松平定信とは、江戸時代後期の政治家である。
江戸後期,寛政の改革を行った白河藩主にして老中。実家は御三卿筆頭の田安家、徳川吉宗の孫。白河藩へ養子にいった後、実家が跡継ぎがいなくなったため、田安家へ戻ろうとしたが田沼意次の妨害にあい実現しなかったといわれている。田安家が当主不在のまま10代将軍徳川家治が亡くなり,将軍家の後継は15歳の一橋家の家斉が収まった。定信が田安家にいれば将軍になった可能性は十分にあった。
天明6年(1786年)に家治が死去して家斉の代となり、田沼意次が失脚した後の天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となる。そして天明の打ちこわしを期に幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。
寛政の改革の成果については現代では賛否が分かれている。また昨今の田沼意次の再評価の煽りを受け、定信に関しては過小評価がされている傾向がある。
・明和~安永期の幕府経済政策をすべて田沼意次の政治と結びつける考えがあるが,この時期の政治の主導権は老中主座の松平武元が握っており、田沼意次が専横を行ったのは松平武元死後。ただし、専横時代の田沼の政策はすべて失敗か田沼の失脚で中途半端に終わっている。
・田沼は積極財政で景気を良くしたみたいな話を見かけるが、実際は緊縮財政。明和~天明期にかけて、前代に続いて繰り返し倹約令を出し続け、行政などのコストを削減のため認可権件を行使して民間の商人に任せ、災害・凶作の際に助けるはずの大名への拝借金も停止。さらには諸大名は公共工事を積極的に押し付けていくなど田沼時代の財政黒字は積極財政などとは真逆の倹約令などの緊縮財政の成果である。
・田沼の先進性としてロシア交易と蝦夷地開発などが挙げられるが、これも実態は調査団を送った結果、実入りが思わしくなかったため、田沼意次の失脚前からなかったことにされた。定信が政権を握った後、握りつぶしたというのは事実無根である。
むしろ、定信は日露交渉の際に”国交無き国の船は、打ち払うのが古よりの国法である”としながらも、長崎への信牌(長崎への入港許可証)をロシアに交付し、次回ロシアが来たときは通商もやむなしと考えていたとされているので、消極的開国容認派ともいえる立ち位置にいた。(なお、ロシアが次回長崎に来た際は定信は失脚していたため交渉は失敗に終わり樺太・択捉を襲撃されるという露寇事件がおこった。失脚後も定信は海防の強化を訴え続けたという)
・定信は重農主義と言われるが、武士の生活苦、農村の荒廃、貧困農民の都市流入は田沼以前から慢性化していた。さらに時期的に意次が天明の大飢饉の際の失策で農村荒廃と人心離れを起こした尻ぬぐいが必要であったので、農業政策を重視するのはむしろ自然。
・意次の時代は人材や提案を民間などからも幅広く募い、現代ではこれを現代的と評価されているが、実際のところ、これらの意見は山師的な場当たり的な計画が多かったため、見積もりが甘く失敗するケースも多々あった。
・定信の時代、定信は勉学ができるものを幕府内で出世するように改革した。当時は勉学ができて出世できるのは裏方のみで軍事面にはあまり意味がなかったが、定信の時代以降勉学ができるものが等しく出世できるようになった。「寛政以来、幕府の要職者は卑しい身分からの者ばかりで武功の家の者は少なくなった」と述べた記録も残っており、勝海舟などを登場させる基盤を残したといえる。
・松平定信の時期は「寛政異学の禁」によって林家(林羅山の子孫で大学頭を世襲)の門人が儒学のうち朱子学以外の学問を学ぶことを禁じ、その余波で結果的に蘭学は後退とまでは言わないまでも寒冷期になった。だがしかし、彼の著書、『宇下人言』では「蘭学は有益」との記述しており、定信自身は蘭学の有益性を認めていた。
・経済政策は定信の庶民まで含めた倹約令は擁護のしようがない失策であり、経済感覚においては評価は低い。ただ、誤解の上で批判されがちな棄損令だが、これは乱暴な借金帳消しではなく、実際には一定以上過去の分のみの帳消しであり、貸していた札差には取り消し分のある程度の補償金を与えたものであり、そこまで批判されるようなものでもない。
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最終更新:2025/12/13(土) 03:00
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