武田信義 単語


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タケダノブヨシ

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武田信義(たけだ のぶよし、1128~1186? / 1142~1200?)とは、平安時代末期から鎌倉時代にかけて活躍した武将である。

概要

義光流河内源氏・逸見清光の嫡男として生まれる。兄の逸見光長とは双子だったらしいことが記録に残る。13歳の時京都で源為義を烏帽子親として元服したそうだ。以降甲斐源氏の総領としてふるまう

平治の乱以降の平家政権の時代には嫡男武田有義を中央に仕えさせ、当初は平家に従う源氏の一人だった。しかし1180年の以仁王の令旨、および伊豆での源頼朝の挙兵に呼応しまず信濃国に侵攻。鎌倉との連携を見せつつ鉢田合戦で駿河目代・橘遠茂率いる駿河・遠江連合軍を敗北させる。

さらにその勢いで中央から討伐に来た平維盛、伊藤忠清を富士川の戦いで敗走させ、黄瀬川でようやく源頼朝と合流した。こうして武田信義は平宗盛の知行国だった駿河を実力で支配し、頼朝にそれを追認させる。こうして信義と頼朝のどちらが上か現在でも評価が分かれる同盟関係が結ばれたのだ。

しかし1181年に後白河院から武田信義が源頼朝暗殺を命じられたといううわさが流れ、それを釈明しに来た時点で力関係は決まったとされる。以後信義を警戒した頼朝は信義弟の加賀美遠光、信義五男の石和信光を重用する方針に定め、1184年には信義次男の一条忠頼を誅殺。頼朝死後の1200年の梶原景時の乱の際に嫡男だった武田有義の関与が疑われ、これまたちょうどいいタイミングで有義が死亡。
こうして以後甲斐源氏は遠光の子孫・小笠原氏と信光の子孫・武田氏が御家人として生き延びていき、清和源氏の嫡流レースからは脱落していった。

なお信義本人は甲斐源氏の凋落による失意の中亡くなったとされるが、『吾妻鏡』に記された彼の没年はミスで、実際は武田有義よりも長く生きているという説もある。

関連項目

  • 日本史の人物一覧
  • 治承・寿永の乱
  • 武田信光
  • 安田義定
  • 加賀美遠光
  • 鎌倉殿の13人
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