第159号輸送艦 単語

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第159号輸送艦とは、大日本帝國海軍が建造・運用した二等輸送艦の1隻である。1944年9月16日竣工。第七次多号輸送作戦に参加して見事成功させた。12月11日、オルモックへの敵前強行揚陸を行い、戦車隊や迫撃砲の集中砲火を受けて大破放棄されるという壮絶な最期を遂げた。総戦果は敵機1機撃墜。

概要

大東亜戦争開戦当初、帝國海軍は輸送艦を持っておらず、輸送船や駆逐艦あるいは水上機母艦に物資を積載して輸送艦代わりにしていた。しかし1942年8月より始まったガダルカナル島争奪戦で多数の輸送船と駆逐艦を失い、敵制空権下を高速で突破する専用の輸送艦が必要だと痛感。1943年に同盟国ドイツから提供されたイギリス軍の戦車揚陸艇LCT-Mk.5の図面(北アフリカ戦線でアメリカ軍から奪取)や大発動艇の設計を参考にし、艦政本部が基本的な設計を、詳細設計を呉海軍工廠が行い、9月に入ってから建造が正式決定された。最終的に75隻が量産されている。

コンセプトは敵勢力圏下への強行輸送。このため高速性と強力な兵装が与えられたが、その一方で形状に直線や平面を多用したり、電気溶接やブロック工法の導入で生産性の向上にも力を入れている。何より特徴的なのは艦橋前方の3分の2を占める長大な車両甲板。船倉内の上甲板部を車両甲板とし、ここに戦車や車両などの輸送物件を積載する。車両甲板の両舷側は防水区画になっていて戦車兵や陸戦隊員の居住区に割り当てられた。揚陸の際は曲線を描いた艦首部分を浜辺に乗り上げ、艦首の門扉を開いて内部の戦車を発進させる方式であり、輸送船や駆逐艦を使った揚陸より遥かに迅速であった。九五式軽戦車だと14輌、大型の特二式内火艇だと7隻、九七式中戦車だと9隻が搭載可能。弱点は輸送艦特有のアンバランスな形状から荒天下での航行能力に劣る事、最大速力は13~16ノットと一等輸送艦と比べると低速な事、攻撃を受ければそのまま撃沈されかねない防御力の低さが挙げられる。

要目は排水量810トン、全長80.5m、全幅9.1m、出力1200馬力、最大速力13.4ノット、重油搭載量68トン、乗員89名。兵装は8cm単装高角砲1門、九六式25mm三連装機銃2基。電測装置として電波探知機を持つ。積載能力は戦車135トン、戦車用燃料6.9トン、弾薬11.3トン、糧食33.6トン、真水24.2トン、その他軍需品15トン。

艦歴

地獄までの道のり

1944年2月5日、官房軍機密第136号により第159号特設輸送艦と命名される。6月10日に日立造船向島工場(広島県尾道市)で起工、7月8日に進水し、9月5日に第159号輸送艦へ改名するとともに艤装員長の白川壽大尉が着任。そして9月16日に艤装作業を完了して竣工。無事海軍に引き渡された。同日中に呉鎮守府へと編入、戦時編制により連合艦隊補給部隊に部署し、艤装員長の白川大尉がそのまま艦長に就任する。竣工した直後にも関わらず発電機燃料ポンプが原因不明の動作不良を起こしていた(後に呉工廠で修理)。

産声を上げた第159号輸送艦が最初に行う作業は、呉へと回航して兵装を受け取る事だった。9月18日午前6時に尾道を出発、16時45分に呉へと入港して戦うための準備を開始。まず9月20日に重油を積載、21日に機銃を装備し、22日に糧食を、24日と25日の両日を使って清水と弾薬を積載した。続いて乗組員に対する訓練を9月26日より開始。広島湾にて25mm機銃の試射、公試、諸訓練、接岸訓練を行い、9月28日に呉へ帰投。連合艦隊司令部は海防艦八十島、第9号、第111号、第135号、第136号、第158号、第159号輸送艦の7隻で第1輸送戦隊を編制、特令あるまで待機を命じた。

10月2日午前8時35分に操舵機確認運転のため呉を出港、来るべき前線投入に備えて広島湾で訓練を重ね続けた。そして10月5日午前9時45分、最初の任務である第2航空艦隊の展開輸送に従事するべく広島湾を出発。命令を円滑に出せるよう一時的に第2航空艦隊の指揮下に入る。翌6日午前6時37分に鹿児島湾へ到着して人員72名と物件約100トンを積載。10月10日午前6時、駆逐艦霞、梅、桃の護衛を受けて出港。台湾北東部基隆へ向かうが、運悪く米機動部隊が台湾方面に接近しているとの情報が入り、高雄航空基地から退避命令を受けて山川港で避難。午前11時には第2航空艦隊参謀より敵艦上機多数が沖縄、奄美大島、宮古島を襲撃しているとの続報がもたらされた。結局出発出来たのは10月12日午前7時50分の事だった。

沖縄と台湾での活動

沖縄を眼前に控えた10月13日に第139号輸送艦が合流し、同日17時45分に経由地の那覇へ寄港。3日前に行われた十・十空襲により那覇の港湾施設は破壊し尽くされていた。またこの空襲で潜水母艦迅鯨が撃沈され、遭難者を出していた事から第159号輸送艦に捜索命令が出され、10月15日午前7時5分に那覇を出発、迅鯨が撃沈された地点である瀬底島へ移動する。10月17日に南西方面艦隊へ転属。本来基隆到着後は鹿児島へ帰投して第二次輸送に参加するはずだったが、この転属を以ってオルモック緊急輸送こと多号作戦の参加が実質決定した。10月18日午前10時30分に第159号は連合艦隊に高雄及び基隆への入港可否を問い合わせている。10月19日午前7時2分、捜索を切り上げて瀬底を出発。那覇へと向かっていた道中、偶然にも波間を漂う迅鯨の遭難者12名を発見・救助し、午後12時34分に那覇へと入港して遭難者を降ろした。後は目的地の基隆を目指すだけだったが台湾沖航空戦の影響で出入り禁止となっていたため那覇で待機。

10月24日午後12時5分に那覇を出発。ところが翌25日13時35分、基隆沖73度40海里の所で突如機械が故障して航行不能に陥ってしまう。自力復旧の見通しは立たず、米潜水艦が遊弋する危険な海域で身動きが取れなくなる最悪の事態だったが、伴走者に第139号輸送艦がいたため14時より曳航を開始、攻撃を受ける前に基隆外港まで到着する事が出来た。

10月26日午前10時35分、曳船の支援を受けて何とか陸岸に係留。第2航空艦隊の人員及び物件を基隆へ揚陸して輸送任務を成功させる。10月29日、マニラに拠点を置く第3南遣艦隊用の特二内火艇9隻、糧食、弾薬、燃料、その他軍需品、人員208名を積載。11月3日に基隆港内で機関の試運転を行った。その頃、フィリピン方面ではマニラを策源地にしてオルモック緊急輸送こと多号作戦が敢行され、レイテ島を攻略せんとするアメリカ軍を撃退するための増援を送り続けていた。しかし制海権と制空権は完全に敵に握られ、激しい空襲によってマニラ・オルモック間の航路は「船の墓場」と揶揄されるほどの大損害が発生。1隻でも輸送艦が欲しい南西方面艦隊は第1輸送戦隊に支援要請。11月7日、高雄で船団を編制したのち可及的速やかにマニラへの進出を命じられる。遂に地獄への入り口が開いた瞬間だった。11月8日15時にキタ2船団へ加入して出港、翌日15時30分に高雄へ到着する。

対空戦闘

11月10日午前6時、第38号と第101号哨戒艇、第38号掃海艇、第43号駆潜艇が護衛する高雄発マニラ行きのタマ31B船団に加入して出発。激しい空襲下に置かれているマニラを目指す。

11月19日午前5時58分にルソン地区空襲警報発令。午前11時9分、第38号哨戒艇が船団の170度方向に敵機を発見、直ちに対空戦闘用意の号令が下り、船団は速力を上げながら対空射撃を開始。午前11時15分に敵機が投じた爆弾が第159号輸送艦の右舷艦首前方70m先に落下して水柱が築かれた。その4分後、25mm機銃が敵機を捉えて撃墜。喜ぶ間もなく午前11時21分に左舷100m先に爆弾が落下、10分後には新手の敵機16機が左右に分かれて船団を挟撃しようとし、前進強走にして包囲網からの脱出を試みる。午前11時45分、敵機約30機が左旋回して遠ざかっていたため攻撃は止まった。その後は触接機が出現したものの攻撃は行われず13時30分に対空戦闘要具を収めて戦闘終了。第159号は1機撃墜の戦果を挙げた(船団全体で見ても2機撃墜のみと僅少だった)。18時8分にリンガエン湾口サンティアゴ島海峡で仮泊。夜になって空母艦載機27機による攻撃が行われたが船団への被害は最小限に留まる。

11月20日午前10時30分にサンティアゴ島を出発し、翌21日17時30分にコレヒドール島へ戦車隊の揚陸を完了、19時45分にマニラ湾へ到着するが、基地はアメリカ軍の激しい空襲を受け続け、軍港内は損傷した艦や多号作戦参加の輸送船、撃沈された艦船の残骸でひしめき合っていて簡単には入港出来ない有り様だった。11月24日午前6時50分にようやくマニラ港内へ到着。到着から翌日の11月25日、米機動部隊によるマニラ空襲に巻き込まれ、早速手荒い歓迎を受けた。この攻撃で重巡熊野と海防艦八十島が撃沈される。

11月30日19時より多号作戦の打ち合わせを実施。第159号は7回目の輸送から参加する事になった。

策源地のマニラと補給基地のあるオルモックは720km離れている。これは低速の輸送船では1日以上、高速艦でも17時間を要する遠い場所であり、道中には空襲や敵潜水艦の襲撃もある。これまで六次に渡って行われた輸送作戦は第二次と第四次を除いて失敗し、第三次に至っては加入艦船が駆逐艦朝霜以外全滅という惨憺たる結果に終わっていた。優秀船舶や輸送艦にとって多号作戦は自ら死にに行くようなものと言えた。主力艦艇も11月中に引き揚げてしまい、今マニラに残っているのは僅かな駆逐艦や海防艦、輸送船、そして第159号のような輸送艦だけだった。そのマニラですら決して安全な場所ではなかったのである。

絶望の多号作戦

第七次多号輸送

12月1日18時、野戦高射砲大隊、独立工兵大隊を積載した第9号、第140号、第159号輸送艦からなる第七次輸送船団第3梯団が単縦陣を組んでマニラを出発。駆逐艦竹と桑が護衛を担当し、桑艦長の山下正倫中佐が船団の指揮を執る。多号作戦の輸送は往路のレイテ西方、もしくはオルモック湾で苛烈な空襲を受けて壊滅させられる事が多く、生還するだけで大成功扱いされるほどの難易度だった。したがって全滅を避ける目的で第七次輸送船団は3つに分割されている(本来は4分割であったが第3梯団と第4梯団が一纏めになった)。

幸運な事に第3梯団はスコールとローテーションの関係で空襲を全く受けず、12月2日の日中に敵哨戒機が飛来した程度であった。道中島影に隠れて時間調整を行い、空襲の危険性が無くなる夜半、23時30分にオルモック湾への突入に成功。順調な滑り出しを見せた。第159号輸送艦は他の輸送艦とともにイピルへの揚陸作業を開始。

日付が変わった12月3日午前0時、南方1万m先より3隻の艦影が湾内へと突入してきた。その正体は、航空偵察で第七次輸送船団の存在を把握し、レイテ湾から出撃してきた第120駆逐隊所属の米駆逐艦アレン・M・サムナー、モール、クーパーだった。1943年に就役したばかりの新鋭大型駆逐艦であり、小型で船団護衛を主任務とする松型駆逐艦には荷が重すぎる敵であった。実際迎撃に向かった桑が集中砲火を浴びて轟沈させられている。もし竹までやられてしまうと輸送艦を守る存在がいなくなる。桑がそうであったように無慈悲な火力の鉄槌が第159号輸送艦に下されるだろう。だが奇蹟は起きた。竹の孤軍奮闘によりクーパーを撃沈し、手酷くやられながらも残る2隻を撤退へと追いやったのである。戦闘が終わった頃に輸送艦も揚陸作業を完了。最初に第9号が、次に第140号が、最後に第159号が沖合いに出てきた。

しかし次なる脅威が輸送船団に襲い掛かろうとしていた。現在の時刻は午前3時。あと2時間で夜明けを迎えるのだが、それはすなわち敵の熾烈な航空攻撃が再開される事を意味していた。それまでに安全圏まで脱出しなければ今度こそ全滅は避けられない。竹は戦闘により大破状態、第140号と第159号は速力に劣る二等輸送艦なので時間的余裕は一切なく、やむなく桑の生存者を見捨てて脱出。第140号と第159号が先行してマニラを目指した。その途上で海面を漂う桑の生存者8名が声を上げて助けを求めてきたが船団は無視して突き進むしかなかった。彼らを助ければ自分たちが死ぬかもしれないのだ。しかし見捨てる事が出来なかったのか、第140号が洋上停止して救助のカッターを降ろし始める。そんな第140号をも無視して竹、第9号、第159号はひたすら走り続けた(生存者8名を救助したのは第140号ではなく第159号とする情報もある)。3日の朝、雲一つない快晴の空に9機の航空機が発見される。一時は対空戦闘が下令されたがよく見ると日の丸を付けた零戦であり、レイテ西方の危険海域を突破するまで上空援護をしてくれた。しかし昼頃にアメリカ軍の大型機が出現・触接してきたため竹が高角砲で追い払っている。夕刻、島影に隠れながら竹は第9号輸送艦から不足していた真水を受領。そして12月4日18時45分にマニラへの帰投を果たした。ちなみに第140号輸送艦も無事帰投している。

12月7日にアメリカ軍の大部隊がオルモック南部のアルベイラへ上陸。是が非でも揚陸地点を死守するため、伊藤徳夫少佐率いる海軍特別陸戦隊400名、特内火艇10輌を第140号と第159号に分乗させてオルモックに殴り込ませる敵前強行揚陸が立案された。

第九次多号輸送

12月9日14時、駆逐艦桐、卯月、夕月、第17号、第37号駆潜艇が護衛する第九次輸送船団に加わってマニラを出港。第140号と第159号は主力の高橋支隊4000名、糧食、弾薬、水陸両用戦車を保有する海軍特別陸戦隊400名を乗せていた。翌10日午前にタブラス海峡へ差し掛かる。陸軍の偵察機からの報告によればオルモック湾内に敵船はいないようだった。

当初はオルモックを目指して航行していた第九次輸送船団だったが、オルモックにて激しい戦闘が行われているとの情報が入り、揚陸地点を西方のパロンポンに変更。しかし間もなく南西方面艦隊からオルモックへの強行揚陸が命じられる(これは陸軍からの要請だった)。

12月11日午前11時頃に第9号輸送艦がセブ島へ向かうため離脱。間もなくレイテ島沖30海里で約40機の戦爆連合に襲われ、この時は殆ど損害が生じなかったものの、午後の空襲でたすまにや丸と美濃丸が撃沈され、卯月、第17号、第37号駆潜艇が生存者救助のため残留。生き残った第159号輸送艦は第140号、空知丸とともに桐と夕月の護衛を受けながら南下を続けた。

最期の敵前強行揚陸

1944年12月11日22時にオルモック湾へ突入、新たな揚陸地点であるパロンポンの浜辺に艦首から突っ込んで敵前強行揚陸を開始し、アメリカ軍の前面に殴り込みをかける。沖合いには魚雷艇の襲撃に備えて駆逐艦夕月と桐が警戒する。実はこの時、東へ数km先のイピルでもアメリカ軍が揚陸作業を行っており、もはや会敵は時間の問題だった。第140号より先に揚陸を開始したため水陸両用戦車・陸戦隊・機材全ての揚陸に成功。

しかし陸上のアメリカ軍第55師団から迎撃を受けて敵味方が入り乱れる乱戦へと発展。図体が大きい第159号輸送艦は集中攻撃を受ける。乗組員の中には未だオルモックを日本軍が維持していると思い込んでいた者もいたようで「撃つな!」「味方だ!」という絶叫が聞こえてきたという。皮肉な事にオルモックにはまだ第26師団が残っていたためその認識はあながち間違いではなかった。その悲痛な叫びを踏みにじるかのように駆逐戦車、迫撃砲、大砲から滅多打ちにされ、海上の米駆逐艦コグランからの砲撃も喰らって大破炎上。瞬時に着底させられてしまった。白川艦長が戦死した他、航海長の古賀三義中尉が行方不明になった。近くにいた第140号輸送艦は揚陸地点付近での混戦を目の当たりにし離脱した事で助かったが、機材は6割程度しか揚陸出来なかったという。第159号輸送艦はその命を犠牲に全て揚陸させる壮絶なる最期を遂げた。12月15日にアメリカ軍がミンドロ島へ上陸したため第十次輸送は中止となり多号作戦は今回の第九次輸送が実質最後となった。実に49隻もの艦船が多号作戦で屍を晒してしまう結末に…。

伊藤少佐率いる上陸部隊は激しい攻撃を受けつつも敵の前哨線を突破、オルモックを防衛していた第26師団の一部と連絡を取り、2号ハイウェイに沿って北上を開始する。しかし米第77師団の妨害に遭ってルートを変更、北方にあるバレンシア飛行場の海軍設営隊と連絡を取ろうとしたがアメリカ軍の追撃により失敗し、上陸地点であるオルモック北西パロンポンの町へと追い詰められて壊滅した。

翌朝、廃墟と化した第159号の残骸がアメリカ軍に撮影されており、黒焦げになった船体からなおも二条の黒煙が噴き出しているのが分かる。陸上部隊とコグランは双方とも第159号撃沈の戦果を主張するが、コグランの記述が殆ど無いところから察するに陸上部隊の戦果として認められた模様(ちなみに第140号も第159号の大破原因を陸上砲としていた)。

1945年2月10日除籍。二等輸送艦の中で迫撃砲や戦車に撃沈されたのは第159号だけである。

関連項目

  • 大東亜戦争
  • 軍用艦艇の一覧
  • 竹(松型駆逐艦)

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最終更新:2025/12/14(日) 00:00

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