浅井三姉妹とは、浅井長政とお市の方の間に生まれた、三人の女性(茶々・初・江)である。
戦国屈指の美女にして、乱世に翻弄されて悲劇的な最期を遂げた母・お市の方と共に、浅井三姉妹は戦国時代を語るには欠かせない存在であり、母にも劣らぬ波瀾万丈の生涯を送った。当時の女性としては歴史的史料が比較的多く残っており、小説やドラマでも取り上げられることが多い。
政略結婚とは言え、夫婦仲がむつまじかった長政・お市夫婦だったが、初が生まれた前後に浅井家がお市の兄・織田信長を裏切ったことから事態は急変。江が生まれて間もなく、長政はお市達を信長の元に送り返し、自らは命を絶つ。お市は娘達を養育しながら、兄にして夫の仇となった信長の庇護を受けるが、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれたころにより織田家は分裂。お市は重臣・柴田勝家と再婚するが、勝家が対立する羽柴秀吉に賤ヶ岳の戦いに敗れると、今度は勝家と運命を共にする。生き残り、羽柴あらため豊臣秀吉に引き取られた三姉妹は、三者三様の、母以上に数奇な運命をたどることとなる。
1569年?~1615年(生年は1567年説もあり)。
豊臣秀吉の側室で、豊臣秀頼の生母。秀吉から淀城を与えられたことから、一般的には淀殿の名で知られている。かつては淀君と呼ばれることが多かったが、こちらは江戸時代に付けられた蔑称であり、最近はあまり使われない。但し、淀殿という呼称も当時の記録にはなく、正式には淀の方などと呼ばれていたらしい。
妹たちが政略結婚で嫁がされていく中、最後まで残った茶々は、皮肉にも両親の仇である秀吉の寵愛を受けた。1589年に長男・鶴松を出産し、この直前に先述の淀城を与えられる。鶴松はわずか2年後に早世するが、1593年には秀頼(幼名・拾)を産む。実子に恵まれなかった秀吉にとって待望の跡継ぎ誕生となり、淀殿は正室・北政所(ねね)に次ぐ地位を手にする。しかし豊臣政権を自らの絶対的権力とカリスマで統治した秀吉が死ぬと、徳川家康の台頭に伴い、淀殿・秀頼母子の立場は急速に揺らいでいく。結局、家康との武力衝突を選択した淀殿は、大阪夏の陣において秀頼と共に自害して果てた。父を失った小谷・母を失った北ノ庄に続く三度目の落城で、彼女は母・お市と同じ最期を迎えたのである。
浅井三姉妹の中でダントツの知名度を誇る淀殿だが、結果的に豊臣家を滅ぼしてしまったことから、その一般的評価は低い。また、秀頼を跡継ぎにしたいために、後継者のライバルだった秀吉の甥・豊臣秀次を一族皆殺しに追い込んだ元凶と描かれたり、北政所と派閥対立を起こして家康がつけいる隙を作ったり、石田三成や大野治長と密通したなどの悪評ばかり残る。しかしこれらの多くは後世の創作という見方が強く、実際には北政所との仲も比較的良好だったようである。
1570年?~1633年(生年は1569年説もあり)。
室町幕府から続く名門・京極家の当主・京極高次の正室。高次の死後、出家して常高院と号した。高次が秀吉や秀忠に比べ、歴史的活躍や功績に乏しいことから脚光を浴びることが少ないが、彼女自身は姉妹に劣らぬ活躍を果たした。1587年、秀吉の命令で高次と結婚。高次の母でキリシタンだった京極マリアは長政の姉にあたるため、高次は従兄でもある。本能寺の変では光秀に味方しながらも、初を正室に迎え、姉・竜子が秀吉の側室となったことから、高次は一族の七光りという蔑みも含んで「蛍大名」と揶揄された。しかし、関ヶ原の合戦では家康に味方して大津城に籠城、立花宗茂を迎え撃つ。初は夫と共に立て籠もったが、敵の砲撃に竜子があわや巻き込まれそうになる程の激戦だったという。高次は降伏して高野山に入ったが、開城したのは関ヶ原の合戦当日。九州屈指の名将・宗茂の猛攻を食い止めて本戦に間に合わせなかった功績により、高次は越前小浜を与えられて京極家を江戸時代まで存続させることができた。
初が歴史の表舞台の登場するのは高次の死後、常高院となってからである。妹・江の長女・千姫が豊臣秀頼に嫁ぐ際には、これを引き合わせる。この時、淀殿・常高院・江の浅井三姉妹は十数年ぶりに再会を果たすが、これが三人全員が揃った最後の対面となった。やがて大阪冬の陣が起こると、常高院は大坂城に残り、織田有楽斎と共に和睦を実現。しかし、大坂城の堀埋立問題などにより交渉は決裂。生き残りと逃げ足の早さに定評のある有楽斎も出奔し、徳川家との再戦を最後まで回避させようとしたが徒労に終わり、夏の陣では姉の最期を無念の内に見届けることとなった。三姉妹の中で最も長生きしたが、晩年は継子の京極忠高とその正室で江の四女・初姫の不仲に悩まされるなど、苦悩が絶えなかったようだ。
1573年~1626年。
名称は他にも、小督・お江与などがあり、ドラマや小説でも作品によって呼び名が異なっている。死後、崇源院と諡を与えられた。1584年頃、秀吉の命令でお市の姉妹・お犬の方の子である佐治一成(つまり江の従兄)と政略結婚するが、一成が当時秀吉と対立していた徳川家康に属したことから、すぐに離縁された。但し、この政略結婚は不透明な箇所も多く、実際には行われなかったという説もある。その後、再び秀吉の政略結婚によって、豊臣秀勝(秀吉の甥で、秀次の弟)と再婚。この結婚時期もよくわかっていないが、秀勝との間には一人娘の完子をもうけた。しかし、この前後に朝鮮出兵に出陣していた秀勝は異国の地で病死。完子は姉・淀殿に引き取られた後、関白・九条忠栄に嫁ぎ、夫婦共に徳川家と朝廷の仲介役として活躍した。
彼女の運命が大きく転換したのは、徳川秀忠との三度目の政略結婚である。1595年に結婚した時、江は数え23歳、秀忠は17歳と6歳年上の姉さん女房だった。江は辛い記憶の残る京を後にして秀忠と江戸に下り、死ぬまでこの地で安住した。姉二人とは対照的に、1597年に長女・千姫、1599年に次女・珠姫、1601年に三女・勝姫、1602年に四女・初姫、1604年に待望の長男・徳川家光、1606年に次男・徳川忠長、1607年に五女・和子と秀忠の間だけでも7人の子宝に恵まれた。当初、男子がなかなか産まれなかったことから、家光や忠長は江と秀忠の子ではないという俗説もあるが、後に家光と忠長が対立したり、家光が秀忠を嫌って家康を崇拝していたなどの歴史的背景から生まれた作り話に過ぎない。江が亡くなった時、秀忠や家光は上洛のため不在だったが、千姫や常高院に看取られながら江戸城でその生涯を閉じた。秀吉の政治の道具として不遇だった前半生に比べ、後半生は将軍・秀忠の正室として君臨する栄光に満ち、太平の時代を迎えて穏やかなものであった。
淀殿ほどではないが、江も物語などでは忠長を偏愛し、家光の乳母・春日局と対立するなどマイナスイメージが強い。こちらも、春日局が光秀の家臣・斉藤利三の娘である関係や、忠長の末路から考えられた俗説である。また、大変な恐妻家としても知られており、秀忠は侍女との間に生まれた保科正之とは、江の生前はその目をはばかって対面しなかった。同時に秀忠は愛妻家でもあったようで、亡くなる時も家康のように神格化されることを拒み、江の眠る増上寺に葬られた(墓も江と二人仲良く並び立つように建てられている)。生涯を通して正室ただ一人だった著名な戦国武将は、秀忠の他には山内一豊くらいしかおらず、その点においても当時では希有な例に入ると思われる(他にも愛妻家として知られる毛利元就は、正室・妙玖の死後3人の側室をもっている)。
大河ドラマでは、淀殿を筆頭に登場する機会が多い。2011年の「江〜姫たちの戦国〜」で、三姉妹の中でも江が初の主人公となっているが、それ以外にも「春日局」や「葵徳川三代」では浅井三姉妹が物語の中核をなす準主役級の扱いを受けている。
比較として、お市を演じた女優も掲載する。但し、成人した浅井三姉妹が登場しない作品は挙げていない。
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最終更新:2025/12/13(土) 04:00
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