田沼意次 単語

30件

タヌマオキツグ

2.2千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

田沼意次とは、江戸時代後期の政治家である。

概要

田沼は紀州足軽系であったが、田沼意行が当時部屋住みであった徳川吉宗の側近となったことにより、彼が8代将軍に就任したことで旗本となっていた。その長男として生まれたのが意次である。

彼もまた、吉宗息子で9代将軍であった重に仕えて出世、続く10代将治のもとでも更に出世をとげ、老中に就任。
農民からの年貢以外にも、商業など様々な方面から税収を集める重商義施策(仲間、俵物の輸出、通貨制度の統一など)をとり、幕府の増収と経済発展に貢献した(田沼時代)。また北海道夷地)の地勢的な重要性を認識し、その開拓も進めようとした。

しかし商業の発展は社会化を呼び贈収賄が横行するようになり、また天明飢饉への対処が満足に出来なかったこともあり、次第に世の中で反田沼潮が強まっていく。そして治の死去とともに幕閣を追い出され、更には厳封処罰を受け、失意の中で死去。

その後、田沼意次から老中が松平定信白河)に変わったことで、庶民からは社会の清浄化が進むという期待から

「田や沼や 濁れる御世を めて 清く澄ませ 白河

という歌が詠まれた。しかし寛政の革が進むと、

白河の あまり清きに 住みかねて 濁れるもとの 田沼しき」
白河の 清き流れに 魚住まず 濁れる田沼 今はしき」

と、窮屈さに不満を漏らす歌が読まれている。

上述した通り商業重視の政策をとったため、商人に多くの利権を与えることとなり、また社会権化が進んだ。
そのため、彼の政策に反感を抱いた武士や庶民からは見返りに多々の贈賄を受けた賄賂政治家という説を多く流され、のちに権を握った定信もその悪評を政治活動の上で利用したことから(実際には定信も意次に賄賂を送っていた)、以後近代に至るまで悪徳政治家の印が定着した。時代劇等でも悪の総本山のような扱いを受けるのがしばしばであった。

しかし戦後経済に通じた先見ある政治家として、徳川綱吉の時代に元鋳を行った荻原重秀らとともに再評価が始まっている。

意次ゆかり下町、旧相良静岡県牧之原市では彼に因んだ土産として「ワイロ最中」が販売されている。これは意次に付いた汚名をそそぐのはなかなか難しいことから、逆の発想で悪名を利用してインパクトを得るとともに、購入者に実際の彼の姿を知ってもらおうと言う企画から生まれたものと言われている。

俗説・風説


現実には意次は権で政治を行うことはく、私服を肥やすこともかったと言われる。

……などとネットに書かれることがあるが、田沼の時代が権で賄賂が盛んだったのは史実である。この田沼賄賂を受け取っていなかったという話は歴史学者の大石三郎が書籍で”信憑性のない資料では田沼意次が権腐敗の政治家だとは断言できない”とったことを大石が”田沼権腐敗の政治家ではない”としたと拡大解釈した話がネットなので流布した結果の俗説である。(むしろ大石は書籍の中で田沼がこの(資料の)時に賄賂を受けとったのかは”わからない”と書いている)

また大石の”田沼賄賂を受け取ったと書かれた信憑性のない資料”という判断も他の学者から後に誤読摘を受けている。現在アマチュアが出した本ならともかく、本職の歴史学者が田沼賄賂を受け取らなかったとする書籍はない。

また同様に、田沼積極財政300万両貯めたという話も実際には田沼が老中格になった時に幕府の備蓄300万両あったという話を誤解したものである。(幕府の備蓄300万両あった年は明和7年、田沼が老中格になったのは明和6年。しかも当時の老中首座は武元である)

さらにこれが一番多い誤解であるが田沼時代の財政政策は積極財政ではなく緊縮財政であった。田沼時代は享保の革で行われた様々な緊縮政策を復活させて財政赤字に対応していた。

田沼が行った支出削減政策は予算制度を導入し各部署に予算削減を細かく報告させ、予算削減に努めたこと。禁裏財政への支出削減をかけたこと。大名達への拝借を制限したこと。役普請を復活させ工事費の負担を転化させたこと、認可権件を行使して民間商人に任せるのを多用したこと。たびたび倹約を出し支出を抑制したことなどがある。

松平定信に提出された植崎九八郎上書の中には、田沼意次の政治をこう批判している

“諸役人は、幕府の支出を一銭でも減らすことを第一の勤めとしてお互いに競い合い、幕府の利益だととなえて、重い租税取り立てることを将軍への奉と考え、おのおのの 持ち場で、一方で費用を切りつめて支出を減らし、他方で租税取り立てを厳しくし、その手柄により転任し出世していった。”

田沼ロシアとの交易をしたともいわれる、そのこと自体は間違いではない。だがこれも実際には田沼失脚によってロシア交易計画がとん挫したわけではなく、田沼政権時代の試算で”ロシア日本と交易をしたがっているので正式に交易を始めればかなりの規模になるだろうが、外製品は長崎貿易で十分入手できている現状、理にロシア交易を始めても長崎貿易に支障をきたすことになり、そのうえいくら禁止しても金銀が流出することになる。”とデメリットの方が大きいと判断され田沼自身が計画段階で中止したのが実際の末である。

関連動画

関連項目

この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/04/25(木) 01:00

ほめられた記事

最終更新:2024/04/25(木) 01:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP