![]() |
当記事は特攻隊は悲劇であると同時に、当時の通常の航空攻撃に比べて莫大な戦果をもたらした、戦術的に意義のある作戦であったとの立場からの記述となっています。 歴史的事実に対してどう向き合うかは自分自身で決めましょう。 |
神風特別攻撃隊(神風特攻隊)とは、大日本帝国海軍(日本海軍)の航空特別攻撃隊である。命名者は初の特攻隊を編成した、第一航空艦隊主席参謀猪口力平大佐。ここでは並行して行われた陸軍特攻や、航空機以外の特攻も含め、特別攻撃隊全般について述べる。
特別攻撃(特攻)とは、爆弾を搭載した航空機や爆薬を装備した高速艇等で目標に乗組員ごと体当たり攻撃する戦法であり、その戦法を行う部隊を特別攻撃隊(特攻隊)と呼ぶ。大東亜戦争末期の日本で陸海軍あげての大規模な作戦として実施された。
『十死零生』『必死必中』の作戦で、太平洋戦争の悲劇の内の一つとして語られる事が多いが、大戦末期の日本軍の悲惨な戦いの中で、連合軍に甚大な損害を与えた数少ない作戦で、未だにカミカゼとして世界中で語り継がれている。
命名者となる第一航空艦隊猪口力平主席参謀によれば、故郷鳥取に古くから伝わる古剣術神風流に因んで命名したとのことであるが、1274年と1281年に日本へ攻めようとした元軍の大船団(元寇)を沈没・壊滅させた暴風雨(神風)を意識して、特攻を元の大船団を沈めた神風に見立て、連合国軍に対しかつての奇跡を再び起こそうとした事も窺える。
一般的に、神風は「かみかぜ」と読まれているが、正しくは「しんぷう」と読む。これは、神風特攻隊初出撃を報じた日本ニュース第232号のナレーションにて「かみかぜ」と読まれた事が定着したためとされる。又、特攻隊の中でも神風特攻隊が特に有名であったため、諸外国では特攻及び特攻隊も含めてカミカゼ(Kamikaze)としている。
特別攻撃隊については、古くから日本軍内で生還の望みが薄い作戦や、その作戦に従軍する部隊を特別攻撃とか特別(攻撃)隊と呼称していた為、体当たり攻撃もこう呼ばれることになった。しかし体当たり攻撃の印象が強すぎる事から、今や特攻と言えば体当たり攻撃の代名詞となった感がある。
大東亜戦争末期における日本軍の航空機の数的不利と航空機燃料の品質悪化や航空機の生産過程での品質の低下、近接信管(VTヒューズ)やグラマンF6F ヘルキャットに代表される米海軍の対空迎撃能力の飛躍的向上により、日本軍の航空戦力が劣勢になって、通常の航空攻撃では充分な戦果を敵艦隊から挙げにくくなったことがある。実際にフィリピン戦前に戦われた、マリアナ沖海戦や台湾沖航空戦といった日本軍航空機の通常攻撃では米艦隊に殆ど損害を与えることができず、特別攻撃隊の編制が急がれる事となった。
航空機による体当たり攻撃は、開戦の真珠湾攻撃における飯田大尉のカネオヘ海軍航空基地格納庫への体当たり以降、個別搭乗員の判断でしばしば行われていたが、戦局の悪化が進むにつれて軍として組織的に検討が始まる事となる。
海軍では、航空機による体当たり攻撃が本格的に検討される前に、まずは人間魚雷(後の回天)を1944年2月に試作決定し、9月に訓練開始と航空機特攻に先んじて準備が進んでいた。
航空機特攻についても、陸海軍それぞれ1944年には本格的な検討に入っていたが、1944年6月のマリアナ沖海戦で、航空機の通常攻撃では米艦隊に効果的な攻撃が困難になった事が判明し、更に検討が加速する事となる。
まずは1944年7月陸軍が先んじて航空機による特攻が内定し、部隊の編制を開始したが、海軍は上記の人間魚雷による特攻が先行し、航空特攻の正式な編制は陸軍より遅れることとなる。但し特攻専用のロケット機桜花の研究は、一足早く1944年6月には正式に決定している。
1944年10月、特攻の産みの親と言われている大西滝治郎中将が、第一航空艦隊司令長官に任命され、ルソン島のクラークフィールド航空基地に着任した。
大西中将は海軍の中で、航空畑を歩んできた海軍航空隊の第一人者であり、現状の日本軍の航空戦力では米艦隊に対抗困難であることを痛感しており、着任前に航空機により特攻を軍令部に進言した。大西中将の進言に対し軍令部及川古志郎総長は『大本営としては涙をのんで承認する、しかし実行にあたってはあくまでも本人の自由意思に基づき命令はしてくださるな』と特攻隊編成を承認した。
その際に、当時の軍令部航空参謀源田実大佐ら軍令部首脳と、海軍特攻隊を神風特攻隊と呼称することや、部隊の詳細な編成の打ち合わせまでしたという証言もあるが、源田氏らは戦後否定しており、詳細は不明である。
承認は取ったが、実際の編制をするかはまだ迷っていた大西中将であったが、現地に着任すると当時の第一航空艦隊の戦力は実動機が100機に満たないほど消耗しており、レイテへの日本海軍の総力を挙げた反抗(捷一号作戦)も計画されてる状況で、大西中将はもはや特攻しか米軍に対抗する手段なしと特攻作戦の開始を決意。
大西中将は10月19日に一航艦幹部を集め『捷号作戦を成功させるため、敵機動部隊を叩いて敵空母を一時的に使用不能にするには、零戦に250キロ爆弾を搭載して体当たり攻撃させる以外に手段はないと思うのだがどうだろうか?』と特攻隊の編制を提案、幹部も初めは抵抗を感じていたが、結局は全員賛同した為、ついに海軍航空隊による特攻隊、神風特別攻撃隊が編成される事となった。
編制については現場に一任されたが、201空副長玉井浅一中佐は、指揮官は海軍兵学校出身者から選抜して欲しいとの猪口力平一航艦参謀長よりの願いを受けて、海兵第70期の関行男大尉を指名。指名された関大尉は最初は戸惑うが一考した後に引き受けた。(関大尉はその時の胸の内を従軍記者に『天皇陛下や大日本帝国の為じゃなく愛する妻の為に引き受けた』と語っている)
他の隊員は玉井中佐が航空隊の中から志願を募り、志願者の中から選抜された合計24名が初めての海軍特攻隊として出撃することとなった。
一、現戦局ヲ考エ艦上戦闘機24機ヲモッテ体アタリ攻撃隊ヲ編成ス。本攻撃隊ハ、コレヲ四隊ニ区分シ、敵機動部隊ガ東方海面ニ出現ノ場合、コレノ必殺ヲ期ス。成果ハ水上部隊突入前ニコレヲ期待ス。今後艦戦ノ増強ヲ得次第、編成ヲ拡大ノ予定、本隊ヲ神風特別攻撃隊ト呼称ス。
(昭和19年10月21日付第一航空艦隊命令)
1944年10月21日に、レイテへの大日本帝国海軍連合艦隊の総力を挙げた出撃の援護の為に、敷島隊以下4隊合計24機の神風特攻隊が出撃した。
初出撃日となった10月21日は会敵できず、その後も出撃帰還を繰り返すが(21日久納中尉機が未帰還、同日豪重巡オーストラリアが特攻で損傷しており、久納中尉の戦果とも推測されてるが、特攻機が一式陸攻との豪軍の記録や、時間のずれなどから確定には至ってない)、10月25日に栗田艦隊とのサマール沖海戦を戦ったタフィ3を発見し、ついに特攻作戦が開始されることとなった。
栗田艦隊との海戦で損害を被ってたタフィ3に敷島隊以下15機の特攻機が襲い掛かり、護衛空母セント・ロー撃沈の他2隻の護衛空母を大破、他5隻にも損害を与えるという特攻作戦開始早々に大戦果を挙げることができた。
この戦果は、及川軍令部総長より天皇陛下に奏上されたが、陛下は『そのようにまでせねばならなかったのか、しかしよくやった。』と絶句されながらも、隊員を労うお言葉を賜ったと言われている。
その後は大西中将の第一航空艦隊の他に、当初は特攻に否定的だった福留繁中将の第二航空艦隊も特攻攻撃に加わり、連日米機動部隊に特攻機が襲い掛かかった。特にレイテ沖海戦で連合艦隊を壊滅させた、第38任務部隊の正規空母の損害が大きく、正規空母フランクリン・軽空母ベローウッドの大破を初め、空母の損傷により戦線離脱が相次ぐ事となった。
米空母の戦線離脱が相次ぎ戦力が大幅低下したことから、米第三艦隊司令ハルゼー大将が企画し承認されていた第38任務部隊の艦載機による東京初空襲(ドーリットル隊のB25による空襲は正規の艦載機では無い為除外)も中止に追い込まれている。
マリアナ・レイテで日本海軍を壊滅させ、向かう所敵なしだったはずの米海軍は予想だにしなかった難問を背負いこむ事となり、様々な特攻隊対策を講じる必要に追い込まれる。(詳細後述)
1日だけでいいから、suicide plane(特攻機)対策の為に海兵隊の戦闘機を空母に搭載されたし
(第38任務部隊司令マーク・ミッチャー中将)
しかしその甲斐もなく、1944年12月7日レイテ島のオルモック湾の米軍上陸部隊が、12日にはミンドロ島攻略部隊も特攻の洗礼を受けいずれも多数の撃沈破艦と死傷者を出す事となった。
年が明けて1945年1月2日、ついにフィリピン最大の拠点ルソン島攻略部隊20万名と艦艇850隻が出撃。それを迎撃する日本軍との間でフィリピンでの特攻作戦最大規模の激戦が開始されるが、まずは出撃早々の4日に上陸予定地のリンガエン湾に向かう途中の護衛空母艦隊が特攻攻撃を受け、オマニー・ベイが撃沈され、護衛艦を含む他数隻が撃破される。
6日リンガエン湾に到着してからも、上陸支援部隊に特攻機が襲い掛かり、上陸支援の艦砲射撃をしていた戦艦・巡洋艦に次々と特攻機命中。中でも戦艦ニューメキシコは艦橋に特攻機が突入した為、艦長以下幕僚の多くが死傷、その中にはフィリピン戦を観戦に来ていた、英陸軍第二次世界大戦最高位の戦死者となるラムスデン中将も含まれており、英太平洋艦隊司令フレイザー大将すんでのところで戦死を免れ軽傷を負った。
他にも戦艦カルフォルニア・米重巡ルイビル・米軽巡コロンビア・豪重巡オーストラリアも次々と特攻機の命中で深刻な被害を受け、この後戦場を長期離脱する羽目に追いやられた。この内米重巡ルイビルは第77任務部隊の旗艦であったが、特攻により司令のセオドアチャンドラー少将が戦死している。2日間の特攻で連合軍は中将・少将・大佐という高位の将官が戦死したが、連合軍としては異例の事態であった。またこの一連の被害で、今まで空母や小型艦艇といった比較的防御力の弱い艦艇しか損害を与えていなかった特攻が、戦艦や巡洋艦といった大型戦闘艦艇にも深刻なダメージを与えうるという実証になった。
その後もリンガエン湾への特攻出撃は繰り返されてたが、ついに第一航空艦隊・第二航空艦隊とも航空機が尽き、中でも第二航空艦隊は3機を残すのみとなって、福留中将がその3機を率い最後の特攻出撃を計画したが、大本営の命令で第二航空艦隊は解散し第一航空艦隊に編入、福留中将はシンガポールへの転任となった。
第一航空艦隊司令の大西中将も航空兵力尽き、陸戦部隊としてクラーク飛行基地西方山岳地帯に陣地構築していたが、大西中将は間もなく台湾への転属、後に軍令部次長となり終戦まで特攻作戦の指揮をとることとなる。残された搭乗員や整備兵等は飢えや病気と闘いながら、米軍の攻撃を撃退し終戦まで陣地を死守した。
フィリピンでの特攻による合計650機の損失により、きわめて大きな成果を挙げたことは明白である。これらの攻撃の目的だった連合軍の上陸阻止には失敗したが、命中と至近命中は26.8%にも達している。
(米国戦略爆撃調査団フィリピン特攻作戦総括)
航空特攻に先駆けて訓練編成が進められていた人間魚雷回天が1944年10月18日に実戦初出撃、菊水隊と名付けられた潜水艦3隻回天12艇で米艦隊の泊地ウルシー(西カロリン諸島 1944年9月に米軍占領後、工作船・浮きドックを配備し艦船の修理が可能、補給及び兵員の休養施設も整備していた)を攻撃し、大型給油艦ミシシネワを撃沈した。しかし潜水艦1隻が駆逐艦により撃沈され、この攻撃で米軍停泊地の警戒が厳しくなり、以降回天作戦はめぼしい戦果を挙げることができず損害を重ねていくこととなった。
米軍泊地ウルシーに対しては、1945年3月11日に日本本土より遠路はるばる航空特攻も実施、丹作戦と名付けられた銀河24機による攻撃であったが、故障等での不時着が相次ぎ実際にウルシーに突入できたのは11機、内1機が正規空母ランドルフに特攻命中し大損害を与える事に成功した。期待に対して戦果は少なかったが、ウルシー泊地は先の回天の効果も併せて、常時警戒態勢を余儀なくされて、補給・休養基地としての役割を制限されることとなった。
1945年2月19日についに米軍は硫黄島に上陸、しかし硫黄島防衛は当初より日本本土決戦に向けての時間稼ぎという方針であり、航空攻撃も限定的なものとなった。2月21日神風特攻第二御盾隊32機が硫黄島に向けて出撃、第二御盾隊は少数であったが、護衛空母ビスマルク・シーを撃沈、正規空母サラトガを大破、護衛空母1その他艦艇3を撃破する大戦果を挙げ、硫黄島守備隊を援護した。
硫黄島の戦いが終息に向かいつつあった1945年3月18日に、来るべき沖縄作戦に向け、フィリピンで特攻で大きな痛手を負ったミッチャー中将率いる第58任務部隊の正規空母10隻軽空母6隻艦載機1400機を主力とする合計100隻以上の大艦隊が、日本本土の軍事拠点爆撃を実施。それに対して宇垣纏中将率いる第五航空艦隊と陸軍航空部隊が特攻・通常複合攻撃で総力を挙げて迎撃した(九州沖航空戦)。
18日には特攻と通常攻撃により正規空母イントレピッド・エンタープライズ・ヨークタウンを撃破、翌19日にもフィリピンで特攻機により大破し、修理終えてようやく15日に部隊合流した正規空母フランクリンに特攻機が艦橋先端部に命中、その後まもなく爆撃機銀河が急降下爆撃で2発の500キロ爆弾を命中させ、燃料・弾薬・甲板上の艦載機が誘爆し大破炎上、戦死者は771名と第二次世界大戦中米軍艦船としては最大級の損害を被った。米軍の卓越したダメージコントロールで沈没こそは免れたが、その船体へのダメージは深刻で終戦まで復帰できず、終戦後間もなく不活性化処理されて空母としての艦生命を終えた。後年大戦中就役した同型艦のエセックス級全艦(除バンカーヒル詳細後述)がベトナム戦争等で活躍する中でひっそりとスクラップ売却されている。
また、特攻専用ロケット機桜花部隊である神風特攻神雷部隊の18機も21日に初出撃した。しかし当初55機の戦闘機が護衛する予定であったが故障等によりわずか19機しか出撃できず。神雷部隊司令岡村大佐の護衛少なければ成功の見込みはないとの進言空しく、所属の宇垣第五航空艦隊司令の決断で強行。岡村司令の進言通り米軍の直援戦闘機が待ち構えている中で桜花を搭載した一式陸攻は回避もままならず、全機撃墜され失敗に終わる。その後も桜花は母機が米軍の直援戦闘機の餌食となることが多く、期待された戦果を挙げる事ができなかった。
『この槍(桜花)扱い難し』
『俺は国賊と罵られても、桜花作戦だけは司令部に断念させたい。』
(神風特攻隊神雷部隊第1回桜花部隊隊長 野中少佐)
帝国陸海軍ハ進行スル米軍主力ニ対シ 陸海特ニ航空兵力ヲ綜合発揮シ
敵戦力ヲ撃破シ其ノ進行企画ヲ粉砕ス
(20年1月19日 帝国陸海軍作戦計画大綱)
硫黄島を攻略し、来るべき日本本土上陸作戦の前進基地としてついに米軍は沖縄に、参加兵力54万8千人、軍艦318隻、その他艦船1139隻の第二次世界大戦の中でも最大規模の兵力で進行してきた。 日本軍は、陸海軍作戦大綱で進行してくる米艦隊に航空決戦を挑む方針としており、その方針に基づき3月20日に大本営が天号作戦を下令した。
沖縄本島に先立ち3月26日慶良間諸島に米軍上陸、特攻攻撃は小規模であったが、早速駆逐艦1隻を撃沈している。
その後4月1日ついに沖縄本島に米軍が上陸、日本軍はそれを受け4月6日から菊水一号作戦を発令、海軍特攻機218機、陸軍特攻機82機が出撃し、太平洋戦争中最大規模の航空特攻攻撃となった。翌7日も引き続き特攻出撃が続けられ日本軍は2日で355機の特攻機を損失した。一方米軍の損害も撃沈 駆逐艦3隻 戦車揚陸艦2隻 給油艦1隻 輸送艦1隻 大破・廃艦 駆逐艦3隻 損傷空母ハンコック・サン・ハーシント他20隻以上と多数に上った。
特に空母護衛の駆逐艦の損害が大きかった。これは沖縄戦での特攻攻撃の特色として、空母護衛や警戒艦の駆逐艦が特攻機の目標となることが多く損害が大きくなったもので、事実かは不明だが米駆逐艦乗組員が乗艦の駆逐艦に『空母はあちら』という意味の矢印を掲げたという逸話も残っている。
また海上特攻作戦として、戦艦大和 軽巡矢矧 駆逐艦8隻が沖縄に向け出撃したが、坊ノ岬沖で米艦載機380機に捕捉され、大和 矢矧 駆逐艦4隻が撃沈、これにて日本海軍の水上艦艇はほぼ全滅した。
菊水作戦はその後10次まで続けられ、陸海軍合計1460機の特攻機が連合軍艦隊に襲い掛かった。一号作戦以降で目立った戦果は以下の通り
『海軍は1日に1.5隻ずつ艦船を失っており、
5日以内に第一線が動かなければ貴官の更迭を要求する』
(米太平洋艦隊司令ニミッツ提督が沖縄攻略部隊司令バックナー陸軍中将に向けて)
沖縄における特攻による連合軍海軍の損害は膨大であり、一時は真剣に沖縄からの一時撤退も議題に登る程であった。 沖縄攻略の指揮をとっていた第五艦隊司令スプルアンス大将も、特攻から受けた大損害による心労が重なり、第三艦隊のハルゼー大将との交代を余儀なくされた。ミッドウェー・マリアナ沖と日本海軍に対し圧倒的勝利を重ねてきた指揮官の初めての挫折となった。
しかしながら沖縄の第32軍の組織的抵抗が終焉に向かうと、本土決戦に向けて航空戦力の温存が図られる様になり、沖縄に対する特攻も次第に小規模なものとなっていき、1945年7月以降は散発的なものとなった。
沖縄戦で投入された特攻機は約1900機 内米軍資料によると命中182機 至近命中97機 有効率14.7%とフィリピン戦と比較し、米軍の特攻対策により迎撃が激烈になって成功率が12%も低下している。 しかし、出撃機数が多かった分戦果も多大であり、連合軍は沖縄戦で海軍艦艇36隻撃沈368隻撃破の空前の大損害を被ったが、この殆どが特攻から受けた損害であった
日本は第32軍と陸海軍特攻部隊の奮闘空しく沖縄を失い、ついに本土決戦が現実味を帯びてくることとなった。 海軍は大和特攻により、稼働艦がほぼ壊滅しており、圧倒的な連合軍艦隊に対して有効な戦力はいよいよ各種特攻兵器のみとなっていた。
その為、特攻兵器の開発・生産が急ピッチで進められており、特攻専用機とされたキ115(陸軍名・剣 海軍名・藤花)は量産開始(出撃したとの証言もあり)また特攻パルスジェット機・梅花 地上発射用・桜花等の航空特攻兵器、特殊潜航艇・海龍などの海中特攻兵器等の開発や生産が進められていた。また変わった特攻兵器としては、戦車への特攻を目的とした特攻グライダー・神龍とか潜水具を着用した兵士が爆雷で上陸用舟艇を自爆攻撃する・伏龍も開発・編成が進められていた。
以上のように効果に疑問符がつくような兵器もあったが、特攻機の準備は着々と進めており、1945年8月時点で日本軍残存稼働機10800機の内5350機を特攻機として準備していた。これまでに投入した特攻機が10か月で2550機であり、その倍以上の特攻機が連合軍の九州上陸作戦(オリンピック作戦)に対して投入される計画であった。
また陸海軍の特攻艇(震洋・マルレ)も10000隻以上が日本各地に配置され、主に敵の揚陸艦や上陸用舟艇を攻撃するべく連日訓練をしていた。
米軍は今までの経験上、日本軍の死力を尽くした特攻で大損害を受ける事は十分に想定しており、その数は約1000隻の艦艇の撃沈破と、沖縄戦を超える空前絶後の損害を覚悟していたが、それでも九州に侵攻する連合軍艦隊は史上最大の作戦ノルマンディを超える5000隻以上は確実であり、仮に1000隻が損害を受けても作戦遂行に支障はないと分析していた。
そんな中でも、日本は軍のみならず、一億特攻 一億玉砕のスローガンの元に、一般国民にも上陸してくる連合軍への捨身攻撃を指導しており、国家破滅に向かって転がり落ちていく状況であったが、8月6日に広島に原爆が投下され、9日に次いで長崎に原爆が投下され、ソ連が中立条約を破棄して参戦してくると、ついに天皇陛下の御聖断によりポツダム宣言受託による無条件降伏を受け入れる事となった。
ご聖断が出される前の最高戦争会議に、会議のメンバーでもなかった大西中将(この時は軍令部次長)が乗り込み『日本男子をあと二千万人特攻に出せば、日本は戦争に勝てる』と会議の出席者に詰め寄るが、ここに至っては誰も大西中将を取り合う者はおらず、その後も降伏回避の為に関係者に様々な工作を行うが実らず、8月15日を迎えた。
大西中将は玉音放送の翌日16日に自宅にて割腹自決を遂げたが、介錯をや治療を拒み15時間苦悶の上で亡くなった。特攻の産みの親とされ、最後は2000万人特攻との自説を強弁するなど評価が分かれる大西中将であるが、『前途有為な青年をおおぜい死なせた。俺は地獄に落ちるべきだが、地獄の方で入れてくれんだろう』と親しい知人に泣きながら話したという証言もあり、軍人として戦局好転の為に特攻を推進しつつも、心ならずも部下将兵を死地に追いやった罪の意識に囚われていたものと思われる。その思いは遺書でも慮ることができるであろう。
特攻隊の英霊に申す 善く戦いたり深謝す
最後の勝利を信じつつ肉弾として散花せり
然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり、吾死を以って旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い 聖旨に副い奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり
隠忍するとも日本人たるの矜持を失う勿れ
諸士は国の宝なり
平時に処し猶お克く 特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と 世界人類の和平の為 最善を尽せよ
(大西瀧治郎 遺書)
玉音放送後、第五艦隊司令として多数の特攻機を送り込んだ宇垣中将も、他に志願した10機と共に彗星艦爆で沖縄方面に出撃し未帰還となった(終戦後の出撃であった為戦死とはならず、大将への昇進も敵わなかった)。
他方で陸軍特攻の指揮官だった第六航空軍司令の菅原道大中将は、日頃自身が最後に特攻すると公言していたものの、終戦時に部下から共に特攻することを勧められると「死ぬばかりが責任を果たすことではない」と拒否。宇垣の行動に対しては「単に死に急ぐは、決して男子の取るべき態度にあらず」と評した。後年菅原の息子は父は自決すべきだったと批判しつつも、若者を道連れにしなかったのはせめてもの救いだと複雑な心境を述べている。
1944年10月以降10か月に渡って、日本軍・連合軍両軍に多大な犠牲を生じさせた特攻は、宇垣中将らの未帰還でその幕を下ろす事となった。
特攻は、その一号となった敷島隊(正確には悪天候で帰還を繰り返しており4度目の出撃)が1944年10月25日護衛空母セント・ローを撃沈 他2隻大破して以降、終戦直前の1945年7月28日の第三龍虎隊による駆逐艦キャラハン撃沈まで(損傷は8月13日上陸支援輸送艦ラグランジ)、10ヶ月間に渡って米艦隊に莫大な損害を与え続けた。
| 艦 種 | 正規空母 | 軽空母 | 護衛空母 | 戦 艦 | 巡洋艦 | 水上機母艦 | 駆逐艦 | その他 | 合 計 |
| 撃沈・廃棄 | 0 | 0 | 4 | 0 | 0 | 0 | 40 | 29 | 73 |
| 損 傷 | 16 | 4 | 13 | 11 | 12 | 5 | 141 | 71 | 273 |
※撃沈・廃棄には特攻によりその場での沈没は免れたが、その後自沈処分されたり、工廠に回航するも修理断念でそのまま除籍された艦も含む。
※駆逐艦には護衛・敷設・輸送等の各型駆逐艦を含む
| 艦種 | 艦名 | 特攻年月日 | 状況 |
|---|---|---|---|
| 護衛空母 | セント・ロー | 19年10月25日 | 特別攻撃初の撃沈艦。レイテ沖で、海軍敷島隊隊長関大尉機の零戦が命中(敷島隊の内の他機で関機ではないとする説もあり)爆弾が格納庫内で爆発し航空燃料・魚雷が連鎖的に誘爆し30分で爆沈。 戦死者143名 |
| 護衛空母 | オマニー・ベイ | 20年1月4日 | フィリピンのスルー海、陸軍特攻進襲隊99式襲撃機もしくは一誠隊の隼いずれかが搭載していた2発の爆弾を投弾後に体当たり命中。爆弾は甲板上に並んでいた艦載機の燃料や爆弾を誘爆させ大火災、鎮火が困難となった為、総員退艦後駆逐艦の魚雷で処分された。戦死者98名負傷65名 |
| 護衛空母 | ビスマルク・シー | 20年2月21日 | 硫黄島沖、海軍第2御盾隊の特攻機2機が後部エレベーターに命中し、爆弾が格納庫で爆発。同艦は特攻で大破したサラトガや他護衛空母の艦載機を一時的に収容しており、多くの艦載機が燃料も抜かずに格納庫に駐機していた為、たちまち航空燃料に引火、搭載していた航空魚雷も誘爆し大爆発、特攻機命中後わずか15分で総員退艦命令、その後横転して沈没。戦死者・行方不明者は350名に及んだ |
| 護衛空母 | サンガモン | 20年5月4日 | 沖縄沖で菊水第五作戦の特攻機1機が命中大破、戦死者46名戦傷116名。修理の為ノーフォークに回航されるも全損判定で除籍。本艦はセント・ローが撃沈された同日に敷島隊の零戦から機銃掃射を受け1名の戦死者と数名の戦傷者を出しており、2回目の特攻損害で廃艦となった。(船体をタンカーに改造し民間で使用された説もあり) |
| 駆逐艦 | アブナ・リード | 19年11月1日 | 海軍天兵隊等の特攻でスリガオ海峡で99艦爆1機命中右に横転後沈没し23名戦死 |
| 大型給油艦 | ミシシネワ | 19年11月20日 | 人間魚雷回天菊水隊の回天1艇命中、満載した大量の燃料ごと(航空機2000機分・駆逐艦約20隻分の燃料に相当)横転して沈没戦死63名、特攻で沈没した中では満載排水量最大の艦(満載排水量25833トン)。あまりに大量の燃料ごと沈没した為、未だに燃料が海上に漏れ出ており、周辺海域の汚染が懸念されている。 |
| 駆逐艦 | マハン | 19年12月7日 | 海軍千早隊・陸軍勤王隊等の特攻によりオルモック湾で1機命中大破18名戦死、同日自沈処分 |
| 輸送駆逐艦 | ワード | 19年12月7日 | マハンと同日・同場所で1機命中大破炎上、同日自沈処分、ちなみに本艦は真珠湾で日本攻撃前に特殊潜航艇を撃沈し太平洋戦争の戦端を開いた艦であった |
| 駆逐艦 | レイド | 19年12月11日 | 海軍第一金剛隊の特攻でスリガオ海峡で1機命中爆沈108名戦死 |
| 輸送駆逐艦 | ブルックス | 20年1月6日 | 海軍金剛隊各隊・陸軍鉄心隊等の大規模特攻でリンガエン湾で1機命中大破3名戦死、カルフォルニアサンペドロに回航後除籍、廃艦 |
| 掃海駆逐艦 | ロング | 20年1月6日 | 同日同場所2機の命中で横転し沈没戦死者1名、翌日、本艦生存者を救助した駆逐艦ホーヴェイが航空雷撃で撃沈され24名が戦死したが、その中にはロングから救助された乗組員も含まれており、乗艦が2日連続で撃沈されるといった不幸を味わうこととなった |
| 輸送駆逐艦 | ベルナップ | 20年1月11日 | 日本側に出撃記録ないがルソン沖で特攻により大破戦38名戦死フィラデルフィアに回航後除籍、廃艦 |
| 高速駆逐艦 | ディカーソン | 20年4月2日 | 第二銀河隊等の特攻で1機命中大破炎上艦長以下54名戦死、2日後現地で自沈処分、沖縄戦初の戦果 |
| 駆逐艦 | ブッシュ | 20年4月6日 | 菊水一号作戦 沖縄沖で1機命中で撃沈94名戦死 |
| 掃海駆逐艦 | エモンズ | 20年4月6日 | 同日同場所で特攻機5機命中し翌日自沈処分64名戦死 |
| 駆逐艦 | コルホーン | 20年4月6日 | 同日同場所特攻機99艦爆3機が命中し翌日自沈処分35名戦死 |
| 駆逐艦 | ロイツェ | 20年4月6日 | 同日同場所特攻機1機命中して大破7名戦死 サンフランシスコハンターズポイント造船所に回航後除籍、廃艦 |
| 駆逐艦 | ニューコム | 20年4月6日 | 同日同場所特攻機2機命中大破43名戦死、破壊の度合いが特に酷くサンフランシスコに回航後除籍、廃艦 |
| 駆逐艦 | モリス | 20年4月6日 | 同日同場所特攻機1機命中大破12名戦死 ロイツェ・ニューコム2艦と同様にサンフランシスコまで回航後除籍、廃艦 |
| 駆逐艦 | マナートLアベール | 20年4月12日 | 菊水二号作戦 特攻ロケット機桜花が命中し真っ二つとなり3分で轟沈79名戦死 |
| 駆逐艦 | スタンリー | 20年4月12日 | 同日同場所 同じく桜花が船首に命中、弾頭は船体を突き抜けて海上に落下したが、船体は中破、修理されずそのままロングビーチでモスボール処理 1972年にスクラップ売却 |
| 駆逐艦 | プリングル | 20年4月16日 | 菊水三号作戦 1機命中撃沈65名戦死 |
| 駆逐艦 | ハーデング | 20年4月16日 | 同日同場所1機命中大破23名戦死 ノフォークまで回航後除籍、廃艦 |
| 駆逐艦 | ハッチンス | 20年4月27日 | 陸軍特攻艇マルレの攻撃で艦首部分を大破座礁、後にワシントン.ブレマートンに回航後除籍、廃艦 |
| 駆逐艦 | ハガード | 20年4月29日 | 海軍第9建武隊 陸軍第18振武隊等により沖縄沖で1機命中大破11名戦死 ノフォークまで回航後除籍、廃艦 |
| 敷設駆逐艦 | アーロン・ウォード | 20年5月3日 | 海軍振天隊・陸軍特攻誠第35飛行隊等により沖縄沖で5機命大破戦死45名 ニューヨークまで回航後除籍、廃艦 |
| 駆逐艦 | リトル | 20年5月3日 | 同日・同場所 2機命中で撃沈戦死30名 |
| 駆逐艦 | ルース | 20年5月4日 | 菊水五号作戦 沖縄沖で2機命中大破37名戦死、サンフランシスコに回航後除籍、廃艦 |
| 駆逐艦 | モリソン | 20年5月4日 | 同日同場所2機命中撃沈150名戦死 |
| 敷設駆逐艦 | シェイ | 20年5月4日 | 同日同場所 第七次桜花特攻隊の桜花が一機命中 戦死27名 戦傷91名 炸薬は不発であったが 弾頭が船体を突き破り損害甚大、本土で除籍、廃艦 |
| 護衛駆逐艦 | オバーレンダー | 20年5月9日 | 海軍忠誠隊 陸軍特攻誠第33飛行隊等により1機命中大破24名戦死、その後慶良間沖で自沈処分 |
| 護衛駆逐艦 | イングランド | 20年5月9日 | 同日同場所1機命中大破37名戦死 フィラデルフィアに回航後除籍、廃艦、本艦は1隻で日本軍の潜水艦6隻を沈めた殊勲艦であったが、航空特攻により艦生命を終えた。 |
| 護衛駆逐艦 | ヒューWハドレイ | 20年5月11日 | 菊水六号作戦 桜花により大破30名戦死 ハンターポイントまで回航後除籍、廃艦。本艦は特攻機の猛威にさらされ通常特攻機4機と桜花が命中しても撃沈されなかった強運艦である。また対空戦闘で23機の特攻機を撃墜した(あくまでも米軍記録)殊勲艦であったが、受けた損害は深刻であり修理できず即スクラップとなった。 |
| 駆逐艦 | エバンス | 20年5月11日 | 同日同場所 4機命中大破32名戦死 サンフランシスコまで回航後除籍、廃艦 |
| 駆逐艦 | ザッチャー | 20年5月20日 | 沖縄沖、陸軍第五十振武隊 3機命中大破14名戦死 ワシントンブレマートンまで回航後除籍、廃艦 |
| 護衛駆逐艦 | ベイツ | 20年5月25日 | 沖縄沖、菊水第七号作戦 1機命中21名戦死転覆し沈没 |
| 輸送駆逐艦 | バリー | 20年5月25日 | 同日同場所で1機命中大破 その後沖縄に停泊していたが、6月28日に曳航中練習機白菊の特攻で慶良間沖で沈没 |
| 駆逐艦 | バトラー | 20年5月25日 | 同日同場所で1機命中大破9名戦死、サンフランシスコに回航後除籍、廃艦 |
| 駆逐艦 | ドレクスラー | 20年5月28日 | 沖縄沖、海軍琴平水心隊・陸軍四十五振武隊等の特攻で2機命中転覆し沈没158名戦死 |
| 駆逐艦 | シュブリック | 20年5月29日 | 沖縄沖、海軍振天隊・陸軍特攻第二十戦隊等の特攻で1機命中大破32名戦死、ピュージェットサウンドに回航後除籍、廃艦 |
| 駆逐艦 | ウィリアムディツター | 20年6月6日 | 沖縄沖、陸軍第百五十九振武隊等の特攻で1機命中大破死傷者多数、サンディエゴに回航除籍、廃艦 |
| 駆逐艦 | ウィリアムDポーター | 20年6月10日 | 沖縄沖、陸軍第百十二振武隊1機至近弾、船体に亀裂が走り後横転沈没 |
| 駆逐艦 | トゥイッグス | 20年6月16日 | 沖縄沖、特攻部隊不明 彗星が1機が魚雷を投下後にそのまま体当たりし撃沈。艦長以下152名戦死。但し彗星が雷撃することは無い為、同艦海兵が、爆弾を魚雷と見間違えたか、天山等の雷撃機を彗星と見間違えたか不明。 |
| 護衛駆逐艦 | アンダーヒル | 20年7月24日 | 人間魚雷回天多聞隊の勝山中尉艇がルソン沖で命中、船体が真っ二つになって轟沈、艦長以下122名が戦死。回天が外洋で撃沈した唯一の艦。 |
| 駆逐艦 | キャラハン | 20年7月28日 | 海軍第三龍虎隊93式練習機(通称赤とんぼ)の特攻で撃沈47名戦死、特攻による最後の撃沈艦。第三龍虎隊は5機編成であったが、他に駆逐艦1隻大破、1隻損傷と有効率60%の大戦果であった。赤とんぼが大戦果を挙げた理由としては、機体が木製でありレーダーに映りにくく、VT信管も反応しなかった為とも言われている。なお最後の損傷艦は終戦2日前の8月13日に損傷した上陸支援輸送艦ラグランジ。 |
| 艦種 | 艦名 | 特攻年月日 | 状況 |
|---|---|---|---|
| 正規空母 | フランクリン | 19年10月30日 | 海軍葉櫻隊の特攻でミンダナオ島東方で零戦2機命中、大破56名戦死60名戦傷、20年3月15日に合流するまで4か月以上修理の為、戦線離脱 |
| 20年3月19日 |
九州沖航空戦、第五航空艦隊の通常・特攻両用攻撃により室戸岬沖で、艦橋上部に特攻機が命中した後、第406航空隊の銀河の急降下爆撃で大破、771名戦死265名戦傷、復帰後わずか4日での再度の戦線離脱となった。本土に回航するも、2度の大破による船体の損傷が甚大で1947年2月に予備艦とされ、そのまバイヨンヌで係留されたまま(2度の形式的な艦種変更あり)1964年にスクラップとして売却された。 |
||
| 正規空母 | レキシントン | 19年11月5日 | レイテ湾、海軍左近隊大谷上飛曹もしくは三浦二飛曹の零戦が命中し中破。通信機器と電気系統を使用不能にする甚大な被害を与え、戦死50名132名負傷。3か月以上戦線離脱を余儀なくされた。 |
| 正規空母 | エセックス | 19年11月25日 | 海軍香取隊の特攻でルソン沖で彗星1機命中、中破15名戦死44名戦傷、ウルシーに後退して修理1ヶ月間戦線離脱 |
| 正規空母 | イントレピッド | 19年10月30日 | 海軍初櫻隊・陸軍至誠隊等の特攻でサマール島沖で99艦爆1機命中、小破10名戦死6名負傷、作戦行動に影響なし |
| 19年11月25日 | エセックス中破と同日同場所、零戦2機命中、大破炎上63名戦死58名負傷の甚大な損害、修理の為真珠湾に後退 | ||
| 20年3月18日 | 海軍菊水部隊彗星隊各隊により九州南東海上にて至近弾、軽微な損傷、死傷者なし | ||
| 20年4月16日 | 菊水第三号作戦 沖縄沖で爆装零戦1機が命中1機至近弾で中破、飛行甲板とエレベーター破壊で10名戦死87名戦傷、本艦は大戦中4回と最多の特攻被害艦となった。現在は海上宇宙航空博物館となっている | ||
| 正規空母 | タイコンデロガ | 20年1月21日 | 海軍新高隊の特攻で台湾沖で零戦2機命中大破、143名戦死203名戦傷の甚大な被害を出し、ピュージェットサウンドまで後退し修理、沖縄戦末期まで戦線復帰できず |
| 正規空母 | サラトガ | 20年2月21日 | 海軍第二御盾隊の特攻で硫黄島沖で2機命中大破、123名戦死192名戦傷航空機36機炎上の深刻な損害を受けた。ピュージェットサウンドで5月末まで修理、その後は実戦部隊復帰せず練習艦次いで復員艦として使用され、翌21年6月日本軍戦艦長門らと原爆標的艦として使用され除籍 |
| 正規空母 | ランドルフ | 20年3月11日 | 海軍特攻菊水部隊梓隊銀河13機が米軍基地西カロリン諸島ウルシーを奇襲攻撃船体後部に銀河が1機命中、中破大火災で25名戦死106名負傷 |
| 正規空母 | ハンコック | 20年4月7日 | 菊水1号作戦、沖縄沖で爆装零戦が甲板上の艦載機に命中し大火災発生、甲板上の16機の艦載機が炎上し、炎に巻かれて25名が戦死37名が行方不明、71名負傷。3か月近く戦線復帰できなかった。 |
| 正規空母 | エンタープライズ | 20年5月14日 | 3月18日と4月11日に特攻で2度に渡り軽微な損害を受け、ウルシーで修理を受けた後に沖縄で第六筑波隊富安中尉の零戦の特攻により大破13名戦死68名負傷、人的被害に対し船体の被害は深刻でピュージェットサウンドに修理の為後退、終戦まで復帰できず。その後も復員艦として使用された後、戦後まもなく除籍 |
| 正規空母 | バンカーヒル | 20年5月11日 | 海軍特攻第七昭和隊の安則中尉と小川少尉の零戦2機がいずれも、搭載していた爆弾を投弾後体当たり、搭載していた艦載機の燃料に引火し大破炎上、一時は総員退艦も危ぶまれたが、米軍の卓越したダメージコントロールで沈没は免れた。但し戦死者396名負傷者264名は特攻単独での最大の損害であり、終戦まで復帰することはできなかった。その後は同型艦フランクリンと同じ様に、船体のダメージより予備艦に回されサンディエゴに係留されたまま、実験艦等に使われた後1966年にスクラップ売却された。 |
| 軽空母 | ベローウッド | 19年10月30日 | 海軍葉櫻隊の特攻により1機命中、出撃準備していた艦載機に引火し大破大火災、92名戦死と艦載機30機全てを喪失し、修理の為ハンターズポイントまで後退 |
| 護衛空母 | スワニー | 19年10月25日 | 特攻機初の戦果となったセントローと同日に敷島隊1機が突入、翌26日には海軍大和隊2機が命中し、2日間で合計3機命中で大破し2日間で107名の戦死者と160名戦傷の膨大な損害を出したが沈没は免れた。修理の為ハンターズポイントまで後退 |
| 護衛空母 | マニラ・ベイ | 20年1月5日 | 海軍特攻第十八金剛隊の2機が命中し中破、14名戦死56名戦傷。突入箇所で命中機2機の内1機の搭乗員の遺品の財布と日章旗が発見され、その遺品を持ち帰った乗組員の子孫の尽力で1995年に命中機は丸山隆中尉機と判明し、遺品は50年ぶりに遺族に返還された。 |
| 戦艦 | ニューメキシコ | 20年1月6日 | 海軍金剛隊各隊・陸軍鉄心隊等の特攻機1機がリンガエン湾で艦橋に命中中破、英国首相チャーチルの指示でフィリピン戦の観戦に来ていた英陸軍ラムズデン中将と本艦艦長以下の艦首脳陣30名戦死87名戦傷、真珠湾に修理の為に後退。ちなみにラムズデン中将は第二次世界大戦中英国陸軍且つ特攻による最高位の戦死者となった |
| 20年5月12日 | 第五艦隊旗艦インディアナポリスが特攻により損傷した為、臨時旗艦としてスプルアンス司令が搭乗していたが、海軍特攻生気隊・陸軍特攻誠第百二十戦隊の疾風1機が命中1機至近弾で中破、戦死者54名119名戦傷、スプルアンス司令もあやうく戦死するとこであり、本艦で特攻により中将に次いで大将の戦死者を出すところであった | ||
| 戦艦 | カルフォルニア | 20年1月6日 | ニューメキシコと同日同場所、艦砲射撃中に特攻機1機が命中、中破し45名戦死155名負傷、修理の為ピュージェットサウンドに後退した。この日は戦艦2隻の他巡洋艦4隻も損傷しており、大型艦艇の損害が多い日となった |
| 重巡洋艦 | オーストラリア | 19年10月21日 | 特攻1号とされる敷島隊の突入以前に、レイテ湾で日本軍機の特攻攻撃を受けて艦長以下30名の戦死者を出している。同日出撃したのは久納中尉以下3機の大和隊(零戦)で、未帰還は久納中尉のみだが、本艦に特攻したのは一式陸攻との戦闘記録である上に出撃時間もずれており、久納機であるかは不明。その為久納中尉も特攻1号とは認定されてない(特攻による戦死とは後日認定された。)その後も本艦は特攻攻撃を受け続け合計4回(6回とする説もあり)最終的に1月6日に2機の命中で大破、合計86名の戦死者を出して修理の為にイギリスに後退し、終戦まで復帰できず |
| 重巡洋艦 | ルイビル | 20年1月6日 | 第七艦隊隷下第77任務部隊旗艦、スリガオ海峡戦で西村艦隊撃破に活躍した艦であったが、リンガエン湾で上陸部隊支援中に2日に渡って陸軍特攻の99式襲撃機計2機が命中。第77部隊司令セオドアチャンドラー少将が大火傷を負い翌日死亡、他に41名戦死。セオドアチャンドラー少将は特攻攻撃で戦死した米海軍最高位の将官となった。その後修理の為本土に後退し沖縄戦途中より復帰、6月5日にも再度特攻攻撃を受けたが損傷は軽微であった。 |
| 重巡洋艦 | インディアナポリス | 20年3月31日 | 第五艦隊旗艦としてスプルアンス司令の乗艦であったが、陸軍特攻誠第三九飛行隊の1機が艦尾に命中し小破し、旗艦から外された。後に本艦は旗艦には復帰せず、原爆輸送の極秘任務に従事して、任務後に回天特攻母艦伊58号の通常魚雷攻撃で撃沈され883名の戦死者を出している |
| 軽巡洋艦 | ナッシュビル | 20年12月13日 | マッカーサーの旗艦としてニューギニアからレイテに上陸するまで、マッカーサーが乗艦していた。その後第78任務部隊の旗艦となり、ミンダナオ島に進行中に海軍第二金剛隊の5機の零戦の内1機が命中し大破、第78任務部隊の幕僚多数を含む133名の戦死と190名の戦傷を出し修理の為ピュージェットサウンドに後退 |
上記の通り、米海軍の損害は莫大な数に上るが、巡洋艦以上の撃沈艦、特に特攻が主目標にした正規空母の1隻の撃沈も無かったのが、しばしば特攻攻撃に効果が薄かったとする評価に繋がっている。
但し、特攻により撃沈された3隻の護衛空母が、商船を改造した軽量臨時の補助艦船という誤解を受けてる場合が多いが、特攻で撃沈されたカサブランカ級は当初より空母として設計・建造された艦船であり、排水量も基準7800トン 満載時10800トンと重巡洋艦並みの威容を誇る軍艦である。
搭載機も30機と他国の軽空母並みの戦闘力で、大西洋ではその戦闘力でドイツ軍のUボート相手に猛威を振るっており、撃沈は非常に困難な艦船であった(大西洋での米護衛空母の損失ブロック・アイランド1隻のみ)
特攻に限らず、大戦後半は日本を含む枢軸軍が米軍大型軍艦を沈めるのは非常に困難となっており、1944年以降で枢軸軍が沈めた巡洋艦以上の米軍大型軍艦は以下の2隻のみである。(独伊は大戦全期間に渡って、米軍の巡洋艦以上の撃沈艦なし)
| 艦種 | 艦名 | 喪失年月日 | 状況 |
|---|---|---|---|
| 軽空母 | プリンストン | 19年10月20日 | 第二航空艦隊の彗星の急降下爆撃で500キロ爆弾命中。一旦は火災が鎮火に向かったが、爆撃から5時間後に弾薬庫び引火し大爆発。本艦で108名戦死、艦を横付けして消火支援してた軽巡バーミンガムも爆発に巻き込まれて233名戦死、426名戦傷の大損害を被った。その2時間後、本艦火災が日本軍の夜間攻撃の目標になるのを懸念したミッチャー司令の判断により、味方駆逐艦の雷撃で自沈処分。 |
| 重巡洋艦 | インディアナポリス | 20年7月30日 | 原爆輸送の極秘任務の復路、伊58号の魚雷3発が命中。内1発が主砲弾薬庫誘爆を誘発して横転、沈没。チャールズ・B・マクベイ3世艦長は戦後に本艦沈没の責任を取らされて、軍法会議で有罪となり不名誉除隊させられている。 |
大戦後半に米軍大型艦の沈没が激減した理由は以下が考えれれる。
以上の通り、特攻でも米軍大型艦の撃沈は困難となってはいたが、直接廃艦まで至らなかった損傷艦の中でも、エセックス級正規空母フランクリン及びバンカーヒルは修理はされたが、戦時中に就役した他のエセックス級空母は全て近代化改装を施されて、ベトナム戦争など後年まで活躍してるのに対し、両艦は米軍損傷艦の中で最悪の損傷レベルであった為、両艦とも終戦後間もなくモスボール処理の上予備艦にされて、港に係留されたまま(形式的な艦種変更されたり実験には使われたが)後年にスクラップとして売却された。
他にも、太平洋戦争中の米軍の最高殊勲艦であった空母エンタープライズとサラトガ・英空母フォーミダブルは、特攻で大破後は戦闘艦として復帰できず、復員船としての使用を経て、戦後まもなく除籍され、標的艦やスクラップ売却により艦歴を終えている。また護衛空母サンガモンは修理を断念しそのまま廃艦となった。
また、特攻で大きな損害を被った駆逐艦にしても、日米両軍による激しい水上艦同士の海戦で失われた米海軍の駆逐艦が16隻、日独両軍の潜水艦が沈めた駆逐艦が15隻、合計しても約4年間で31隻に過ぎないのに対して、特攻はわずか10か月で日独の水上艦・潜水艦による損失よりも多い40隻の駆逐艦を撃沈や大破・廃艦で葬ったことになる。
特攻機による攻撃は、通常攻撃と比較し破壊力が乏しく、大型艦の撃沈ができなかったという誤った説が一部で言われているが
特攻と急降下爆撃を同じ質量の爆弾の場合で比較した場合、破壊力は運動エネルギーと比例し、物理法則で運動エネルギーは、質量と速度の二乗に比例するので、質量と速度が大きい攻撃法がより運動エネルギー=破壊力が大きいと思われるが、その中の質量については、特攻機の機体の質量が加わる特攻の方が遥かに大きい。
また速度についても、急降下爆撃は大体500m上空で爆弾を投弾するが、その高度からでは空気抵抗もあって爆弾は殆ど加速しないのに対し、特攻機の理想的な攻撃方法は、高度2000mぐらいからエンジン等の推進力で加速しながら急降下して体当たりする為、命中時の速度も大きいこととなる。
従って同質量の爆弾による急降下爆撃との比較では、速度・質量とも大きい特攻機の方が運動エネルギー=破壊力が大きいことになる。
但し理想的な攻撃ができなかった場合や、爆弾が不発だった場合には特攻の威力も大きく減殺されるケースもあった。例としては戦艦ミズーリに特攻した神風特攻第5建武隊石野二飛曹の零戦が、水平に右舷舷側に体当たりしたが、石野機は爆弾を搭載しておらず(理由は不明)また分厚い戦艦の舷側装甲であったことから、装甲を少し凹ませただけに止まった(この凹みは未だ残っており、本艦は真珠湾で記念艦として公開されているので現在も見る事ができる)
また、特攻は機体がクッションとなり威力を減殺するという指摘もあるが、特攻機の多くは機外のパイロンに爆弾を装備しており、その指摘は当たらない。
戦後の米軍による、日本陸軍航空隊第六航空軍高級参謀への事情聴取で、日本軍は特攻の破壊力について
『特攻は通常攻撃より効果が大きい、その理由は爆弾の衝撃が飛行機の衝突によって増加され、また航空燃料による爆発で火災が起こる、さらに適切な角度で行えば通常の爆撃より速度が速く、命中率が高くなる』
と評価していたと供述しているが、この評価については米軍も異論は挟んでいない。
高高度からの水平爆撃については、高高度から大質量の爆弾を投下すれば、特攻機を上回る破壊力が生じるケースもあるが、命中率が特攻や急降下爆撃とは比較にならず、真珠湾のアリゾナやアルタフィヨルドのドイツ戦艦ティルピッツのように、停泊している艦船でないと命中させるのが困難であり、各軍とも主力の対艦攻撃手法とはなっていない。
但し、特攻機は零戦などの小型機が主力であり、搭載爆弾は250キロ爆弾中心となるため、同じ250キロ爆弾の急降下爆撃よりは破壊力はあるものの、爆弾自体の威力不足の問題があった。
元々、水上艦は250キロ爆弾1~2発程度の命中では、積載弾薬や燃料の連鎖的な誘爆でもない限りは簡単に沈むものではなく、(南太平洋海戦のホーネットは日本軍航空機により、800キロを含む爆弾5発魚雷3本体当たり攻撃2機を食らうも沈まず、更に自沈させようとした米軍の魚雷6本5インチ対空砲無数を撃ちこまれるも沈まず、放棄された後に日本軍駆逐艦による酸素魚雷3本12.7cm砲24発によりようやく沈没してる、日本の空母でもエンガノ岬沖海戦の空母瑞鶴は魚雷7本爆弾8発命中によりようやく沈んでいる)
爆弾の破壊力不足は日本軍も認識しており、弾頭に1.2トンの炸薬を搭載した桜花や、800キロ爆弾2発を搭載したり、総重量2.9トンの超特大桜弾(モンロー効果を利用した対艦専用爆弾)を搭載した爆撃機飛龍などを出撃させたが、敵戦闘機の迎撃の餌食になることが多く、命中機は期待に反して少なく戦果も上がらなかった。
また1隻に多数の特攻機が同時に大型艦に命中するケースが少なかったことも、特攻機による巡洋艦以上の撃沈がなかった要因と思われる。
特攻は、通常の航空攻撃が米艦隊に有効な打撃を与えられなかった為の打開策として開始されたこともあり、米軍の対空能力が劇的に向上した大戦後半期において、通常航空攻撃と比較にならない有効率を挙げている。
日本軍は、大戦後半期も特攻と並行して航空通常攻撃を行い、沖縄戦では太平洋戦争最大規模の航空機による艦船攻撃を行っているが、以下の通り殆ど戦果は挙がらなかった。(戦果は特攻が開始された1944年10月以降日本軍の通常航空攻撃単独で撃沈された米軍艦船)
特攻と通常航空攻撃の対比の際によく引き合いに出される美濃部正少佐率いる芙蓉部隊(戦闘804飛行隊、戦闘812飛行隊、戦闘901飛行隊)については、美濃部司令が特攻を敢然と拒否し艦上爆撃機彗星の夜間爆撃で特攻に引けを取らない戦果を挙げたとされている。
芙蓉部隊の戦果(対艦船)と言われているのは、戦艦1 巡洋艦1 大型輸送船1隻を撃破したというものであるが、米軍の公式記録を見る限り
沖縄戦で戦艦が通常航空攻撃で損傷したのは、8月12日のペンシルバニアの大破のみ
しかしこれは海軍931航空隊の天山が夜間雷撃で大破させたものと確認されており、芙蓉部隊の戦果ではない。
また沖縄で通常航空攻撃による巡洋艦の損傷はなく、戦果誤認と思われる。
また芙蓉部隊が、輸送船を撃破したとされるのは、4月6日からの菊水一号作戦であるが、菊水一号作戦期間中の通常航空攻撃による損傷は、駆逐艦タウッシング小破のみであり、通常攻撃による輸送艦の損害はない。
菊水一号作戦期間中の輸送艦損害としては、戦車揚陸艦347号 戦車揚陸艦447号 貨物船ローガンヴィクトリー 貨物船ポップスヴィクトリア 中型揚陸艦876号の撃沈があるが、全て特攻機の戦果と米軍が認定している。
以上より、対艦船については芙蓉部隊が確実に挙げたと客観的に認定できる戦果はなく、特攻に匹敵する戦果を挙げたとは言いがたいが、一方で芙蓉部隊は特攻援護の為に、沖縄の米軍飛行場の攻撃もしており一概に比較できるものでもない事を付け加えておきたい。
大破した正規空母バンカーヒル・エンタープライズ・タイコンデロガ・サラトガ・護衛空母サンガモン・英空母フォーミダブルは終戦もしくは終戦間際まで戦線復帰できなかった様に特攻により常に4~5隻程度の空母を戦線離脱させ、米空母部隊の戦力の減殺に成功している。
また沖縄戦で米海軍が主に特攻によって被った、36隻沈没368隻損傷(損傷艦の内には多数の廃艦が含まれる)は現在に至るまで米海軍史上最大の損害である。
これらの艦の様に、沈没艦以外の損傷艦の中でも作戦機能まで失った深刻な損傷艦は合計108隻、他に大損害を受けた83隻も併せて米海軍が特攻により受けた損害は膨大であり、米軍以外ならとても耐えられる損害ではなかったものと思われる。
また直接的な損害の他にも、米空母艦隊は沖縄戦の日本軍の組織的抵抗が終わる1945年7月までは特攻攻撃に曝され続け、沖縄近海での足止めを余儀なくされた為、沖縄戦以降の日本本土への艦載機による本格的な攻撃を1945年7月にずれ込ませるなど、米軍空母艦隊の作戦行動の自由を奪う成果となった。これを特攻による多大な成果とする米軍側による評価もある。
このような特攻の有効性は、戦後に敵であった米軍の公式評価や太平洋艦隊司令ニミッツ元帥ら米軍高官の回想によっても明らかになっており、大戦末期に米艦隊に殆ど対抗する術を持たなかった日本軍にとって、米艦隊に効果的な打撃を与える限られた戦術の一つとなっていた。
特攻が原因となる死傷者の公式な統計資料は特にないので、全体の死傷者統計より推計する他ないが、特攻を開始して以降の米海軍の艦船損害の殆どが特攻による損害であり、その期間の人的損害のかなりの割合が特攻による損失と推計される。
米海軍兵士死亡者(特攻作戦開始後、各戦場別)
連合軍死傷者合計
以上により連合軍が被った人的損失は、航空特攻・回天特攻による日本軍の人的損失を大きく超えるものと推定される。
また戦傷者以外でも、特攻による心理的ショックにより、多くの戦闘神経症の患者を出し第一線から離脱させなければいけなくなった(詳細次項)
また特攻は米兵にとって非常に恐ろしいものだった。特攻を受けた艦の多くの乗組員が戦意喪失したりノイローゼを起こした。特攻攻撃が開始された1944年10月末に空母ワスプで、乗組員の内100人余りを抽出して健康診断した結果、戦闘行動に耐えられる乗組員はわずか30人足らずだったという調査結果もある。
また沖縄戦では、米軍史上最悪の14,077名の戦闘疲労症(戦争による精神疾患)の疾患者を出すに至ったが、この中の、相当な割、合が、特攻攻撃に四六時中曝され続けた米海軍将兵である。
これは将官についても同様で、ミッドウエーで日本海軍を打ち破った立役者スプルアンス提督は、沖縄でのあまりの特攻の被害に精神的に追い詰められ、艦隊司令をハルゼー提督と交代させられている。また米空母艦隊司令ミッチャー大将も、旗艦が二度に渡り特攻で大破した為、幕僚多数を失うと共に自らも体調を崩し、戦後まもなく若くして亡くなっている。
これらのようにそのあまりの恐ろしさに兵員やその家族に不安を与えると判断した報道機関は特攻の存在を伏せ、後に存在を明らかにした。こうした背景もあり戦後、アメリカなどで身を省みない攻撃や命を捨てた体当たり攻撃の事をカミカゼと呼ぶようになったという。
特攻を語る際の最大の争点になるところであるが、航空特攻だけでも4400名の隊員が出撃して戦死しており、その遺書・手記また生存者の回想を検証する限りにおいては、様々なケースがあったというのが実情のようである。
海軍の航空特攻隊(神風特攻隊)を編成したいとの大西中将の進言に対し、大本営の及川軍令部総長が承認した際に『あくまでも自由意志に基づき、決して命令をしないように』という条件であった為、特攻作戦はあくまでも志願制により開始された。
志願の方式には特に決まった形式は無かった様で、様々な形式により志願が行われていた。
志願者の条件としては、独身であること・長男ではないことと等定められていたが、これは特攻出撃が増加するにつれ有名無実化されていった。
志願者が非常に多く且つ熱烈だったというエピソードは多く残されている。
『10月18日に、特攻要員志願者募集があった。おそらく(海軍対潜学校第4期生)全員が志願したのではないかと思う。そういう雰囲気だった。志願しなくても特に罰を受けることはなかったようだ。』
『学生隊長だった隈部大佐が志願者を面接し、20日には採用者が発表になった。隈部大佐は立派な 人だった。採用に当たって、長男は採用しなかったと思う。当時の日本の家族制度では、長男が家を 継ぐことになっていた。私は四男であった。』(元回天隊員 前田禎造氏)
志願の理由は国の為、家族の為と様々であり、また時代背景や価値観等様々な要因もあったが、熱烈な志願者が多数いたのはれっきとした事実である。
また戦後に多数の軍首脳・特攻作戦関係者・特攻隊員の生存者に聴取して作られた、米国戦略爆撃調査団報告書は以下の通り、自発的な志願と結論付けている。
入手した大量の証拠や口述書によって大多数の日本軍パイロットが自殺的航空任務に、すすんで自発的に奉仕したことはきわめて明らかである。
(米軍戦略爆撃調査団報告書Japanese.air.powerより抜粋)
一方で、出撃を強制されたもしくは志願を強制された事実も見られる。
まずは特攻一号となった関大尉は、第一航空艦隊主席参謀猪口大佐の最初の特攻は海軍兵学校出身者で選抜して欲しいとの要望により、『指名』されたものであり、純粋な志願ではなかった。201空副長玉井中佐からの指名に対して即答はせず、一晩考えた上に引き受けている。
その引き受けた胸の内と、特攻に対しての批判的な見解を報道記者にしている。
『もう日本もおしまいだよ、僕みたいな優秀なパイロットを殺すなんて、僕なら体当たりせずとも敵空母に500キロ爆弾を命中させる自信がある。』
『僕は天皇陛下とか日本帝国の為にいくんじゃない、最愛の妻のためにいくんだ、命令とあらば仕方がない、日本が負けたら妻がアメ公に暴行されるかもしれない、僕は彼女を守るために死ぬんだ。最愛のものの為に死ぬ どうだ素晴らしいだろう』
(昭和19年10月20日に報道班員 同盟小野田記者に対して)
他にも、強制されたもしくは志願を強制された事例としては、以下の様な証言や意見もある。
「(少年飛行兵は)12、13歳から軍隊に入っているから洗脳しやすい。あまり教養、世間常識のないうちから外出を不許可にして、小遣いをやって国のために死ねと言い続けていれば、自然とそういう人間になっちゃう」
以上の通り、自発的な志願制が前提とされた特攻であったが、一部に強制や志願の強制があったのもれっきとした事実である。
特攻は表向き志願制であった為、志願前であれば志願書にその旨記載することで拒否できるという建前になっていた(志願後に出撃を拒否すると命令不服従で処罰の対象となる)。実際にパイロット個人や部隊が多大な戦果を挙げていたり、有力者の支持を得られた場合には、志願を強制されないまま終戦を迎えることも不可能ではなかった。
有名な特攻拒否の例を以下に挙げる。
他方で前述の手塚久四氏の証言にもあるように、こうした実績や有力者とのコネクションのない個人が特攻を拒否した場合、暴力的あるいは精神的な「修正」「指導」によって「自発的に」特攻を志願するよう仕向けられることも珍しくなく、志願制は形骸化していたと指摘する声も多い。
作戦の性質上、特攻隊員が帰還することは想定されていない。しかし実際には作戦機の故障や精神的な躊躇によって体当たり前に不時着し、「無事」帰還する特攻隊員が少なからず存在した。
こうした帰還者への扱いは隊・個人ごとにいくらか異なったようである。上述した江名武彦氏は海軍の特攻要員として二度の帰還を経験しているが、二度目はそのまま茨城の原隊まで戻され、格別責められることは無かったという。
一方で帰還を恥ずべきこととして帰還者を責めるケースも見られた。その代表格とされるのが陸軍第六航空軍の特別攻撃隊「振武隊」である。同隊では帰還者を福岡市内の「振武寮」に収容して、軍人勅諭の書き写しなどの精神教育を行うとともに、忠誠心や愛国心を欠く「人間の屑」「卑怯者」「国賊」と罵り、場合によっては竹刀による殴打なども織り交ぜながら、再度の特攻に赴くよう「再教育」を施した。
振武隊の一員として特攻に従事するも米軍の戦闘機に撃墜され帰還、後に振武寮の実態を証言した大貫健一郎陸軍少尉によると、帰還した隊員らに最初に向けられたのは司令官の菅原中将による「軍の面汚しが。貴様たちが生きて帰ってきたために何人の米兵が生きたと思うのか!」という怒声であったという。
なお振武寮で「再教育」に辣腕を振るい、晩年にその実態と特攻の正当性を主張する証言を残した倉澤清忠陸軍少佐は、戦後印刷会社の社長に登り詰めるなど社会的に成功を収めたものの、80歳になるまで特攻隊関係者の復讐を恐れて護身用の拳銃と軍刀を隠し持っていたという。倉澤はあくまで特攻は自発的志願によるもので批判される謂れはないとしつつも、自分のしたことで恨みに思われるのも仕方ないところはあると述懐している。
以上の通り、特攻は志願制を前提とし、多数の熱烈な志願者がいた一方で、強制的に志願者にされた者がいたのも事実であり、書籍・ネット上等様々な媒体で見られる、特攻賛美派による特攻は全て志願であったという意見も、特攻否定派の殆どが強制か実質強制とする意見も、いずれも正確ではないものと思われる。
また志願であっても、強制であっても、特攻は悲劇の作戦であり、二度と繰り返してはいけないという結論については、殆どの人は異論はないであろう。
特攻で指揮下の艦隊が大損害を受け、その対策に頭を悩ましていた第3艦隊司令ハルゼー大将と第38任務部隊司令ミッチャー中将が、ワシントンの海軍首脳部と協議した結果、サンフランシスコで19年11月24日から26日まで3日間に渡って最初の特攻に対する集中対策会議が開かれる事となり、その会議で様々な特攻対策が定められた。またこの会議以降も継続的に特攻への対策が講じられることとなる。
これらの対策もあって、特攻攻撃の成功率をフィリピン戦での26%から、沖縄戦15%と大幅に低下させて、かなりの効果を上げることができたが、結局米軍は終戦まで特攻を完全に防ぐまでの有効な対策は持ちえなかった。
大戦後半は質量ともに日本海軍を圧倒し、海戦や通常の航空攻撃での損害は減少していた一方、特攻からの損害は激増しており、特攻は相応の効果を挙げていたとする評価が多い。
以下はごく一部であるが、米軍の公式文書から軍の上層部から末端に至るまで、特攻に苦戦したとういう評価は枚挙に暇がないほど多く存在する。
日本人によって開発された、最も有効的な航空兵器は特攻機(自殺航空機)であり、戦争末期数か月に日本全軍航空隊によって、連合軍艦船に対し広範囲に渡って使用された。
44ヵ月続いた戦争のわずか10ヵ月の間に、米軍全損傷艦船の48.1% 全沈没艦船の21.3%が特攻機(自殺航空機)による成果であった。
ただし特攻は日本にも高い代償で、特攻を実施した10ヵ月間に日本軍は2550機を犠牲にして、連合軍の各種艦船に474機命中させた。成功率は18.6%であった。
(日本本土上陸作戦が実施された場合)特攻により、上陸作戦の連合軍艦船が、連合国空軍が計画した多様な対策にも関わらず、大きな損害を受けたことに疑問の余地はない
(米軍戦略爆撃調査団報告書Japanese.air.powerより抜粋)
(特攻により)アメリカが被った実際の被害は深刻であり、極めて憂慮すべき事態となった。
延べ2000機のB29が日本の都市と産業への直接攻撃から、 九州のカミカゼ基地を攻撃する為に振り向けられた。
日本がより大きな打撃力で集中的な攻撃を持続し得たなら、(日本は)我々(アメリカ)の戦略計画を撤回若しくは変更させ得たかもしれない。
降伏時、日本は本土にカミカゼ攻撃用として利用可能な9000以上の航空機を有し、 少なくとも5000機は我々が計画していた侵攻に抵抗するために自殺攻撃用の装備をすでに備えつけていた。
(米軍戦略爆撃調査団報告書summary report pacific warより抜粋)
4ヵ月に渡った沖縄戦で、日本海軍と強力な米第5艦隊が直接戦闘したことは一度もなかった。
だが我が海軍が被った損害は、戦争中のどの海戦より遥かに大きかった。沈没30隻以上、損傷300隻以上、9000人以上が死傷もしくは行方不明になった。
この損害は主として日本軍の航空攻撃、主に特攻によってなされた。
(太平洋艦隊司令チェスター・ウィリアム・ニミッツ海軍元帥)
特攻は非常に有効な兵器で、我々は軽視することはできない、私はこの作戦地域内にいた者でなければ、特攻が艦隊に対しどのような力を持っているか理解することはできないと信じている。それは安全な高高度から効果ない爆撃を繰り返している、我が陸軍航空隊の重爆撃機隊とは全く対照的である。
特攻機の技量と効果および艦艇の喪失と被害の割合がきわめて高いので、今後の攻撃を阻止するため、利用可能なあらゆる手段を採用すべきである。第20航空軍を含む、投入可能な全航空機をもって、九州および沖縄の飛行場にたいして、実施可能なあらゆる攻撃を加えるよう意見具申する
(米第五艦隊司令レイモンド・エイムズ・スプールアンス海軍大将)
特攻機は通常攻撃の4倍から5倍の命中率を挙げている。
通常攻撃機からの爆撃を回避するように操舵するのは難しくないが、舵を取りながら接近してくる特攻機から回避するように操舵するのは不可能である。
(空母タイコンデロガ艦長ディクシー・キーファー海軍大佐)
日本では、太平洋戦争の悲惨な敗戦により、旧軍に対する批判が強く、特攻は旧軍首脳部の戦争指導の稚拙の象徴として否定的に捉えられることも多い状況である。また、戦後の人権意識の向上等の価値観の大きな変化により人命・人権軽視の頂点として批判されることも多い。
特に前途有望な若者を、戦争指導の拙さから必死の死地に追いやった、旧軍上層部への批判が強く、特攻隊員は上層部に特攻を強制されたり騙されたりして死んでいった被害者という見方も根強い。
それがよりヒートアップして、特攻は拒否すると本人や家族が処罰されるとか(実際には特攻の拒否者は相当数おり、実質的な強制も含めて志願者数は充足していたため、拒否者への正式な罰則はない)
特攻隊員は覚せい剤を強制的に注射させられて、人事不省のまま出撃させられた(覚せい剤メタンフェタミンは疲労回復の薬として、特攻隊員以外の兵士にも配布されていた。また日本以外の各国も錠剤を兵士に配布していた。メタンフェタミンは日本で合成された薬であったが、毒性が広く伝わったのは戦後しばらくしてからで、それまでは日本を含む各国で普通に市販されていた。)とかのデマまじりの批判にも繋がっている。
また一方で、昨今の保守的思想の広がりにより、従来から特攻批判の思想と対立してきた特攻への感謝の思想、それが進んで特攻賛美の考え方も広がり、実世界でもネットでも両者の論戦が激しくなっており、いわゆる大東亜戦争史観と同様に簡単には結論が出ない状況にある。
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/21(日) 23:00
最終更新:2025/12/21(日) 23:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。