種田山頭火 単語


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タネダサントウカ

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種田山頭火とは、明治から昭和、戦前にかけて生きた俳人である。主に自由律に基づいた句を詠んだことで知られる。

概要

俳号のみで「山頭火」とも呼ばれる。本名は種田正一。僧となった際に耕畝(こうほ)と改名した。

19世紀末から20世紀始めにかけて活躍した人物。一般的な定型俳句から一寸置いた場所で活躍した人物で有るが、現在でもその名は広く浸透している。特に、自由律俳句の第一人者、漂泊の人、孤高の人としてイメージされる場合が多い。

始め地元で同人を務めたのち、自由律俳句を切り開いた大立者、荻原井泉水(おぎわら せいせんすい)の主宰する雑誌「層雲」に投稿するようになりたちまち頭角を表した。門人の中でも特に抜きんでた存在として知られていたが、同時代人からも受けていたその評価は、どれだけ身を持ち崩しても揺らぐ事のない確かなものだったとされる。

俳人としては比較的長い期間にわたり活躍したものの、得度し、行乞の旅に出た時期は意外に遅く、既に40歳を越えて後のことである。しかしそれだけに、或る程度の人生経験と、挫折とを繰り返した末に編み出されたそれぞれの句中には、本来なら僅かな語では言い表せるはずもない、人の世の独特の味わいが感じられることも多い。


人柄としては、一にも二にもたいへんな大酒飲みだったことで知られる。駅で列車を一時間待つ事が出来ず、酔いつぶれて無理に泊まることもまま有ったと言う。金銭にもだらしなく、時には初対面の人や、貸してくれたばかりの人にすぐまた借金を申し込み、ほとんど返したためしも無かったと言われる。

山頭火自身はそうした自らの性向を厭い、さまざまな自嘲と悔悟の言葉をその日記の中に書き残している。それでも、山頭火に無心されると不思議にいやとは言えず、周囲の人からはよく慕われ、それら人としての欠点を含めて広く受け入れられていたらしい様子が現在まで伝わっている。

年表

1882年(明治15年) 0歳 現在の山口県防府市に、大地主の長男として何不自由なく生まれる。
1893年(明治26年) 11歳 夫の女遊びを苦にし、母が井戸に飛び込み自殺。
1904年(明治37年) 22歳 進学を諦め東京から帰郷。
1910年(明治43年) 28歳 結婚し子供をもうける。この頃から「山頭火」の号を使い始める。
1913年(大正2年) 31歳 萩原井泉水の門下となる。
1916年(大正5年) 34歳 実家の酒蔵が倒産し、種田家は離散。山頭火は熊本に逃げる。
1918年(大正7年) 36歳 借金を苦にして弟が自殺。
1923年(大正13年) 41歳 東京で職を失い、離婚した妻の下に逃げ帰る。酔って市電を止める。
1924年(大正14年) 42歳 身元を引き受けてくれた寺で得度する。
1925年(大正15年) 43歳 雲水として各地を漂泊するようになる。
1932年(昭和7年) 50歳 郷里から程近い小郡に「其中庵」を結ぶ。
1938年(昭和13年) 56歳 其中庵の傷みが激しくなったため「風来居」を新たに結ぶ。
1939年(昭和14年) 57歳 愛媛県松山市に終の棲家として「一草庵」を結ぶ。
1940年(昭和15年) 58歳 一草庵にて、脳溢血のため逝去。

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