駒橋(潜水母艦)とは、大日本帝國海軍が建造・運用した潜水母艦である。1914年1月20日竣工。1932年からは測量艦として活動。1945年7月28日、尾鷲で米機動部隊の空襲を受けて大破着底した。
艦名は相模川上流の桂川に架けられた同名の橋から。同型艦無し。潜水母艦とは、潜水艦に補給と簡単な整備を行い、乗組員には広々とした部屋で休養を与える、言うなれば潜水艦用の移動基地。
馬公要港部で使用するために建造された雑役船駒橋丸を、竣工直後に潜水母艦へと艦種変更したもの。計画時は潜水母艦にする予定ではなかったので船体構造は三島式貨物船と全く同じだった。排水量1000トン程度と小型だが、潜水母艦なので正規の軍艦に分類され、艦首には菊花紋章が輝き、入港の際は駆逐艦や水雷艇といった非軍艦から先に敬礼され、艦長には中佐や大佐クラスが割り当てられるなど格を備えていた。
船首楼首甲板を艦尾まで延長し、艦内の船倉スペースを使って潜水艦乗員用居住区等を設け、三等潜水艦数隻に対して母艦任務を遂行可能。機関は第一次世界大戦の敗戦国ドイツから賠償艦として譲渡されたUボートのMAN社製ラ式ディーゼルを機関に流用しているが、旧式ゆえに故障が多発したため後に池貝ディーゼル2基への換装を強いられている。
改造工事で潜水母艦用の設備を搭載していたものの、それは小型の潜水“艇”用であり、次第に大型化・高性能化していく潜水“艦”には対応出来なくなり、次級の迅鯨型が就役した1924年以降は馬公を拠点に中南支の測量任務を開始、1932年には本格的な測量機器を搭載して南洋諸島や北方海域の測量も手掛けるようになった。このような奇妙な経歴から、「駒橋は潜水母艦か、測量艦か?」と疑問に思われる事が多いが、結論から言うと「潜水母艦」である。確かに、潜水母艦よりも測量艦として活動していた時の方が遥かに長く、一部資料では1942年7月20日に測量艦へ転籍したとしている。
しかし駒橋は1945年7月28日に擱座するまで、菊花紋章を装備していた事が明らかになっており、戦時日誌や当時の資料にも特務艦(=軍艦ではない)とは一度も言われていないため、測量艦に艦種変更されていないのが分かる。測量艦は軍艦に含まれないので本当に測量艦であれば菊花紋章は外されるからだ。日露戦争の武勲艦三笠は例外的に菊花紋章を外されなかったが、これはあくまで例外だからこその措置。潜水母艦なのに潜水母艦としてあまり使用されなかったとも言える。また海上保安庁水路部は「特務艦駒橋」と記述しているためこれが混乱の一因かもしれない。
要目は排水量1125トン、全長64.01m、全幅10.67m、出力1200馬力、最大速力13.9ノット、石炭搭載量230トン、乗員86名。兵装は40口径8cm単装砲3門のみ。最終時の兵装は8cm高角砲1門、九六式25mm三連装機銃2基、7.7mm単装機銃2基。
1911年11月28日の閣議で交通船1隻の建造が決定。1912年4月26日発令の達第48号で駒橋丸と命名、同年10月7日に佐世保工廠で起工、1913年5月21日進水し、そして1914年1月20日に無事竣工を果たした。就役後は馬公要港部所属の雑役船となる。
本来駒橋丸は佐世保・馬公間を往来する海軍補給用運送船として建造された船だった。しかし就役直後に水雷母艦豊橋が除籍となったため、その埋め合わせをする形で潜水母艦に抜擢され、一度も佐世保を出る事なく5月23日に馬公要港部から呉鎮守府へ転属、潜水母艦韓崎附属の潜水艇母艦に指定される。8月16日に駒橋へ改名するとともに二等海防艦(当時潜水母艦という艦種は無かった)となり呉防備隊に編入。
1914年7月下旬から9月上旬にかけて呉工廠で潜水母艦になるための本格的な改装工事を開始。豊橋から取り外したガソリンタンク4基、弾薬庫、水雷火薬庫、潜水艇乗組員居住設備、各科倉庫、給電設備、魚雷格納所、潜水艇横付設備等を搭載する。
1915年5月6日からは石炭庫改造、造水装置改造、曳船用ワイヤストッパを新設し、10月2日からは船首楼甲板を艦尾まで延伸、船倉を潜水艇乗員用居住区に改装、魚雷格納所改造、兵員室増設、諸倉庫新設、船底バラスト搭載、瓦素林タンク改造、ガソリンタンク容量増大等の大規模工事を実施。八号型潜水艇3隻分の補給能力を獲得した。
こうして生まれ変わった駒橋は、韓崎とともに潜水母艦の活動を始めるも、駒橋の船体は僅か1000トン程度と非常に小さく、1万トン級の大きさを誇る韓崎の方が利便性に優れた事から、もっぱら韓崎が多用されていたとか。
第一次世界大戦中の1917年から1919年にかけて佐世保工廠で更なる改装工事を実施。船尾楼を設けて中央船楼と繋ぎ、後部船倉を廃止、中甲板に兵員収容スペースを追加している。乗組員の増加に伴って搭載艇の増備も必要になり、8.5m内火艇1隻を新たに搭載。
1922年2月15日午前5時、第24潜水艦が商船桜木丸と衝突事故を起こし、電動機室満水により航行不能に陥った。この事態を受けて駒橋が現場に急行、艦体を調査してみたところ後部気蓄室七番海水缶浸水が認められたため、翌16日午前4時に応急修理を行い、第24潜水艦を曳航して呉まで連れ帰った。
1923年9月1日午前11時58分、相模湾北西部を震源とする関東大震災が発生し、神奈川県、東京府(当時)、茨城県、千葉県、静岡県東部の広範囲が壊滅。当時呉に停泊していた駒橋は直ちに出動準備に取り掛かり、呉軍需部が貯蔵する3分の1の糧食缶詰等を探照灯の照射を受けながら夜通し積み込んだ。そしてその食糧を被災地まで緊急輸送した。
1924年12月1日に潜水母艦へ正式に艦種変更したが、急激に発達する潜水艦の性能に小型な駒橋では能力不足と判断され、また次級の迅鯨級潜水母艦の就役も手伝って、この頃から測量艦になるための工事を開始。艦橋前方に測量艇または内火伝馬船2隻を搭載し、電動式測深儀とF式音響測深儀を装備した。
1925年7月8日、暴風が原因で基隆水産組合所属発動機艇3隻が難破。7月13日夜に台北水産会長より救難要請が入って駒橋が派遣される。7月18日午前7時、台湾海峡の火焼島湾内で擱座している難破艇を発見、行方不明者・溺死者6名を除く生存者139名が陸上の小学校に収容されていると報告した。また食糧が欠乏していたので生存者を艦内に収容して翌19日午前6時に基隆へ帰投。船主に引き渡す。
8月1日21時過ぎより汕頭の日英商店が中国人の暴徒に略奪される事件が発生。人命にこそ被害は無かったが、店内を激しく荒らされた上、本来制止すべき現地の公安局は傍観に徹していたため、やむなく駒橋を含む周囲の軍艦から人員を抽出して臨時の陸戦隊を編成、在留邦人保護と治安維持にあたった。
1926年2月15日、高雄・馬公間で全力公試や基本運転教練を実施。2月25日16時に馬公を出港、駒橋は第14駆逐隊(江風、谷風、菊、葵)や第25潜水隊(呂29、呂30、呂31)とともに合同訓練を実施し、27日午前1時56分に香港港外へ到着。現地ではイギリス重巡ホーキンスを来訪したり、現地居留民を迎えるといった交歓が行われた。3月6日午前9時に香港を出発、続いて汕頭や厦門へ立ち寄り、それぞれ寄港地でも同じように交歓を行ったのち、3月12日午前6時30分に馬公へ帰投。
1927年6月下旬、台湾への飛行演習を行う佐世保海軍航空隊の救難艦として八重山列島方面に配置。12月1日、井上勝純中佐が艦長に就任、彼の旧名は松浦純で、最後の平戸藩主・松浦詮の八男にあたる。
1930年12月16日、佐世保工廠にて、測深儀装備製図兼研究室と、艦橋・短艇甲板前部両舷間に伝声管を新設。ちなみに測量艦の活動を続けている駒橋だが、潜水母艦としての能力もしっかり残されており、潜水艦乗員157名分の寝台、魚雷19本と飲料水78トンの補給能力を有していた。1931年4月18日から29日にかけて東京帝国大学農学部の学生が駒橋に便乗し、南洋諸島海洋調査に同行。待遇は下士官相当だが食費に関しては実費だった。10月1日、内令第170号により横須賀鎮守府所属の測量兼警備艦となる。
1932年5月15日、海軍青年士官が犬養毅首相を暗殺する五・一五事件が発生。駒橋乗り組みの大庭春雄少尉は事件に直接関わった訳ではないが、上海停泊中の装甲艦出雲から調達したブローニング拳銃1丁と弾丸50発を佐世保に持ち帰り、後に警視庁を襲撃する古賀清志中尉へ届けたため、終結後に反乱予備罪・禁錮2年及び執行猶予5年が言い渡されている。
1922年頃より機関の老朽化でボイラーの換装を求める声が上がり、速力も6ノット程度しか出せなくなってきた。更にそこへ下坊定吉中佐が「水路部の測量艦は長い航続能力が必要だ」と力説した事で駒橋のボイラー換装が決定する。
1932年6月20日から11月30日にかけて横須賀工廠で換装工事を実施。敗戦国ドイツから譲渡されたUボートのMAN社製ラ式ディーゼルと、最新式の測量機器シグスビー測深儀を搭載、それと並行して軽油格納所、野菜庫、防水ムシロ格納所、信号用火工品庫、海洋測量所天幕装置、清水取出管、8cm双眼望遠鏡架台、羅針艦橋遮風防寒設備を新設した。言った手前、下坊中佐は駒橋に乗艦せざるを得なくなり、12月1日に艦長となる。通常の艦艇勤務は2年だが、彼は志願して3年乗っている。愛着でも湧いたのだろうか。
バシー海峡や内南洋方面で8ヶ月ほど測量任務に就いたものの、ラ式ディーゼルが古くて故障が多発して使い物にならなかったので、1933年に池貝無気噴気ディーゼル2基に換装、これにより出力が1200→1800馬力に向上して最大速力も13.9ノット→14ノットへ微増した。この際に伝声管と主錨鎖の増設、機械室及び缶室に大排水装置と防熱装置の新設、野菜庫の拡大も行っている。ただし予算の都合で方向探知器の搭載は見送られた。また来年から始まる北洋での測量に備えて横須賀工廠で暖房装置を新設。
1935年に入ると対米関係が次第に悪化し、アメリカとの開戦が現実味を帯び始めてきた。そこで、政府は艦隊決戦想定海面となる西太平洋の気象情報や海洋を調べるべく、帝國海軍は駒橋、満州、膠州、大和などの測量艦を投じて一斉観測を、同時に農林水産省水産試験部も試験船、水産指導船を使って三陸沖の一斉観測を、春風丸が西太平洋の気象観測を実施する事に。
同年10月2日、海軍水路部は南鳥島に駒橋を派遣。気象観測所を設置するべく松原映治技師と部下4名を上陸させた。この頃の南鳥島は海鳥の乱獲が原因で事業が衰退、島民も既に去り、完全な無人島と化していたため、軍事拠点として注目され、半地下式司令部を造営したのをきっかけに南鳥島の要塞化が始まった。10月中に駒橋艦長から水路部第5課長へ復帰した岸人三郎中佐は、軍用艦艇である測量艦とは別に文官を乗せる測量船16隻の建造、内地の沿岸要所25ヵ所に観測基地を設置して西太平洋南北の海流・海況の定線観測を実施するといった遠大な計画を提示、海軍が水路部に関心を寄せていた事もあって実行に移された。
12月8日から1936年3月25日まで南洋群島の海象観測を、5月10日から9月11日まで北海道東方・ベーリング海間の海象観測を実施。
9月、連合艦隊が潮岬沖で大演習を行ったところ、想定外の海流分布によって艦隊陣形形成に支障をきたす事件が発生、駒橋が集中観測をした結果、紀伊半島沖の黒潮が大蛇行流路を取っていた事が分かった。駒橋が挙げたこの〝戦果〟は、軍機保護法のもと、秘密水路雑書「海象彙報」第一号で発表され、一斉観測の中でも最も注目すべき成果に数えられるものとなった。
1937年4月7日から7月16日までオホーツク海の海象観測、7月28日から8月16日まで本州南方の海象観測を実施し、ルソン海峡、千島列島、カムチャッカ半島、南洋の委任統治領周辺の海流、塩分、海底地形、漁業資源を調べ上げた。長期間遠洋で活動する関係上、生糧品の入手が困難で乗組員の健康を害しやすい事を考慮し、栄養源になる精製胚芽が特別に支給されている。
1937年8月13日に生起した第二次上海事変を以って日華は宣戦布告無き戦争状態に突入(支那事変)。8月19日、駒橋は中国沿岸を作戦海域とする第3艦隊に編入、10月20日に支那方面艦隊へ転属するも、測量艦という特殊な立ち位置のためか、海上封鎖や各種攻略作戦には参加せず、独立した動きを取りながら南洋諸島や台湾近海の測量を行う。
1938年1月30日、駒橋艦長の山崎貞直中佐は、第6駆逐隊司令を務める伏見宮博義王に愛玩用の七面鳥をプレゼント。というのも博義王殿下は人に群がられるのを嫌い、上陸を全くしない人物だったため、機嫌を取る目的で七面鳥を贈ったのだった。殿下は七面鳥を気に入り、司令駆逐艦雷に小屋を作って、しばらく艦上で飼育していたが、船酔いで元気をなくしてしまったので、給糧艦間宮に預けられて内地へ送還されている。
1939年6月2日、駒橋は横須賀を出港。近い将来起きるであろう対米戦争に備えるべく、水上機基地と軍港の開発が出来そうな場所を探し当てる目的で、内南洋方面の測量と哨戒任務に就く。1940年11月15日に横須賀鎮守府部隊へと異動。
1941年7月4日、横須賀鎮守府長官は駒橋に対し、本州南方海域と南洋諸島の海象観測を命じ、10月16日から11月18日にかけて観測任務に従事。それが終わると駒橋も開戦に備える事となり、九六式25mm対空機銃6基と爆雷投射機が増備された。
ちなみに潜水母艦として高性能を発揮していた大鯨と剣埼が空母化改装の形で取り上げられ、潜水母艦不足に陥った帝國海軍はやむなく旧式艦の迅鯨型を引っ張り出した一方、あまりにも現行の潜水艦に性能が追い付いていないからか、案の定駒橋には声が掛からなかった。
開戦直前の12月7日午前8時30分に横須賀を出港、午後12時30分から23時まで館山に仮泊したのち、担当区域の大島西方海域に向かう。
1941年12月8日正午、大島西方沖で、商船に尋問を行っていた駒橋のもとに対米英戦争開戦の報が届く。程なくしてハワイ、グアム、ウェーク、香港、シンガポールへの爆撃、ダバオやマレーへの敵前上陸といった戦況が次々にもたらされた。12月11日、特設砲艦昌栄丸と哨区を交代。12月24日、横須賀鎮守府参謀長より観測及び測量任務の中止を命じられ、正式に軍艦本来の任務に就く。
菊の御紋を戴く立派な「軍艦」とはいえ、既に竣工から27年も経過した老朽艦なので、さすがに最前線には投入されず、横須賀周辺の船団護衛に充てられる程度だった。開戦当初はまだ護衛専門の部隊が存在せず、内地、台湾、関東州、支那、朝鮮、樺太の沿岸及び相互間の航路を各鎮守府、各警備府、あるいは連合艦隊がそれぞれ担当。駒橋の担当区域は横須賀を中心として本州北方と尾鷲間の海域であった。
1942年4月27日、茨城県勝下海岸に座礁した特設監視艇萬壽丸の救難作業協力を命じられ、駒橋は横須賀を出動、翌28日に現場海域へ到着し、特設砲艦京津丸や興海丸とともに救難作業を実施、4月29日14時に救難作業成功を打電した。
5月に入ると本州南岸における米潜水艦の行動が活発化。5月1日、御前崎沖で水上機母艦瑞穂が撃沈され、翌2日に潮岬沖で宇山丸が撃沈されたのを機に紀伊半島沿岸での被害が続出、急遽舞鶴航空隊の水上偵察機6機が串本に進出する事態となっている。また横須賀鎮守府は1000トン以上の一般船舶は集団航行させ、これを直接護衛するよう指揮下の艦艇に命じた。
5月12日、横須賀発ラバウル行きの武庫丸を護衛して出発、道中で第2東洋丸と合流して引き返し、同日深夜に横須賀へと帰投。続いて5月14日14時に東京湾の富津岬を出港、北方に向かう羽後丸、葛城丸、金泉丸、胆振丸を勝浦付近まで護衛した。5月16日午前10時30分、北方行きの船団を護衛して東京湾を出発。
6月3日、横須賀を出発する富浦丸を護衛して本土南岸を航行、尾鷲沖で横須賀に向かっていた第2日新丸と合流・反転し、第2日新丸とともに東京湾へ帰投。本土近海とはいえ既に米潜水艦の出没が始まっており、護衛任務は決して軽視できないものとなりつつあった。
7月7日、米と砂糖を積載して神戸から横浜に向かっていた陸軍徴用船榛名丸が、濃霧による視界不良で御前崎灯台東方の岩礁に座礁。榛名丸の座礁報告を受けた横須賀鎮守府は駒橋を救難艦として派遣した。翌8日、駒橋は現場海域に到着し、救難船による離礁作業を援護するが、失敗に終わって榛名丸の放棄が決定。7月18日午前8時40分、横須賀に帰投。後に榛名丸は船体が真っ二つに裂けて転覆してしまった。
ミッドウェー海戦の敗北に伴う大規模な再編制により、7月20日より駒橋は北東海域を担当する第5艦隊に転属。任地をアリューシャン列島へと移す。7月25日に第5測量隊(隊長は駒橋艦長と兼務)が乗艦。測量隊は製図、測量、気象の各班で構成され、約40名の大所帯であった。彼らには防寒外套、防寒帽、長靴などが支給されている。
7月27日、横須賀を出港、函館で給油・給水を受けたのち、千島列島の択捉及び国後沖を北上してオホーツク海に進出するが、ここで台風と遭遇してしまう。ただでさえ駒橋の小さな船体では、北の荒れた海を進むだけでも激しいローリングとピッチングが襲ってくるのに、台風まで襲来してはかなわない。大湊に引き返すか強行突破するか。艦内では幹部会議が開かれ、最終的に「前進」が決まった。
台風が過ぎ去り、夜が明けると深い霧が出迎えた。暖かい陸上の湿った空気が、寒流の上に流れ込むと、粘り気のある重々しい濃霧を作り出す。アリューシャン方面の濃霧は内地のそれとは全く毛色が違った。霧が薄れた時に僅かだが陸地の輪郭が見える。しかし、はっきりとした目印が分からず、駒橋は徐行しながら霧が晴れるのを我慢強く待つ。すると漁船のエンジン音らしきものが近づいてきた。航海長が艦橋から降りてきて、メガホンで「この島はどこか?」と尋ねると、霧の中から「ホロムシロ」と返ってきて、目的地のそばまで来ている事が分かった。
8月8日に占守島へと到着。片岡湾には勇ましい駆逐艦や駆潜艇が3隻ほど停泊している。朝になると、艦首に菊花紋章を戴く「軍艦」駒橋の指揮に従い、各艦が一斉に軍艦旗を掲揚する。
片岡湾からアッツ島までは700マイル、およそ3日程度の航程だが、ベーリング海はアメリカ軍の基地ダッチハーバーの行動半径内な上、アメリカ軍は同方面に新型のガトー級潜水艦を配備するようになり、敵水上艦艇も徘徊して時折キスカを砲撃、また悪条件下にも関わらず敵機まで飛んで来るなど、危険度が日に日に上昇していた。敵以外にも北極低気圧に起因する濃霧、低気温、複雑な海流、着氷が日米両軍に襲い掛かる。
出港から3日目の朝――8月16日――、深い霧に包まれたアッツ島チチャゴフ港に到着。湾内には二式水上戦闘機1機だけが浮いていた。唯一設けられた木造の桟橋に測量機器と第5測量隊を揚陸。数日前、駆逐艦が敵潜水艦に撃沈されたとの情報が入り、速力の遅い駒橋では帰路狙われる恐れがあるとして、作業を急ピッチで終わらせたのち、すぐさまアッツを発つ。
8月21日16時40分、千島列島・温禰古丹(オネコタン)海峡に到着して測量作業を実施、ところがその途中の8月23日に測深儀が故障してしまい、乗組員は8月29日まで徹夜の復旧作業を強いられた。8月30日、努力と涙の結晶たるオネコタン海峡の海図を完成させる。9月3日、天候が悪化してきたので幌筵島への退避を決め、14時55分に片岡湾へと帰投、しかし9月7日に湾内で暴風雨に襲われ、今度は乙前湾に退避している。
9月12日14時49分、輸送任務に従事するため片岡湾を出発、9月16日午前5時23分にアッツ島北海湾へ投錨して測量隊員を収容した。アッツ島内にはキスカに進駐予定の北海支隊がいたのだが、長田丸では搭載人数が乏しく、野島丸は空襲によって撃沈されてしまったので、急遽アッツ進出中の駒橋、陽光丸、駆逐艦初霜に北海支隊輸送の命が下る。
9月17日午前8時52分、測量船陽光丸、長田丸、駆逐艦初霜と輸送船団を編成して出発、護衛には第14号駆潜艇や第15号駆潜艇が付いた。翌18日午前10時13分にキスカ湾に到着して陸兵を揚陸する。キスカ島はアリューシャン方面の最前線だけあって、湾内には爆撃を受けて沈没した船や損傷を負った船が多く見られ、地上には生々しい爆撃の痕が見える。また停泊中にも度々空襲警報が発令されて心休まる暇が無かった。
9月25日午前7時15分、敵大型機3機とP-40が偵察に現れて対空戦闘、敵機はキスカ湾で測量中の駒橋を狙って爆撃を加えてきたが、いずれも100~200m至近に着弾して被害なし。翌26日午前4時30分にも敵機約20機がキスカに襲来。対空砲火や味方戦闘機の迎撃で敵機2機を撃墜し、13分後に撃退成功、今回も駒橋は無傷で切り抜けられたが、ドラム缶50個分の航空燃料、25mm機銃弾3万発、20mm弾5000発を喪失するなど攻撃の激しさを感じずにはいられなかった。
9月28日午前11時52分、キスカ湾へ襲来したB-24爆撃機5機と交戦。駒橋の艦首150m先に爆弾が落下した。同日15時にキスカ湾を出発して片岡湾に向かう。
9月29日午前3時、第5艦隊より武蔵湾の測量を命じられ、必要な測量艇を収容するためキスカに反転。午前4時5分、哨戒中の敵飛行艇と遭遇、駒橋は突撃しながら午前4時19分より対空射撃を開始、思わぬ突進に虚を突かれた敵飛行艇は西方に向かって遁走した。敵機を退けたのも束の間、午前10時45分、右舷側からB-24爆撃機3機が出現して駒橋に突撃、対する駒橋も突撃して真っ向勝負となり、8分後に対空射撃を開始。敵機は物量に物を言わせ、約2時間もの間、第8波に渡って銃爆撃を実施、駒橋に向けて投下された爆弾の数は48発にも及んだが、幸い直撃弾は無く僅かな浸水被害のみ、軽傷者も3名のみ済んだ。
15時40分、敵機の集中攻撃を掻い潜ってどうにかキスカまで辿り着くが、キスカもまた6回の爆撃を受けていて測量艇3隻が破損、測量任務遂行が困難になったため、18時に陽光丸と幌筵方面に引き揚げる。10月1日午前0時に振動で舵が故障するトラブルに見舞われるも直ちに復旧して事なきを得た。
キスカ島での盲爆が嘘と思えるほど、平穏な航海を続ける駒橋であったが、10月2日午前6時にキスカへ入港しようとして爆撃に巻き込まれた日帝丸からの救助要請を受信したり、また翌3日午前1時には敵が敷設した浮遊機雷を発見し砲弾7発を撃ち込んで処分するなど、不穏当な部分も見え隠れする。浮遊機雷を処分した際に弾薬が空っぽになってしまうが、10月4日に無事片岡湾へ帰投。
10月7日に陽光丸と片岡湾を出発して内地に向かう。10月9日16時に宗谷海峡を通過、10月11日午前9時に大湊へ寄港し、翌日乗組員には4時間の散歩上陸が認められて、久々に内地の光景を楽しんだ。10月13日午前9時に大湊を出港、途中で陽光丸と別れて10月15日に横須賀へ入港。工廠で修理を受ける。この航海を以ってアリューシャン海域での任務を完了した。
11月1日、横須賀鎮守府部隊に異動。再び横須賀・紀伊水道間で船舶護衛任務に就く。西方へ向かう場合は尾鷲まで、目的地が尾鷲よりも手前の場合は目的地まで、北方へ向かう場合は勝浦まで護衛する事になっていた模様。大阪警備府や阪警部隊も哨戒掃討を行って間接的に協力した。
12月6日午前10時、東京湾を出発する第60号西船団を護衛。続いて12月10日に第40号東船団を横須賀まで護送。12月19日、第49号東船団を護衛して横須賀を出港、今回は名古屋まで護衛を担当した。12月26日に第82号西船団を護衛して横須賀を出港、途中で切り上げ、帰路は第59号東船団を護衛して、12月28日横須賀へ帰投した。
1943年1月10日、勝浦灯台南方8海里で、対潜掃討中の駆逐艦沖風が米潜水艦トリガーの雷撃を受けて沈没。内地沿岸においても米潜水艦の被害が続々と寄せられるようになった。そのような状況下で駒橋は献身的に任務に臨む。
1月22日14時、西行きの第7122船団を護衛して横須賀を出港、尾鷲で護衛を切り上げて横須賀に帰投する。1月中の横鎮部隊の護衛実績は247隻に及んだという。2月7日には東行きの第8204船団を東京湾まで護衛し、次いで2月9日、東京湾を出発する西行きの第7209船団を護衛、尾鷲西方沖で護衛を切り上げて帰投した。
3月20日、「米機動部隊が中部太平洋で策動の算あり」との大本営情報に基づき、横須賀鎮守府と大湊警備府が警戒警報を発令、駒橋は警戒配置に就くが、結局何事も無く、3月22日に警戒解除となった。3月末には米機動部隊がハワイを出撃、同時に東方哨戒線付近の米潜水艦及び在支米軍の動きが活発化したとして、4月4日から9日まで敵襲を警戒。
4月12日、千代田丸と唐山丸からなる西行き第7412船団を護衛して東京湾を出港、尾鷲西方で分離して帰投し、4月16日に今度は第7416A船団と東京湾を出発、再び尾鷲沖西方で分離する。帰路は東行きの第8420A船団を東京湾に護送。休む間もなく、4月24日に西行き第7424船団と出発して尾鷲沖まで護衛、帰路は第8420A船団3隻を護衛、5月1日に東京湾まで戻った。
米潜水艦は本土近海航路に集まり、5月の発見報告件数は前月より約50%も増加した。このため大本営は5月22日から練習航空隊を対潜哨戒と船団護衛任務に投じている。
6月21日、2隻の輸送船で構成された第7621B船団とともに横須賀を出港。しかし同日深夜、大王埼12海里沖を航行しているところを米潜水艦ハーダーに発見され、翌22日23時50分に魚雷4本を発射、海軍徴用船第三共栄丸が被雷大破させられる。すかさず駒橋が9発の爆雷を投下するもハーダーには逃げられた。損傷の大きさから第三共栄丸は一時漂流する危機に見舞われたが、何とか曳航されて尾鷲湾まで逃げ込んでいる。
7月12日、第7712船団(新形丸、山桐丸)を護衛して東京湾を出港。今回の護衛には第42号駆潜艇が協力した。速力13.5ノットで進み、目的地の四日市と名古屋に、それぞれ護送して任務を完遂する。
9月17日、神戸行きの船団を護衛して東京湾を出発。天候不良の影響で、9月19日13時に勝浦湾への退避を強いられた上、同日16時10分、潮岬灯台沖6.5海里にて再びハーダーの雷撃を受け、魚雷2本が命中して加智山丸が沈没させられてしまう。駒橋は爆雷24個を4回に分けて投下してハーダーを追い払った。22時、和歌浦に避泊。
11月の被害は9月の被害を大幅に上回る69隻(29万トン)にも及んだ。
1944年1月16日、本州南岸における船舶被害増大を鑑み、東京湾・紀伊水道間の海上交通路保護する目的で、尾鷲に本拠を置く第3海上護衛隊が新編され、大阪警備府に司令部を設置、司令官には中村元司少将が着任した。駒橋は敷設艇成生、第14号駆潜艇、第46号哨戒艇、第26掃海隊を率いる熊野灘部隊の旗艦となり、以降は尾鷲で指揮艦を務める。
また増大する敵機の脅威に備え、兵装を8cm単装高角砲1門、25mm三連装機銃2基、7.7mm単装機銃2基、三八式小銃28丁、拳銃12丁に増備。
米潜水艦の発見報告が出るたびに串本航空隊や特設艦船が迎撃に急行。第3海上護衛隊の献身的な任務遂行のおかげで、10月中は44個船団(180隻)を護衛、敵潜の犠牲となった船舶はゼロに抑えられた。だが翌月は護衛対象が116個船団(233隻)と一挙に増大し、3隻撃沈の被害を出す。それでも「東京湾大阪湾間通航艦船は(中略)当隊艦艇航空機の強力なる威力圏内を通航せしむるを絶対有利と認む」と戦時日誌に綴られるほど高い対潜効果はあったようだ。
12月7日13時35分に尾鷲沖を震源とする東南海地震が発生。尾鷲市ではマグニチュード8.0が観測された。地震発生から5~10分の間に海水がじわじわと膨れ始め、50m沖合いの海底が露出するほど波が引いた後、5m以上の津波が堤防を乗り越えて尾鷲湾に雪崩れ込む。
駒橋では既に錨を打ち込んでいたが、自然の猛威の前では全く役に立たず、14時2分の第一波に錨ごと押し流されて国市の浜へ乗り上げ、第二波で更に浜辺へと押し付けられた。しかし幸運にも錨鎖が千切れたため湾の南南東方向に向かって退避を開始。14時45分に第三波が、15時10分に第四波の津波が湾内に到達、15時45分の第五波は堤防が隠れるほどの大波にならなかったものの、16時25分の第六波は再び堤防を乗り越えて湾内に押し寄せた。
第六波を最後に強い津波は途絶、手酷く傷つけられながらも駒橋は生き残った。目撃者の証言によると船腹に大きな穴を開けて傾きながら座礁していたという。また、駒橋乗艦の大尉が津波の到達時刻と波の高さを細かく証言しており、東南海地震の津波被害を調べる上で、とても重要な資料となっている。
地震そのものに対する被害は皆無だったが、津波の被害が壊滅的で、尾鷲市は死者65名、漁船流失42隻(その他消息不明の定時漁船多数)、全壊及び流失家屋604棟、半壊家屋139棟を出した。12月8日に横須賀を出発し、瀬戸内海西部へ向かっていた駆逐艦桜が、尾鷲沖で屋根や流木が大量に浮いているのを目撃している。東南海地震の被害により熊野灘部隊の司令部も山の中腹にこしらえた防空壕から尾鷲小学校へと移動した。
1945年3月における第3海上護衛隊の護衛実績は44船団64隻だった。駒橋率いる熊野灘部隊の戦力は第4号、第14号駆潜艇を除いて、漁船や民間船を改造した特設艦船で占められており、徐々に装備が進んているとはいえ、水測装備を持たない特設艦船も見受けられた。駒橋は指揮下の船舶に対して護衛命令や、出港時刻及び入港先の指示等を出して部隊全体を動かし続ける。
4月7日、尾鷲市に対する最初の空襲が行われ、海岸沿いに11発の爆弾が投下されたものの、幸い駒橋に被害は出なかった。4月15日、B-29による機雷投下作戦の激化に伴って第3海上護衛隊は解隊。本州南岸航路が実質閉鎖に追いやられ、代わりに日本海を通る北方迂回路が使用されるようになったので、守るべき船団がいなくなってしまった事も解隊の一因と思われる。
5月7日、尾鷲港に震洋60隻、海龍24隻、回天4基からなる横須賀鎮守府部隊西部海面防備部隊熊野灘部隊(第4特攻戦隊)を新編して旗艦となる。
6月1日、敵大型機並びに小型機来襲の公算大として熊野灘部隊へ向けて第二警戒配備を発令。次いで合戦準備・戦闘用意の号令を出す。6月5日、未明出港の漁船10隻を勝浦まで護衛するよう第1京仁丸、第18播州丸、第57号駆潜特務艇に命じ、6月10日に磁気機雷投下の疑いがある九木浦へは当分立ち入らないよう警告を出した。6月18日午前0時40分、駒橋は四日市上空に向かうB-29爆撃機の編隊を発見し、第二警戒配備を発令。しばらく敵大型機の通過が確認されたものの、いずれも尾鷲への攻撃は行わなかった。6月28日16時8分には南伊勢町の五箇所湾沖20km圏内に敵機が機雷を敷設したと注意を促している。
7月9日午前11時50分、第4特攻戦隊司令部は大中小混合の敵機が接近中として第一警戒配備を発令、駒橋を通じて各船舶に伝達され、一時的に伊勢湾内の往来船舶が途絶。7月14日には敵機動部隊が鳥島近海で活動中との報告が入って第二警戒配備甲へ移行。7月21日、敵機動部隊が関東の東北海域を遊弋中という情報が入り、伊勢湾方面に警戒配備が出続けるなど、いつ攻撃を受けるか分からない緊迫した雰囲気が場を支配する。
7月25日午前6時頃、第38任務部隊から発進してきた敵機12機が尾鷲上空に現れ、それぞれ獲物になりそうな艦船を攻撃、三野瀬駅に停車していた上下線の2列車も機銃掃射を浴びせられて、尾鷲市だけで60名の死傷者を出した。14時57分に敵機が引き揚げて空襲は終了。辛くも駒橋は生き残る。
第4特攻戦隊司令部は再び空襲があるものと考え、翌朝午前4時30分より警戒を厳重にすべしと通告するとともに、対空射撃の命中率を上げるため25mm機銃の場合は1500m以内、13mm機銃の場合は1000m以内まで引き付けてから発砲するよう推奨。弾薬の空費を避ける目的で無用な追撃も禁じた。また空襲の被害を最小限に留めるべく特攻基地派遣隊の消火訓練充実を命じている。
1945年7月28日朝、瀬木山防空監視哨より「国籍不明のコルセア12機が佐波留島と桃頭島の間から尾鷲湾に向かって飛来」との報告が司令部の尾鷲小学校に届いた。当時尾鷲湾の国市には駒橋が、古里海岸には第45号海防艦が、湾内に第14号駆潜艇が、港外に徴用船第2京仁丸と第18播州丸が、須賀利湾に第1京仁丸と第10昭和丸が停泊しており、コルセアの襲撃に備えて対空戦闘の準備を整える。
間もなくグラマンの6機編成が佐波留島上空に出現、橡山上空で左旋回したのち尾鷲の市街地方面から攻撃を開始し、市内に防空警報のサイレンが鳴り響く。このうち3機が尾鷲港に、残りの3機が須賀利湾の在泊艦艇に襲い掛かった。午前6時5分に後続の敵機二十数機が出現。
第一次攻撃は午前7時15分に終了したが、敵は30分間隔で波状攻撃を仕掛け、特に旗艦の駒橋を狙って集中的に驟雨の如き機銃弾と凄まじい数のロケット弾が撃ち込まれる。午前8時5分、空襲の間隙を突いて「疎開錨泊をなせ」と各船舶に命令し、第2京仁丸や第10昭和丸が疎開を開始、これ以降駒橋からの無線通信が途絶する。
午前10時半頃、水測室がロケット弾の直撃を受け、配置当直者全員が即死する大打撃を受けるとともに、破孔からの浸水で急激に艦体が沈下したため、機関出力を絞りながら湾の中心地から移動を開始。その間にもヘルキャット2機が駒橋に空対地ロケット弾を撃ち込んで来た。が、日本側の対空砲火も凄まじく、上空300mから急降下中だったハンコック所属バトル少尉機の主翼、エンジン、エンジンカバーを撃ち抜き、母艦への帰投を強いている。間もなく駒橋は沈没を避ける目的で国市の浜に自ら乗り上げて擱座した。外部から見るとそんなに損傷していないように見えたらしく、午前11時45分に第18播州丸が「無線連絡無きも駒橋に異状なきや」と報告している。
擱座した後も敵機の攻撃は続いた。13時過ぎ、新たな編隊が尾鷲湾上空に出現、ブリーン大尉機が駒橋に向かって急降下爆撃を行い、うち2発が両舷側にそれぞれ命中して内火艇1隻を吹き飛ばす。その僅か5分後に第二波が襲来するも、駒橋から放たれた対空砲火に阻まれ、これ以上の被害は与えられなかった。次いで「総員上甲板」の号令が発せられ、力ある者は海に飛び込んで救助のカッターに収容された。
尾鷲湾で有力な艦艇だった駒橋、第45号海防艦、第14号駆潜艇の3隻はいずれも沈没を避けるため浜辺へ擱座。事実上熊野灘部隊はその戦闘能力を喪失したのだった。空襲は16時頃に終了、港内の船舶から被害状況が続々と寄せられた。後日の調査で駒橋には828ヵ所の損傷が認められている。
7月29日より駒橋は1隻だけ残ったカッターを降ろして遺体を回収。この時に駒橋の艦首から菊の御紋が外されたという。尾鷲小学校を臨時の野戦病院にして負傷者の治療に当たるも、物資不足の影響で充分な治療が出来ず熊野灘部隊147名が死亡。戦死者の多くが市内の火葬場では対処出来なかった上、火葬時の煙で敵機を引き付ける危険性から、数km離れた矢所で荼毘に付された。このうち遺族に分骨されたのは三十余柱程度だったという。
7月30日早朝にも敵艦上機が尾鷲に襲来し、午前6時30分に熊野灘部隊司令部が駒橋と第10昭和丸に宛てて「艦載機来襲中につき警戒を厳重になせ」と命じている。8月1日に行動不能艦を意味する第4予備艦に指定。これに伴って大野艦長が駒橋より退艦した。
そして大破擱座状態で8月15日の終戦を迎えた。11月30日除籍。
1948年9月20日に浮揚されて名古屋に回航。1949年夏頃、海上保安庁の巡視船に転用する案があったようだが、調査の結果、9月10日に老朽化による性能低下が著しいとして不適と判断、年内に解体工事が完了した。駒橋に取り付けられていた菊の御紋は尾鷲市の曹洞宗金剛寺に保管された。
毎年7月28日には戦死者147名を弔う慰霊祭が尾鷲市天満浦の古里海岸で営まれ、矢所と白石墓地には戦死者と駒橋ら沈没艦を弔う慰霊碑が建立されるなど、悲劇と激闘を後世に伝え続ける。ちなみに慰霊碑では何故か海防艦扱いになっている。
測量艦として長く活動していた駒橋は、未発見の海底火山を幾つか見つけ出す功績を挙げている。駒橋の測量活動によって日本海溝以東の調査が飛躍的に進んだ。
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