本主義を採用し、労働運動が抑制されて労働三権が行使されない世の中になる。自由貿易に対応するため各企業が株主資本主義を採用し、労働者と株主の経済的格差が拡大して格差社会になり、さらには階級社会になり、「あの人は自分とは出来が違うのでとても話しかけられない」などと萎縮する人が多い社会になり、積極的情報提供権(表現の自由)が行使されない世の中になる。

新自由主義の自由には、労働三権や積極的情報提供権(表現の自由)が含まれない。

「新自由主義は自由を抑制する思想である」という言い回しは、ある一面において正しい言い回しである。

核となる経済思想

アダム・スミスは『国富論』という著作で「見えざる手」という経済思想を書いた。そして、後世の経済学者たちがアダム・スミスの言葉を引用しつつ「それぞれの個人が自分の利益だけを自由に追求すると、見えざる手により導かれ、社会全体の利益が増進する」と説くようになった。「それぞれの個人が自分の利益だけを自由に追求すると、見えざる手により導かれ、社会全体の利益が増進する」という考えは、「それぞれの個人を規制から解放して、自分の利益だけを自由に追求するのを肯定しておけば、何もかもよくなっていく。政府の規制を緩和して、それぞれの個人を自由に活動させよう」という考え方となり、新自由主義の規制緩和を後押しするものとなった。

ちなみに「見えざる手」の思想と対照的な思想は、ジョン・スチュワート・ミルが提唱した他者加害原理である。「見えざる手」の思想は「自由は利益を作り出す」という考え方で自由を絶対視するものであるが、他者加害原理は「周囲に害をまき散らす人に与える自由は損害を作り出す」という考え方で自由を絶対視せずに相対視するものであり、水と油のように正反対である。

新自由主義の基礎となる経済学の1つというとサプライサイド経済学である。そのサプライサイド経済学は、ジャン=バティスト・セイが唱え始めたセイの法則(セーの法則、販路法則)を中核にしている。セイの法則とは、「供給は、それ自体が需要を創造する」と表現されるものである。

デヴィッド・リカードは比較優位という考え方を提唱した。ごく簡単に言うと「国家は、自国の得意とする分野の生産に特化すべきであり、自国が得意としない分野において自国生産をとりやめて貿易によって賄うべきである。つまり国際分業をすべきである。そうすると世界全体の富が増大する」というものである。この考え方は新自由主義者が自由貿易を推進するときに必ずといっていいほど持ち出す考え方である。

世界中の経済学部が採用しているというN・グレゴリー・マンキューの教科書には自然率仮説が頻出する。自然率仮説とは「需要というものは短期において供給を増やす効果があるが、長期において供給を増やす効果が無い」というものである。新自由主義者・株主資本主義者は「自然率仮説によると、需要を増やしてもまったく供給を増やす効果が無いのだから、需要など拡大させる意味がない」などと主張しつつ政府購入や消費を拡大させる政策を否定して小さな政府や緊縮財政を肯定することが極めて多い。

通貨の成り立ちや定義を論ずる学説の中に商品貨幣論というものがある。この商品貨幣論は新自由主義や株主資本主義と極めて相性が良い。

「通貨を発行する中央銀行は政府から独立しているべきである」という思想がある。この思想があると、政府が国債を発行して長期金融市場に売却するときに、政府が「中央銀行が通貨を発行して長期金融市場に参加する銀行・企業に余剰の通貨を持たせる」という支援を受けられなくなるので、政府が自由自在に通貨を獲得できなくなる。ゆえに、この思想は新自由主義・株主資本主義の理想視する小さな政府と極めて相性が良い。ちなみに日本は日銀法第4条があって中央銀行の独立性が存在しない国であり、「通貨を発行する中央銀行は政府から独立しているべきである」という思想とは正反対の国である。

基礎となった学者たち

新自由主義の基礎となった経済学者は、フリードリヒ・ハイエクやミルトン・フリードマンとされる。ミルトン・フリードマンはアメリカのシカゴ大学で教鞭を執り多くの弟子を育てたので、彼を慕う経済学者の一群をシカゴ学派(シカゴボーイズ)という。また新自由主義の基盤となる経済学を新古典派経済学と呼ぶこともある。

人々の労働意欲を刺激して国内の生産力・供給力を強めることを重視するサプライサイド経済学(供給者側経済学)も、新自由主義の基礎の1つとされる[2]。これの支持者をサプライサイダーというが、主な人はロバート・マンデル、アーサー・ラッファーなどである。

ジェームズ・マギル・ブキャナン・ジュニアは、新自由主義の流行が本格化した1986年にノーベル経済学賞を受賞した。彼の提唱する均衡財政論・健全財政論は新自由主義・株主資本主義の理想視する小さな政府と極めて相性が良い。

親和性の高い自己啓発本

サミュエル・スマイルズという英国の作家は1859年に『自助論(サミュエル・スマイルズ)』という自己啓発本を発表した。序文に「天は自ら助くる者を助く」という文章があり、そのあとはひたすら「努力すれば成功する」「成功者は他人の援助を当てにせずに努力をした」という内容が続く。新自由主義者のなかには『自助論』を絶賛するものがいる[3]

名称

新自由主義(英:Neoliberalism)という言葉を考案したのはドイツのアレクサンドル・リュストウという経済学者である。1938年に知識人が集まって開催されたウォルター・リップマン国際会議でこの言葉を発表した。

市場原理主義という表現

新自由主義の別名称

市場原理主義英:Market fundamentalism)という表現は、新自由主義(英:Neoliberalism)の別名称である。

市場原理主義は新自由主義と全く同じで、比較優位の理論に基づいて自由貿易を絶対的に尊重しつつ自由貿易のためになる経済体制を構築することを優先する思想である。

命名者とされる人、学術誌における初出

Market fundamentalismという言葉は、イギリスの社会問題ジャーナリストであるジェレミー・シーブルックが生み出したものであるという。パラグミ・サイナートというインドの社会問題ジャーナリストが、そのように述べている(記事)。

ジェレミー・シーブルックは、『世界の貧困―1日1ドルで暮らす人びと』という著作を持っており、新自由主義を批判し、格差の拡大に警鐘を鳴らすタイプの人である。

1991年8月の『Anthropology Today(こんにちの人類学)』という人類学者向けの学術誌の1~2ページに、Market fundamentalismという言葉が載っている。

経済学者の八代尚宏は「市場原理主義という言葉は、そもそも経済学にはありません。」と『日刊サイゾー』の2011年10月29日版で語っている。

パラグミ・サイナートと八代尚宏の発言を総合すると、「Market fundamentalismという言葉は、経済学の外にいるジャーナリストが、新自由主義に対して独自の感覚で名付けたものであり、経済学者たちの議論から生まれた経済学用語ではない」ということになる。

蔑称の響きがある

市場原理主義(Market fundamentalism)という言葉には蔑称の響きがある。

原理主義(fundamentalism)というのは、天地創造など聖書の記述をすべて事実と扱う米国キリスト教運動のことを指す言葉である。そうした運動をする人たちを批判するときに使われた蔑称だという(臼杵 陽の論文)。

1979年にイランで革命が起こった。このとき政権を奪取した人たちをイスラム原理主義者(Islamic fundamentalist)と呼ぶようになった。このため、「○×原理主義」というのはイメージが悪い言葉で、これを自称する人はとても少ない。

批判者達に使用される

市場原理主義という言葉は、新自由主義を批判する立場の経済学者によって使われることがある。

ジョセフ・ユージン・スティグリッツは、2001年にノーベル経済学賞を受賞したとき、次のような文章を書いている。

More broadly, the IMF was advocating a set of policies which is generally referred to alternatively as the Washington consensus, the neo-liberal doctrines, or market fundamentalism, based on an incorrect understanding of economic theory and (what I viewed) as an inadequate interpretation of the historical data.

-ジョセフ・スティグリッツ『Facts』-

the neo-liberal doctrines, or market fundamentalism と書いてある。「新自由主義の信条、言い換えると市場原理主義」といった意味であり、新自由主義をわざわざ言い直している。

「市場・原理主義」なのであって「市場原理・主義」ではない

市場原理主義という言葉はMarket fundamentalismを翻訳した言葉であり、市場・原理主義という意味である。

しかし、市場原理主義のことを市場原理・主義のことだと考えている人がいる。つまり「英語のMarket principle-ismを翻訳した言葉なのだろう」と漠然と考えている人である。それは、厳密に言うと間違いである。

しかし、市場・原理主義(Market fundamentalism)は市場原理(Market principle)をやたらと重視するので、市場・原理主義(Market fundamentalism)と市場原理・主義(Market principle-ism)を混同しても、おかしいことにはならない。

歴史的背景

第二次世界大戦後、先進国で目指されたのは、第一次世界大戦と第二次世界大戦やその間に起きた世界恐慌を再び繰り返さないようにするべく、国際的・国内的な政治的平和と経済的安定化を確保するような秩序の構築だった。

この秩序を可能にする政治経済体制として多くの国々に合意されたものを国際政治学者のジョン・ラギーは「埋め込まれた自由主義」と定義した。すなわち、市場を自由放任にすると不況や失業が生じるので、調整的・緩衝的・規制的な諸制度の中に自由主義を埋め込む。つまり、国際的には自由貿易と保護貿易の中間に位置するGATT体制を構築しつつ、他方で、国内的には政府が国際競争に脆弱な国内の社会集団を保護する福祉国家的政策を進めた。いわゆる修正資本主義であり、ケインズ経済学はこれを後押しするものである。

この修正資本主義は、1960年代まではうまく機能してきたが、1970年代頃から機能しなくなった。国際経済的には世界的規模のスタグフレーションが起き、各国の国内経済的には財政危機が起きた。それらの原因は、1965年~1975年のベトナム戦争、1973年の第一次オイルショック、1979年の第二次オイルショックとされる。

こうした深刻な危機に直面する中でいくつかの対案が出されたが、結局、国家によるコントロールを維持すべきだとするケインズ経済学陣営と、自由貿易を活発化させるべきだとする新古典派経済学陣営に分かれることになり、後者の新古典派経済学陣営が先進国の政治の中で影響力を持つようになった。これが新自由主義と呼ばれるものである。

新自由主義的国家編成の最初の実験が行われたのは、1973年のチリである。民主的に選ばれた左翼社会主義政権が、アメリカのCIAとキッシンジャー国務長官によって支援されたピノチェト将軍によるクーデターで転覆させられたあと、ミルトン・フリードマンが拠点としていたシカゴ大学から送られた経済学者たち(シカゴ学派)によってピノチェト軍事政権下で新自由主義政策が推進された。チリ経済は短期的には復興を見せたが、大半は国家の支配層と外国の投資家に利益をもたらしただけだった。

しかし、この実験を成功とみなした新自由主義者が、1979年以降、イギリスのマーガレット・サッチャー政権とアメリカのロナルド・レーガン政権下で新自由主義政策を推進した。サッチャー政権においてサッチャリズム、レーガン政権においてレーガノミクスという名前が新自由主義の経済政策に名付けられた。また、日本においても、中曽根康弘首相が、国鉄、電電公社、専売公社、日本航空を相次いで民営化し、新自由主義的政策を実行している。

その後、アメリカで1990年代に加速された金融化が世界中に広がり、アメリカへと利益を還流させた。結果、アメリカ経済は好況を呈するようになる。

こうしてアメリカの新自由主義が様々な経済問題の解決策であるかのように振る舞うことが政治的に説得力を持つようになり、1990年代のワシントン・コンセンサス、1995年のWTOの創設で新自由主義は確立するようになる。更に、1990年代には発展途上国だけでなく、日本やヨーロッパも新自由主義的な道を選択するよう経済学や政治の場で主張されるようになる。

理論

新自由主義は「埋め込まれた自由主義」から自由主義を解き放つことを主張する。すなわち、社会民主主義的福祉国家政策(大きな政府)によって膨らんだ財政赤字を削減するための口実として小さな政府が謳われる。ここから国営事業、公営事業の民営化が進められた。また、国家による市場介入ではなく、市場を自由放任にすることが国民に公平と繁栄をもたらすという自由放任主義が求められた。この考えから市場の自由を妨げる様々な領域での規制を緩和していくことが目指された。

新自由主義の一つの理論的根拠として、トリクルダウンがある。トリクルダウンとは、社会民主主義的福祉国家のように国家の財政を公共事業や福祉などを通じて貧困層や弱者に直接配分するよりは、大企業や富裕層の経済活動を活性化させることによって富が貧困層や弱者へと「したたり落ちる」のを待つ方が有効であるという考え方である。

税制の改正に関して言えば、これを根拠に富裕層の税金が軽減され、企業に対しておびただしい数の補助金や優遇税制が提供され、富の配分比率が富裕層寄りに変えられた。

また、企業の経営方針の見直しが行われ、その延長線上で労働法の改正が行われた。日本では、その経営の特徴と言われた終身雇用と年功序列が見直され、アメリカ型とされた株主資本主義になった。これにより、リストラや労働者の賃下げをしてでも、株主への配当を優先することが動機づけられた。この労働者の賃金削減のために雇用の流動化が推進され、労働基準法改正という規制緩和が推進された。日本では2008年において労働者全体に占める非正規雇用労働者の割合が三分の一を超えるまでになった。

富裕層への優遇は、投資をめぐる法解釈にも現れている。投資に関して、借り手より貸し手の権利を重視するようになった。例えば、貧しい者がその住居を差し押さえられる事を何とかするよりも、金融機関の保全と債権者への利払いを優先させる。実際、サブプライムローンの焦げ付きから端を発した2008年の金融危機では、多くのローン返済が困難になった貧困者が住居を追い出されたのに対して、アメリカの金融機関のいくつかは国家に救済された。

主な論者による批判

東京大学名誉教授の宇沢弘文は、「新自由主義は、企業の自由が最大限に保証されてはじめて、個人の能力が最大限に発揮され、さまざまな生産要素が効率的に利用できるという一種の信念に基づいており、そのためにすべての資源、生産要素を私有化し、すべてのものを市場を通じて取り引きするような制度をつくるという考え方である。新自由主義は、水や大気、教育や医療、公共的交通機関といった分野については、新しく市場をつくって、自由市場・自由貿易を追求していくものであり、社会的共通資本を根本から否定するものである」と指摘している。

ニューヨーク市立大学名誉教授のデイビッド・ハーヴェイは、著書『新自由主義―その歴史的展開と現在』で、新自由主義とは国家権力によって特定企業に利益が集中するようなルールをつくることであると指摘し、著書『ネオリベラリズムとは何か』で、ネオリベラリズムとはグローバル化する新自由主義であり、国際格差や階級格差を激化させ、世界システムを危機に陥れようとしていると指摘している。また自由主義は、個人の自由な行為をそれがもたらすかもしれない代償の責任を負う限りにおいて認めるのに対して、新自由主義は、金融機関の場合、損害を被る貸し手を救済し、借り手には強く返済を求める点から、実現された新自由主義を階級権力の再生と定式化する。

ノーベル経済学賞受賞者であるジョセフ・ユージン・スティグリッツは、「ネオリベラリズムとは、市場とは自浄作用があり、資源を効率的に配分し、公共の利益にかなうように動くという原理主義的な考え方にもとづくアイデアをごちゃまぜにしたものだ。サッチャー、レーガン、いわゆる「ワシントン・コンセンサス」である民営化の促進にもとづいた市場原理主義である。4半世紀のあいだ、発展途上国のあいだでは争いがあって、負け組は明らかになった。ネオリベラリズムを追求した国々はあきらかに成長の果実を収穫できなかったし、成長したときでも、その成果は不均等に上位層に偏ることになった」と指摘している。また1990年代の資本還流によるアメリカ経済の好景気は、IMFと世界銀行によるものと説明する。つまり、この2つは、発展途上国が求める融資を提供することと引き換えに債権国やアメリカの意向を反映した、構造調整計画を、1980年代から1990年代を通じて実施要求してきた。しかしこの改革は、メキシコ、アジア通貨危機、ロシア、ブラジルの経済危機、アルゼンチンの全面破綻を引き起こした。結果が伴わない場合は、「改革が十分に実行されなかった」と、責任転嫁をしてきたという。

中国の思想家の汪暉は、中国における新自由主義の特徴の一つとして、国家の推進する国有企業改革を擁護する「国家退場論」を挙げる。1990年代以降、急速に進められてきた国有企業改革は、国有企業の資産や経営権を国から民間へ譲渡する「国退民進」として現れる。しかし、その過程自体が国家的に推進されているため、本来公有資産であったものが、国有企業指導者層ら既得権益者によって実質上私有化されるとして批判される[4]

新自由主義と共産主義の共通点

正反対のように見えて共通点が存在する

共産主義(社会主義)という経済思想がある。国内のすべての生産手段を国有化して国内のすべての企業を国営企業に変えてしまおうという思想である。

新自由主義は「小さな政府」を志向する思想で、共産主義は「大きな政府」を志向する思想であり、 両者は水と油のように正反対であるかのように見える。

ところが新自由主義と共産主義には共通点が見受けられる。 

新自由主義を支持する者の中には反共を訴える人がいる。そういう人にとってはショッキングなことである。

格差社会・階級社会になる

新自由主義を採用すると、自由貿易に適応できる企業を作りあげるために株主資本主義が広まり、ごく一部の勝ち組の株主が富を独占し、大部分の負け組の労働者との経済格差が広がっていき、格差社会や階級社会が出現する。

共産主義の経済格差も顕著である。国営企業の経営を一手に握る官僚は富を独占して贅沢な暮らしをする。ソ連のノーメンクラトゥーラは特権階級として有名で、彼ら向けの百貨店も存在した。一方、ソ連の庶民は配給の列に並んで決まった量の粗末な品物を受け取る毎日になっていて、ソ連は典型的な格差社会・階級社会の国になっていた。

市場の独占・寡占が進む

新自由主義を採用すると、自由貿易に適応できる企業を作りあげるために企業の合併が進んでいく。「国際競争力を付けなければならない」といいつつ同業の企業が合併していき、大きな市場シェアを抱える企業ばかりになり、市場を2~3社で寡占したり1社で独占したりするようになる。また解雇規制が緩和されることで各企業が積極的に雇用拡大できるようになり、各企業が生産能力を一気に拡大できる社会になり、市場占有率を一気に上昇させる企業が増えやすくなり、寡占・独占に突き進む大企業が多い社会になる。

共産主義も同じで、国内のすべての企業を国有化することで、政府という超巨大企業1社が全業種の市場シェアを100%独占するようになる。

反抗的な労働者を追放する

「物言う従業員」を経営上の脅威と位置づけ、反抗的な労働者を追放する仕組みを整えている点も新自由主義と共産主義の共通点である。新自由主義者も共産主義者も、全能感・万能感に満ちあふれていて致命的な思い上がり[5]をしているので、「経営者というものは自分の決意だけで完璧な判断をすることができるのであり、下々(しもじも)の言うことなど聞く必要は無いのだ」という感覚にとらわれやすい。

新自由主義の国では国の現業が廃止されて気骨ある対決型労働組合が存在しなくなり、すべての労働組合が御用組合になっていき、さらには労働組合を持たない企業が多く出現するようになる。そして、新自由主義・株主資本主義の国では解雇規制が緩和されて、経営者に対して反抗的な労働者が解雇される。

共産主義国でも同じであり、共産主義国の労働組合は極めつけの御用組合だった。ソ連において、企業経営者である政府に反抗的な労働者はシベリア送りにされたり強制収容所に放り込まれたりして、極度に悪い環境をあてがわれて健康を破壊されていた。

権力者への個人崇拝が進む

「巨大な団体に所属して人事権を振るう現役の権力者」に対する個人崇拝が発生するところも新自由主義と共産主義の共通点である。

新自由主義が流行って株主資本主義が導入されて累進課税が弱体化した国では、大企業経営者が「カリスマ経営者」になって高額報酬を受け取ることを目指すようになり、経済雑誌に登場してロック歌手かアイドルであるかのように振る舞って、「経営者の超人的な判断能力が大企業を正しい方向に導いた」と宣伝して、民衆が自らを崇拝するように仕向けようになる[6]

共産主義国では独裁者の肖像画や彫刻を広場に設置して、「独裁者の超人的な判断能力が国を正しい方向に導いた」と宣伝して、民衆が崇拝するように仕向けていた。

倒産を忌避し企業を延命させようとする

「企業の倒産」を忌まわしい現象と位置づけ、企業の延命をなによりも優先し、「倒産しない企業や倒産しにくく永続しやすい企業ばかりになる社会」を理想視するところも新自由主義と共産主義の共通点である。新自由主義者も共産主義者も企業の倒産を極度に怖がる倒産恐怖症というべき心理状態になっている。

新自由主義の国では株主資本主義が主流となり、解雇規制が緩和されて人件費を急減少させることが可能になり、不況になっても税引後当期純利益を叩き出す企業が主流となり、貸借対照表の純資産の部の利益剰余金が大きくて自己資本比率が大きい企業が主流となり、倒産しにくく永続しやすい企業が主流となる。また新自由主義が主導権を握る国では直接金融の「株式発行による資金調達」が主流になり、貸借対照表の純資産の部の資本金・資本剰余金(資本準備金)が大きくて自己資本比率が大きい企業が主流となり、倒産しにくく永続しやすい企業が主流となる。

一方で共産主義国ではすべての企業が国有化され、決して倒産しない企業になる。

新自由主義も共産主義も「倒産しにくく永続しやすい企業」を作り出す思想であるが、そうした「倒産しにくく永続しやすい企業」は宗教法人とよく似ている。多くの国において、政府が宗教法人に対し「宗教活動によって得られる法人所得」について法人税を課税しておらず、宗教団体が「倒産しにくく永続しやすい団体」になっている。つまり、新自由主義も共産主義も企業を宗教法人に近づけようとする思想である。

新自由主義も共産主義も企業を宗教法人に近づけようとする思想なので、どことなく宗教と似たような雰囲気を漂わせることになり、権力者への個人崇拝が進むなどの性質を持つことになる。

官民協働を否定する

「官と民が力を合わせて共存するべきであり、官民協働が大事だ」とか「官には『民間に存在しない長所』があり、民間には『官に存在しない長所』があるので、双方が補い合うべきだ」という思想を持っておらず、「官と民がこの世に存在するが、片方は完全無欠であり、もう片方は全てにおいて劣っている」とか「官と民がこの世に存在するが、優秀な片方に全てを任せるべきであり、劣った片方は消滅するべきだ」という思想を持っていることも新自由主義と共産主義の共通点である。新自由主義者も共産主義者も、全能感・万能感に満ちあふれていて致命的な思い上がりをしているので、そういう極端な判断に傾くことになる。

新自由主義は典型的な民尊官卑で、「民間は全てにおいて優秀である」と考えて民間主導の経済にすることを目指しており、政府に回す予算を徹底的に削ることを好み、「経済における政府の存在を決して許さない」という傾向が非常に強い。

一方で共産主義は典型的な官尊民卑であり、「官僚は全てにおいて優秀である」と考えて官僚主導の経済にすることを目指しており、「経済において民間企業の存在を決して許さない」という傾向が非常に強い。

スケープゴートに対するルサンチマンを刺激する

一定の既得権益を持つ者をスケープゴート(いけにえ)に仕立て上げ、そのスケープゴートに対する嫉妬心を煽りつつスケープゴートの解体を目指すという点も新自由主義と共産主義の共通点である。新自由主義も共産主義も大衆のルサンチマン(恨み・憎しみ・ねたみ・ひがみ・嫉妬心)を煽るのが上手い。

新自由主義は「政府の規制に保護されている存在」をスケープゴートに仕立て上げ、それらに対する嫉妬心を煽る。公務員、農家、正社員といった人たちを既得権益と呼び、「そうした人たちが政府規制の保護を受けて不当な利益を享受している」と論じたて、既得権益の解体を主張する。

共産主義は資本家・株主をスケープゴートに仕立て上げ、それらに対する嫉妬心を煽る。会社を所有する資本家を既得権益と呼び、「そうした人たちが労働者を搾取して不当な利益を享受している」と論じたて、既得権益の解体を主張する。

また、既得権益を持つ者をすべてスケープゴートに仕立て上げず、一部の既得権益を温存して格差社会・階級社会を維持するのも新自由主義と共産主義の共通点である。

新自由主義は資本家・株主という既得権益をスケープゴートに仕立て上げず、それらをしっかり温存し、格差社会・階級社会を維持する。

共産主義は国営企業の経営を一手に握る官僚という既得権益をスケープゴートに仕立て上げず、それらをしっかり温存し、格差社会・階級社会を維持する。

フリーライダーに対する憎悪を刺激する

富を生み出さないのに富を得ている人、生産をしないのに消費をする人、「働かざる者食うべからず」の格言に従わない人、すなわちフリーライダーへの軽蔑と憎悪が強いことも新自由主義と共産主義の共通点である。

新自由主義は、払った税金の額よりも多くの額の利益を政府の福祉部門から受けている人を軽蔑する傾向にある。新自由主義の旗手であるロナルド・レーガンは、「福祉の女王(welfare queen)が存在していて、税金をロクに払わないのに福祉制度を悪用して高級車を乗り回している。納税者の富にただ乗りして、納税者を搾取している。フリーライダーを許してはならない」と選挙の時に主張していて、批判者から「でっち上げ」と指摘されていた[7]。また新自由主義を支援する思想は株主資本主義であるが、その株主資本主義は成果主義・能力主義を導入して年功主義(年功序列)を否定する思想であり、疲れ切った様子であまり働けないのに高額の給与をもらう高齢労働者をフリーライダーと見なして軽蔑する傾向にある。

共産主義というと労働価値説であり、そこから「会社の富を本当に作り出しているのは労働者である」という論理を展開していた。その論理から、「株主である資本家は労働もしていないのに利潤を得ている。労働者の富にただ乗りして、労働者を搾取している」と主張していた。ウラジーミル・レーニンは論文で盛んに「働かざる者食うべからず」の格言を引用しており、そこから先述の通りに「資本家は労働をしていないのに美味しい料理を食べている」と主張していた。

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関連項目

新自由主義を含む分野

  • 政治
  • 経済
  • 経済学
  • 経済に関する記事の一覧

新自由主義の性質

  • 自由
  • 市場
  • 自助論
  • 自己責任
  • 意識高い系
  • 仕事中毒(ワーカホリック)
  • 覚醒剤
  • ブラック企業
  • ブラックバイト
  • パワーハラスメント(パワハラ)
  • 貧乏
  • 貧困
  • ワーキングプア(ワープア)
    • 高学歴ワーキングプア(高学歴ワープア)
  • 格差社会
  • 階級社会
  • 弱肉強食
  • カルト
  • 無敵の人
  • 肉屋を支持する豚
  • ルサンチマン
    • 嫉妬
    • 憎しみ
    • ヘイト
  • ヘイト主義
  • ヘイトスピーチ
  • 働かざる者食うべからず
  • 自由及び権利には責任及び義務が伴う
  • 小さな政府
  • 夜警国家
  • 民尊官卑
  • トリクルダウン
  • 無政府主義(アナーキズム)
  • リバタリアニズム
  • グローバル化(グローバリズム)
  • 株主資本主義
  • 資本主義
  • 直接金融
  • 親米保守

新自由主義者が敵対する者に対してよく使う表現

  • 共産主義
  • 社会主義
  • フリーライダー

新自由主義のに親和性のある経済学者

  • 古典派経済学
    • アダム・スミス
    • デヴィッド・リカード
  • ジェームズ・マギル・ブキャナン・ジュニア
    • フリードリヒ・ハイエク
    • ミルトン・フリードマン
    • 竹中平蔵

新自由主義を支持する人たち

  • ロナルド・レーガン
  • マーガレット・サッチャー
  • 中曽根康弘
  • 清和政策研究会(清和会)
    • 小泉純一郎
    • 安倍晋三
  • 小泉進次郎
  • 日本維新の会
    • 橋下徹
  • ワタミ
    • 渡邉美樹
  • 経団連(日本経済団体連合会)
  • 幸福実現党
    • 幸福の科学
    • 大川隆法
  • 世界平和統一家庭連合(統一教会)
    • 世界日報
    • ワシントン・タイムズ
  • 渡部昇一
  • 池田信夫

脚注

  1. *比較優位については池上彰がこの記事で簡潔に解説している。
  2. *ちなみにサプライサイド経済学の反対に位置するのはケインズ経済学で、需要の拡大を重視するものである。
  3. *【竹中平蔵の骨太対談】vol.29 天は自ら助くる者を助く 自助・自立の勧め/vs リンクアンドモチベーション社長 小笹芳央にて、竹中平蔵が「小泉純一郎にとって一番好きな本のうちの1つが『自助論』である」と証言している。また、竹中平蔵も『自助論』が好きで、「ゼミの学生に経済学の本よりも先に『自助論』を読ませる」と語っている。また、渡部昇一も『歴史の鉄則』などの自著で『自助論』を絶賛していた。マーガレット・サッチャーも『自助論』を愛読し、「英国の全ての小学生に『自助論』を贈りたい」と発言したという(記事)。ちなみに竹中平蔵と渡部昇一とマーガレット・サッチャーはいずれも商店を実家としており、両親が商店の経営者だった。『自助論』の著者サミュエル・スマイルズも商店を実家としており、両親が商店の経営者だった。こうした共通点も注目すべきところである。
  4. *汪暉(著)、石井剛・羽根次郎(翻訳).『世界史のなかの中国:文革・琉球・チベット』.青土社,2011年,p.132
  5. *致命的な思い上がり(the fatal conceit)」というのはフリードリヒ・ハイエクの言葉である。フリードリヒ・ハイエクは、統制経済・計画経済を推し進めた共産主義国の経済官僚を批判するとき、「彼らは『人はどんな複雑な経済現象も完全に支配する理性・知性を持っている』と考えており、致命的な思い上がりをしている」と表現した。最晩年の著作の題名も『致命的な思い上がり(The Fatal Conceit)』というものである。
  6. *累進課税を弱体化させるとこうした大企業経営者の姿が見られることは、トマ・ピケティが『21世紀の資本』の532ページで、ポール・クルーグマンが『格差はつくられた』の101~104ページで、それぞれ指摘している。
  7. *ポール・クルーグマンの『格差はつくられた』の119ページでこの事件が語られている。1976年の大統領選挙に出馬したロナルド・レーガンはシカゴで起こった福祉詐欺事件を大袈裟に誇張し、「福祉の女王」という表現を広めた。このときレーガンが批判したのはリンダ・テイラーという女性で、黒人の父親と白人の母親の間に生まれた人であり、つまりは黒人と扱われるタイプの女性だった。「レーガンなどの保守派は、人々の人種差別意識を利用して福祉予算を削減しようとする傾向がある」という内容のことをクルーグマンは『格差はつくられた』の117~121ページで語っている。

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