駒橋(潜水母艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した潜水母艦である。1914年1月20日竣工。当初は潜水母艦として活動していたが、小型ゆえに大型化していく潜水艦についていけず、1932年に測量艦へ艦種を変更。1945年7月28日、尾鷲で米機動部隊の空襲を受けて大破着底した。
艦名は相模川上流の桂川に架けられた同名の橋から。
馬公要港部で使用するため建造された雑役船駒橋丸を、竣工直後に潜水母艦へと艦種変更したもの。当時はまだ潜水母艦の枠組みが存在していなかったため海防艦扱いだった。雑役船からの転用なので同型艦無し。
潜水母艦とは潜水艦に補給と簡単な整備を行い、乗組員には広々とした部屋で休養を与える移動基地のような艦の事。船首楼首甲板を艦尾まで延長し、艦内の船倉スペースを使って潜水艦乗員用居住区等を設け、三等潜水艦数隻に対して母艦任務を遂行可能。第一次世界大戦の敗戦国ドイツから賠償艦として譲渡されたUボートのMAN社製ラ式ディーゼルを機関に流用。しかし故障が多発したため後に池貝ディーゼル2基に換装している。改造工事で潜水母艦用の設備を搭載していたもののそれは小型の潜水“艇”用であり、次第に大型化・高性能化していく潜水“艦”には対応出来なくなり、次級の迅鯨級が就役した1924年以降は馬公を拠点に中南支の測量任務を開始。1932年には本格的な測量機器を搭載して南洋諸島や北方海域の測量も手掛けるようになった。
大東亜戦争では本土近海での船団護衛任務に従事。戦闘艦ではないにも関わらず敵潜水艦に爆雷を投下した事もあった。1944年からは尾鷲港を拠点にして第3海上護衛隊や熊野灘部隊の旗艦を務める。1945年7月28日、呉軍港空襲に付随した尾鷲空襲で大破着底。戦後、艦体は名古屋で解体されたが菊花紋章は現存している。
奇妙な経歴から「駒橋は潜水母艦か、測量艦か?」と疑問に思われる事が多い駒橋だが、結論から言うと「潜水母艦」である。確かに潜水母艦よりも測量艦として活動していた時の方が遥かに長く、一部資料では1942年7月20日に測量艦へ転籍したとしている。しかし駒橋の艦首には菊の御紋が付けられたままになっており正規の軍艦であった。測量艦は軍艦に含まれないので本当に測量艦であれば菊花紋章は外される。つまり潜水母艦扱いである。日露戦争の武勲艦三笠は例外的に菊花紋章を外されなかったが、これはあくまで例外だからこその措置。駒橋は1945年7月28日に擱座するまで菊花紋章を装備していた事が明らかになっており、戦時日誌や当時の資料によると特務艦(=軍艦ではない)とは一度も言われていないため、測量艦に艦種変更されていないのが分かる。潜水母艦なのに潜水母艦としてあまり使用されなかったとも言える。また海上保安庁水路部は「特務艦駒橋」と記述しているためこれが混乱の一因かもしれない。
要目は排水量1125トン、全長64.01m、全幅10.67m、出力1200馬力、最大速力13.9ノット、石炭搭載量230トン、乗員86名。兵装は40口径8cm単装砲3門のみ。最終時の兵装は8cm高角砲1門、九六式25mm三連装機銃2基、7.7mm単装機銃2基。
1912年4月26日、達第48号により駒橋丸と命名。同年10月7日に佐世保工廠で起工、1913年5月21日に進水し、1914年1月20日に竣工。馬公要港部所属の雑役船となる。
本来であれば佐世保・馬公間を往来する海軍補給用運送船になるはずだった。しかし竣工直後に水雷母艦豊橋が除籍となったため、その埋め合わせをする形で潜水母艦の道を歩んで行く事となる。5月23日に馬公要港部から呉鎮守府へ転属、潜水母艦韓崎附属の潜水艇母艦に指定される。8月16日に駒橋へ改名するとともに二等海防艦となり(当時潜水母艦という艦種は無かった)、呉防備隊に編入。
1915年より潜水母艦になるための本格的な改装工事が始まり、まず5月6日から石炭庫改造、造水装置改造、曳船用ワイヤストッパを新設。10月2日からは船首楼甲板を艦尾まで延伸、船倉を潜水艦乗員用居住区に改装、魚雷格納所改造、兵員室増設、諸倉庫新設、船底バラスト搭載、瓦素林タンク改造等の大規模な改装工事を実施。潜水艇3隻分の補給能力を獲得した。こうして韓崎とともに潜水母艦の活動を始めるのだが、韓崎が1万トン級の船体だったのに対し駒橋は僅か1000トン程度しかなかったため、韓崎の方が多用されていたとか。12月4日、横浜沖で行われた御大礼特別観艦式に第2艦隊第4水雷戦隊の1隻として参列。
第一次世界大戦中の1917年から1919年にかけて佐世保工廠で更なる改装工事を実施。船尾楼を設けて中央船楼と繋ぎ、後部船倉を廃止、中甲板に兵員収容スペースを追加している。1922年2月15日午前5時、第24潜水艦が商船桜木丸との衝突事故を起こし、電動機室満水により航行不能に陥った。この事態を受けて駒橋が現場に急行。艦体を調査してみたところ後部気蓄室七番海水缶浸水が認められたため、翌16日午前4時に応急修理を行い、第24潜水艦を曳航して呉まで連れ帰った。1924年12月1日に潜水母艦へ正式に艦種変更したが、急激に発達する潜水艦の性能に小型な駒橋では能力不足だと判断され、また次級の迅鯨級潜水母艦の就役も手伝ってこの頃から測量艦になるための工事を開始。艦橋前方に測量艇または内火伝馬船2隻を搭載し、電動式測深儀とF式音響測深儀を装備した。
1925年7月8日、暴風が原因で基隆水産組合所属発動機艇3隻が難破。7月13日夜に台北水産会長より救難要請が入って駒橋が派遣される。7月18日午前7時に火焼島の湾内で擱座している難破艇を発見、行方不明者・溺死者6名を除く生存者139名が陸上の小学校に収容されていると報告した。食糧が欠乏していたという事で生存者を艦内に収容して翌19日午前6時に基隆へ帰投。船主に引き渡す。8月1日21時過ぎより汕頭の日英商店が中国人の暴徒に略奪される事件が発生。人命にこそ被害は無かったが、店内を激しく荒らされた上、本来制止すべき現地の公安局は傍観に徹していたためやむなく駒橋を含む周囲の軍艦から人員を抽出して臨時の陸戦隊を編成。在留邦人保護と治安維持にあたった。1926年2月15日、高雄・馬公間で全力公試や基本運転教練を実施。
1928年12月4日、横浜沖で挙行された御大礼特別観艦式に参列、第四列に伍した。1930年12月16日、佐世保工廠にて測深儀装備製図兼研究室と、艦橋・短艇甲板前部両舷間に伝声管を新設。1931年4月18日から29日にかけて東京帝国大学農学部の学生が駒橋に便乗し、南洋諸島海洋調査に同行。待遇は下士官相当だが食費に関しては実費だった。10月1日、内令第170号により横須賀鎮守府所属の測量兼警備艦となる。主機の性能不足により速力が6ノット程度しか出せなかったため、1932年6月20日から11月にかけて、横須賀工廠に入渠して敗戦国ドイツから譲渡されたUボートのMAN社製ラ式ディーゼルと、最新式の測量機器シグスビー測深儀を搭載。それと並行して軽油格納所、野菜庫、防水ムシロ格納所、信号用火工品庫、海洋測量所天幕装置、清水取出管、8cm双眼望遠鏡架台、羅針艦橋遮風防寒設備を新設した。バシー海峡や内南洋方面で8ヶ月ほど測量任務に就いたが、ラ式ディーゼルが古くて故障が多発したため1933年に池貝ディーゼル2基に換装。出力が1200→1800馬力に向上して最大速力も13.9ノット→14ノットへ微増。この際に伝声管と主錨鎖の増設、機械室及び缶室に大排水装置と防熱装置の新設、野菜庫の拡大も行っている。予算の都合で方向探知器の搭載は見送られた。また来年から始まる北洋での測量に備えて横須賀工廠で暖房装置を新設。
1935年12月8日から1936年3月25日まで南洋群島の海象観測、5月10日から9月11日まで北海道東方からベーリング海にかけて海象観測、1937年4月7日から7月16日までオホーツク海の海象観測、7月28日から8月16日まで本州南方の海象観測を実施。ルソン海峡、千島列島、カムチャッカ半島、南洋の委任統治領周辺の海流、塩分、海底地形、漁業資源を調べ上げた。長期間遠洋で活動する関係上、生糧品の入手が困難で乗組員の健康を害しやすい事を考慮し、栄養源になる精製胚芽が特別に支給されている。
支那事変勃発に伴って8月19日に中国沿岸を作戦海域とする第3艦隊へ編入、10月20日に支那方面艦隊へ転属するが、測量艦という特殊な立ち位置のためか海上封鎖や各種攻略作戦には参加せず、独立した動きを取りながら南洋諸島や台湾近海の測量を行っている。1939年6月、対米戦争に備えるべく水上機基地と軍港の開発が出来そうな場所を探し当てるべく、内南洋方面の測量と哨戒任務に就く。1940年11月15日に横須賀鎮守府部隊へと異動。戦争の足音が近づいてきた1941年10月16日から11月18日にかけて本州南方と南洋諸島の海象観測を実施。開戦に向けて九六式25mm対空機銃6基と爆雷投射機が増備された。ちなみに潜水母艦として高い性能を発揮していた大鯨と剣埼が空母改装化の形で取り上げられ、潜水母艦不足に陥った帝國海軍はやむなく旧式艦の迅鯨型を引っ張り出しているが、性能差が酷すぎるからか案の定駒橋には声が掛からなかった。
1941年12月8日、駒橋は大東亜戦争開戦を横須賀軍港内で迎える。菊の御紋を戴く立派な「軍艦」とはいえ、既に竣工から27年も経過した老朽艦であるためさすがに最前線へは投入されず、横須賀周辺の船団護衛に充てられる程度だった。12月11日、特設砲艦昌栄丸と哨区を交代。
1942年4月27日、茨城県勝下海岸に座礁した特設監視艇萬壽丸の救難作業協力を命じられて横須賀を出港。翌28日に現場海域へ到着した駒橋は特設砲艦京津丸や興海丸とともに救難作業を実施し、4月29日14時に救難作業成功を打電した。5月12日、ラバウルに向かって横須賀を出発する武庫丸を出発、道中で第2東洋丸と合流して引き返し、同日深夜に横須賀へ帰投。
5月14日14時、東京湾の富津岬を出港して北方に向かう羽後丸、葛城丸、金泉丸、胆振丸を勝浦付近まで護衛したのち分離、横須賀へ帰投する。5月16日午前10時30分、再び北方へ向かう船団を護衛して東京湾を出港。途上で護衛任務を切り上げて横須賀に帰投した。5月18日午前8時に横須賀を出港した駒橋は敷設艦猿島と合流して午前10時30分に富津岬を出発、北方行きの船団を勝浦沖まで護衛して反転離脱。5月20日午前9時30分、連山丸と行川丸の2隻を護衛して東京湾を出発、18時30分に勝浦沖48度で離脱した。6月3日、横須賀を出発する富浦丸を護衛して本土南岸を航行、尾鷲沖で横須賀に向かっていた第2日新丸と合流して護衛に就き、東京湾まで護衛。少数ながら本土近海にも米潜水艦が出没し始めているため油断は禁物だった。7月5日、タンカー極洋丸を護衛して横須賀を出港。
7月7日、米と砂糖を積載して神戸から横浜に向かっていた陸軍徴用船榛名丸は濃霧による視界不良で御前崎灯台東方の岩礁に座礁。榛名丸の座礁報告を受けた横須賀鎮守府は駒橋を救難艦として派遣した。翌日現場海域に到着し、救難船による離礁作業を援護するが失敗に終わって榛名丸の放棄が決定。7月18日午前8時40分に横須賀入港。後に榛名丸は船体が真っ二つに裂けて転覆してしまった。
ミッドウェー海戦の敗北に伴う大規模な再編成により、7月20日に駒橋と第5測量隊は北東海域を担当する第5艦隊へ転属。7月27日に横須賀を出港し、函館を経由して8月8日に占守島へ進出、新たに占領下に置かれたアリューシャン列島周辺で測量任務に就く。しかし駒橋が占守に到着した日、キスカ島にアメリカ艦隊が来襲。以降アリューシャン方面で敵水上艦艇が徘徊するようになり、旧式のS級潜水艦だけでなく最新鋭のガトー級の出現も確認され、悪条件下にも関わらず敵機まで飛んで来るなど、危険度が日に日に上がりつつあった。敵以外にも北極低気圧に起因する濃霧、低気温、着氷が日米両軍に襲い掛かる。8月21日16時40分、千島列島・温禰古丹(オネコタン)海峡に到着して測量作業を実施。9月3日14時55分に片岡湾へ帰投した。9月29日、キスカ島の測量を行っていた駒橋はアメリカ陸軍爆撃機の攻撃に巻き込まれ、測量艇を破損して任務遂行が困難になったため、片岡湾と大湊を経由して10月15日に横須賀へ後退。直ちに工廠で修理を受ける。
11月1日に横須賀鎮守府部隊へ異動となり再び横須賀周辺で船舶護衛任務に就く。西方へ向かう場合は尾鷲まで、目的地が尾鷲よりも手前の場合は目的地まで、北方へ向かう場合は勝浦まで護衛する事になっていた模様。12月10日、第40号東船団を横須賀まで護送して帰港。12月19日、第49号東船団を護衛して横須賀を出港、今回は名古屋まで護衛を担当した。年内だけで駒橋によって護衛された船舶は38隻に及んだという。
1943年1月22日14時、西行きの第7122船団を護衛して横須賀を出港、尾鷲で護衛を切り上げて横須賀に帰投する。2月7日には東行きの第8204船団を東京湾まで護衛し、2月9日に東京湾を出発する西行きの第7209船団を護衛。尾鷲西方沖で護衛を切り上げて帰投した。
6月21日、2隻の輸送船からなる第7621B船団を護衛して横須賀を出港。翌22日23時50分、大王崎の12.5海里沖で米潜水艦ハーダーから4本の魚雷攻撃を受け、一般徴用船第三共栄丸が被雷大破。すかさず駒橋が9発の爆雷を投下しているがハーダーには逃げられた。損傷の大きさから第三共栄丸は一時は漂流してしまうも、何とか曳航されて無事尾鷲湾まで逃げ込んでいる。7月12日、第7712船団を護衛して東京湾を出港。護衛には第42号駆潜艇が加わっていた。速力13.5ノットで新形丸と山桐丸の目的地である四日市と名古屋まで護送。9月17日、神戸行きの船団を護衛して東京湾を出発。天候不良のため9月19日13時に勝浦湾への退避を強いられ、同日16時10分には潮岬灯台沖6.5海里にて加智山丸が米潜ハーダーの雷撃で沈没。駒橋は爆雷24個を4回に分けて投下してハーダーを追い払った。22時、和歌浦に避泊。
1944年1月16日、本州南岸における船舶被害増大を鑑み、東京湾・紀伊水道間の海上交通路保護のため第3海上護衛隊が新編され、大阪警備府に司令部を設置。駒橋は敷設艇成生、第14号駆潜艇、第46号哨戒艇、第26掃海隊を率いる熊野灘部隊の旗艦となった。また増大する敵機の脅威に備えて兵装を8cm単装高角砲1門、25mm三連装機銃2基、7.7mm対空機銃2基、三八式小銃28丁、拳銃12丁に増備。旗艦任務を務めるようになったため以降は尾鷲港から指揮を執り続ける。12月7日に東南海地震が発生。尾鷲市ではマグニチュード8.0が観測され、発生した5m以上の津波が堤防を乗り越えて尾鷲湾の駒橋へと襲い掛かった。自然の猛威の前では錨ですら役に立たず、津波に押し流されて国市の浜に艦体を押し付けられ、第二波で更に浜辺へと押し付けられた。目撃者の証言によると船腹に大きな穴を開けて傾きながら座礁していたという。この地震で尾鷲市は65名の死者を出した。12月13日、尾鷲上空を初めてB-29が通過。
1945年4月7日、尾鷲市に対する最初の空襲が行われ、海岸沿いに11発の爆弾が投下されたものの幸い駒橋に被害は出なかった。4月15日、B-29による機雷投下作戦の激化に伴って第3海上護衛隊は解隊。5月7日、尾鷲港に震洋60隻、海龍24隻、回天4基からなる横須賀鎮守府部隊西部海面防備部隊熊野灘部隊(第4特攻戦隊)を新編して旗艦となる。
7月25日午前6時頃、第38任務部隊から発進してきた敵機12機が尾鷲上空に現れ、それぞれ獲物になりそうな艦船を攻撃。三野瀬駅に停車していた上下線の2列車も機銃掃射を浴びせられて尾鷲市だけで60名の死傷者が発生。14時57分に敵機が引き揚げて空襲は終了。辛くも駒橋は生き残った。
1945年7月28日朝、グラマンの6機編成が佐波留島上空に出現、このうち3機が尾鷲港に、残りの3機が須賀利湾の在泊艦艇に襲い掛かった。敵は30分間隔で波状攻撃を仕掛け、特に旗艦の駒橋を狙って集中的に驟雨の如き機銃弾と凄まじい数のロケット弾が撃ち込まれる。午前10時半頃、直撃弾を受けた駒橋は破孔からの浸水で急激に艦体が沈下したため、機関出力を絞りながら湾の中心地から移動を開始し、沈没を避ける目的で国市の浜に自ら乗り上げて擱座。擱座した後も敵機の攻撃は続いた。空襲は16時頃に終了。
7月29日より駒橋は1隻だけ残ったカッターを降ろして遺体を回収。この時に駒橋の艦首から菊の御紋が外されたという。尾鷲小学校を臨時の野戦病院にして負傷者の治療に当たるも、物資不足の影響で充分な治療が出来ず、熊野灘部隊147名が死亡。戦死者の多くが市内の火葬場では対処出来なかった上、火葬時の煙で敵機を引き付ける危険性から数km離れた矢所で荼毘に付された。このうち遺族に分骨されたのは三十余柱程度だった。8月1日に第4予備艦指定を受け、そのままの状態で終戦を迎えた。11月30日除籍。
1948年9月20日に浮揚されて名古屋に回航され、1949年頃に解体完了。駒橋に取り付けられていた菊の御紋は尾鷲市の曹洞宗金剛寺に保管された。毎年7月28日には戦死者147名を弔う慰霊祭が尾鷲市天満浦の古里海岸で営まれ、矢所と白石墓地には戦死者と駒橋ら沈没艦を弔う慰霊碑が建立されて悲劇を後世に伝え続ける。ちなみに慰霊碑では何故か海防艦扱いになっている。
測量艦として長く活動していた駒橋は、未発見の海底火山を幾つか見つけ出す功績を挙げている。駒橋の測量活動によって日本海溝以東の調査が飛躍的に進んだ。
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最終更新:2025/12/11(木) 19:00
最終更新:2025/12/11(木) 19:00
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