織田勝長(おだ・かつなが ?~1582)とは、戦国時代~安土桃山時代の武将である。
織田信長の五男。本能寺の変で信長・信忠と共に死去した一門衆の一人。
※勝長という名前は「甲陽軍鑑」に出てくる名前で、他の史料に出てくる名前としては「津田源三郎」「織田源三郎信房」などがあるが、本稿はひとまず『勝長』で統一しておきます。
織田信長の五男とされている。…が生まれた年は不明であり、四男の織田秀勝(羽柴秀勝)が1582(天正10)年で15歳であったにも関わらず同年死去した勝長には既に子供がいた(名は津田勝良)。ちなみに奥さんは池田恒興の娘。という理由から実は秀勝より年長であった可能性がある。まぁ前田利家のように幼少の奥さんが妊娠した可能性もなくはないが…
生母もやはり不明。幼名は坊丸、御坊丸。彼が歴史に現れるのは1572(元亀3)年。美濃国岩村城主の遠山景任がなくなった際に、養子として岩村城に入ったのが最初とされている。
遠山氏は当時織田・武田に両属している状態であった。景任の妻はおつやの方(信長の叔母)であり遠山景任には実子がいなかったため、織田家派の遠山家家臣の申し入れにより勝長が養子入りすることとなった。
しかしそんな状態の遠山家がまとまるはずもなく…武田信玄の西上作戦が開始された同年11月、武田派の家臣によって岩村城は武田家に降伏してしまう。
そしておつやの方も武田家臣の秋山虎繁(信友)と再婚することとなった。1573(元亀4)年2月に勝長は武田家の本拠地甲府に送られてしまった。この再婚については信長も周囲の人が驚くほど激怒したと伝えられている。
※『信長公記』には武田信玄からの要望で勝長は養子になったが、のちに織田・武田家間の関係が悪くなったため戻ってきたとされている。
武田信玄死後の1575(天正3)年、跡を継いだ武田勝頼が長篠の戦いに大敗。その後岩村城も織田信忠によって奪還。身内に甘かった信長もさすがに前述の再婚は許せなかったのか、秋山虎繁とおつやの方は逆さ磔になって刑死した。残念ながら当然である。
長篠の大敗後、武田家は佐竹家を介して和睦を試み、和睦の条件として勝長は織田家に返還されることとなった。しかし信長はこの頃には甲州征伐の方針を固めていたとされている。両家の間で板挟みになって行ったり来たりしていた勝長くんの心情とはこれいかに…
勝長は武田家で元服し「源三郎信房」と名乗ったという。この「信」の字は武田家の通字であるとされている。一方、後世にできた『寛政重修諸家譜』では織田家に戻り元服し「勝長」と名乗ったという。
1582(天正10)年の甲州征伐では兄信忠の軍団に組み込まれ参陣。諏訪高島城の明け渡しの指揮を執るなど活躍。信忠軍団の森長可、団忠正などと上野国に進撃している。
同年6月の本能寺の変では信忠と二条御所に共にあり、明智軍との奮戦ののちに討死にしたとされている。享年は20歳代であったとされている。
ひっそりと生まれていた子の勝良くんは織田信雄に引き取られ、のちに加賀藩前田家の家臣となったという。子孫はそのまま加賀藩氏になったという。
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最終更新:2025/12/11(木) 22:00
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