そのひと走りひと走りに、偉大なる名血の片鱗をターフに散りばめた豪傑がいた。
マルゼンスキー。
八戦全勝という無敗の成績が物語る通り、他をはるかに圧倒する強さが余りに印象的だ。
卓越した瞬発力と比類なきスピード。それは英国三冠馬に輝く父ニジンスキーへ
脈々と続いてきたネアルコ血脈、その真の後継者の証しでさえあった。
マルゼンスキーとは、1974年生まれの日本の競走馬、種牡馬であったサラブレッドである。愛称は1970年代後半のブームを反映した「スーパーカー」。
主な勝ち鞍
1976年:朝日杯3歳ステークス
1977年:日本短波賞
この記事では実在の競走馬について記述しています。 この馬を元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては 「マルゼンスキー(ウマ娘)」を参照してください。 |
概要
戦績は8戦8勝。生涯無敗で現役を終え、今なお日本競馬界での歴代最強馬の一角と言われる事も少なくない。
勝利の中に重賞が2つ(府中3歳Sは、後に重賞に格上げ)含まれる。
無敗とは言え重賞は2勝と戦績だけ見るとやや地味に感じられがちだが、全レースの2着との合計着差が61馬身という勝ちっぷり。そして後述するレースのフィクションじみたぶっ飛んだ内容から推察すれば、競走馬としての能力がずば抜けていたことは疑いようもない事実だろう。
また、マルゼンスキーがあまりに強かったためマルゼンスキーが出走を決めたレースを回避・キャンセルする馬が続出、中にはほとんどの馬が回避してしまいレース自体が不成立とになった事もある。
その証拠に、マルゼンスキーが出走したレースは全てで出走頭数10頭未満であった。
競走馬として
父は1970年のイギリスクラシック三冠馬ニジンスキー。マルゼンスキーは3世代目の産駒で種付け時にはまだ産駒はデビューしていなかったが、この時点で当然種牡馬としての期待も高くそれに応えて世界的大種牡馬になる。母はシル。母の父はこれも世界的大種牡馬にして、後にその娘がニジンスキーと非常に相性の良いニックス配合と言われたバックパサー。母の母クィルは1958年の米国最優秀2歳牝馬で3歳になっても大活躍を続けた名牝と、血統表のどこをとってもスキのない当時の世界最高水準といっていい超良血である。
この時点で既に、時代背景的な意味で大きな格差が生じている。血統が全てではないが、ノーザンテーストが日本にやってきたのは1975年。その初年度産駒が産まれるかどうかという日本でのノーザンダンサー系黎明期に、いきなりこんな良血馬が日本のターフで走る事になるのである。嫌な予感しかしない。
馬主兼生産者は、スケート&自転車の五輪競技で7度のオリンピック出場・参議院議員・日本スケート連盟会長・東京五輪担当大臣・東京五輪パラリンピック組織委員長などを歴任した橋本聖子氏の父親である橋本善吉氏。母シルが後のマルゼンスキーを妊娠した状態で上場されたアメリカのセリにおいて「こんなすばらしい馬は見たことが無い」と驚き、血統の良さも相まって値段は高騰するもなんとか落札に成功する。この話で面白いのは、そもそも橋本氏がシルを購入するまでの経緯が何重もの偶然を重ねたものだったことにある。
- そもそも橋本氏はアメリカになんか行くつもりはまるでなかった……のだが、軽種馬農協が企画していたアメリカ視察研修ツアーに欠員が出てしまう。人数が揃わないとツアーそのものがキャンセルになりその際農協が旅行会社に支払うキャンセル料が馬鹿にならない(当時は海外旅行は現代とは比較にならない高嶺の花でもあった)。そこで橋本氏が「俺パスポート持ってるし行ってもいいよ」と助け舟を出した。橋本氏は牛の仲買人として日米両国の業界で有名な人物であり、早来町(現・安平町)の橋本牧場で牛の生産と育成も営んでいた。その余業としてばんえい競馬にも用いる重種の農耕馬も生産していたが、サラブレッドなどの競走に用いる軽種馬の生産はしていなかった。したがって本来であれば、軽種馬の研修に参加してもただの賑やかしでしかないのだが、橋本氏には競走馬の生産もしてみたいという希望が以前からあり、これは好機だった。
- ツアーの訪問先には競走馬のセリで有名なキーンランドがあり、このときは繁殖牝馬のセリが開催されていた。ツアーではこのセリは希望者のみ参加のオプションであったが、橋本氏はこれもなにかの巡り合わせだろうと、ろくろくカタログの下調べもしないままセリの会場に行ってみた。その会場で偶然、JRAの調教師・本郷重彦師と知り合う(本郷調教師はこの後マルゼンスキーを管理することになる)。
- 橋本氏は「種に関わらず、骨盤が発達した女性はいい子供を産む」という論を持っていた。そしてキーンランドでまさに自らの論に合致する牝馬に出会う。一緒に渡米しセリにも同行していた夫人に対し「若い頃の母ちゃんみたいな身体だよ」と惚気けたともいう(繰り返しになるが夫人は橋本聖子の母上である)。「よしこの馬を買うぞ」と決めたあとで、同行していた通訳から受胎中の子馬も含めたその牝馬=シルの華麗な背景を教えられるのだが、これが「予備知識ゼロで馬を評価した自分の観察眼」を知識で上書きされたような気分にさせて橋本氏のプライドをいたく傷つけ(※)、その反動で「いくらになっても絶対競り落とす」と決意させた。もし血統背景を知らずにセリに参加していたら、釣り上がる金額に驚いて早々に降りていたかもしれない。それでもあまりの高額に最後の方ではさすがに降りようかとも思ったそうだが、それを「欲しいなら買いなさい」と支えたのは夫人であった。(※このあたりの感情は人によって様々と思われる。橋本氏とは逆にそういった事実を伝えられることで自らのカンの鋭さを誇る人もいるだろう。動物を見る目が皆無の人でも血統背景を知れば高いカネを惜しまず落札しようとするのは当然のことであり、長年にわたり牛の良し悪しを自分の目で見極め続けて成功した牧場主として、そのような人間と一緒にしてほしくはなかったのでは、と推察される)
落札価格はこのセールで上から3番めとなる30万ドルであった。1973年秋当時のおおよその米ドル相場は1ドル=280円であり、8400万円相当ということになる。これに米国内の諸税・購買手数料・日本への輸送料・貨物保険料・輸入時の関税などを加えた総費用は1億2000万円に達した(昭和48年の1億2000万円は現在の3億1000万円)。
アメリカの牛業界でも有名な人物だった橋本氏が、牛ではなく高額の馬を購買したことは、牛業界の人間の目には奇行に映ったという。当時日本人はイギリスを始めとした海外から良血馬を買い漁っていたが(生涯に渡って競馬を熱愛したエリザベス2世も、外遊中イギリスを訪れた田中角栄首相に苦言を呈したほどであった)、アメリカの競馬人が『これだけの馬を日本の牛商人が買って太平洋の向こうへ連れて行く』という行為をどう思ったかはわからない。
ニジンスキーの直仔として持ち込み馬(母親が海外で交配・妊娠してから来日して生まれた仔馬)の立場で走り始めたマルゼンスキーだが、前脚が極端に外を向いている状態(=外向)で生まれてしまったためいつ故障するかわからない、いわば爆弾を抱えたままデビューすることになった。とはいえ、これだけ抜群の良血馬である。デビュー前どころか生まれた直後から競馬界の注目は大きく、1974年秋の週刊競馬ブックでは橋本牧場訪問取材記が企画され、すでに「マルゼンスキー」という馬名がつけられていた当歳時の彼の写真が掲載されるほどであった。また、シルのセリには社台ファームの吉田善哉氏も参加しており、落札には失敗したもののやはりマルゼンスキーのことは気になっていたようである。だが同じ早来町の牧場とはいえ育てるのが牛と馬で全然違う以上訪問する合理的な理由が無いため、わざわざ「庭を見に来た」と口実をつけてマルゼンスキーの様子を見に来たこともあったという。
前述したようにマルゼンスキーはその脚の形態から常に力をセーブしなければならず、満足のいく調教ができなかった。しかしそのような関係者の心配とは裏腹に、マルゼンスキーは新馬戦から圧勝を続ける。持って生まれたスピードが違うためか、普通にレースに走るだけでスタートから周りの馬がついてこられず、結果として「逃げるつもりはないのに逃げる形になって、そのまま悠々とゴール」というレースが繰り返されることとなった。
評価を高めたレース
競走馬としては実働期間約10ヶ月。そんな短い競走歴で引退を余儀なくされたマルゼンスキーが、それでも最強馬候補の一頭と挙げられるにいたる要因として、次の3つのレース(+出走に関するエピソード)が挙げられる。
1.朝日杯3歳ステークス(現:朝日杯フューチュリティステークス)
前走の府中3歳S(現:東京スポーツ杯2歳S)でヒシスピードをハナ差で下したマルゼンスキー陣営は、調教不足のため接戦に持ち込まれたという反省から、初めて(かつ生涯ただ一度だけ)目一杯の調教を積み体調を万全に整えた上で朝日杯3歳S(現:朝日杯FS)に臨むことになった(もっとも、故障のリスクなども鑑み通常は6割程度のところを8割程度で仕上げたらしい)。
そして当日のレース。マルゼンスキーはスタートからすぐに先頭を奪うと、4コーナーまでヒシスピード以外は全くついていけないほどの高速ラップを刻んでいく。それどころか直線ではさらに他の5頭を突き放す一方となり、ゴール地点では2.2秒の着差(13馬身以上の大差勝ち)、レースレコードを1秒以上短縮する1.34.4というレコードタイムを叩き出した。とんでもない大楽勝劇である。
なお、2着に入ったヒシスピードも3着に3馬身半という大きな着差をつけており、マルゼンスキーを抜きにして考えれば、この馬が快勝という形で3歳(現2歳)チャンピオンに輝いていたレース内容であった。マルゼンスキーは、そういったライバル達の遥か前方でゴールを駆け抜けてしまったのである。
しかもこの時鞍上の中野渡騎手はムチを入れておらず、レース後に「本気で追ったら、あとふたつ(=2秒)は縮まったはず」とまで言っている。当時の馬場は現在より2秒以上時計がかかる状態だったので現在の中山競馬場で走ったとしたら1.30.0を切る計算になる。なんだそれ。
当時はまだグレード制は導入されておらず、厳密にはGIでは無かった。とは言え、関東所属馬の3歳(現2歳)がその時点での世代王者を決めるレース(関西で行われていたのは阪神3歳S。現在の阪神ジュベナイルフィリーズだが、当時は牡牝混合戦だった)であった事には間違いなく、そのような大レースでレース中継のカメラが思いっきり引いて撮らないと後続の馬がカメラ内に入りきらないというレースぶりは、見ている者にも競馬関係者にも衝撃的な光景であった。ありえん。
2.強者、それゆえの孤立
しかし、この朝日杯の圧勝はマルゼンスキーに一つの難問を突きつけることになった。これより先、明らかに出走馬が集まらなくなっていくのである。
なぜそんな事態になったのか……日本競馬には「勝ち負けを度外視した、馬の能力に合わぬ過密な出走スケジュール」を防ぐ意味合いでタイムオーバーという制度がある。
現在は若干条件が違うが、マルゼンスキーが走っていた当時は重賞以外のレースで芝で4秒、ダートで5秒以上、一着の馬より離されてゴールした場合、罰金と一ヶ月の出走停止が課されるというものであった。
朝日杯3歳Sは重賞であったので、罰則は課されなかったものの、下位入選した馬がタイムオーバー相当の着差をつけられていたのが問題となった。すなわち、『朝日杯3歳Sに出走できるレベルの馬でさえ、マルゼンスキーに本気を出されるとタイムオーバーとなってしまう』と認識した調教師たちが、マルゼンスキーが出走してくるとわかると相次いで出走回避を申し出るようになっていく。
これを弱気と笑うなかれ。3歳秋から4歳春という時期は、クラシックを目指す馬主・調教師にとって、距離適性を見極めつつ、実績・賞金を積み重ねるために非常に重要な時期である。そんな時に、しっかり馬のレベルを考慮して出走レースを選んでいるのに、飛び抜けた実力の馬一頭のせいでタイムオーバーとされ一か月の出走停止……などの処分を課されれば、その後のクラシックを目指すスケジュールが大幅に狂いかねない。マルゼンスキーから自己の馬を護る、というのは当時の他陣営にとって切実な命題だったのだ。
この姿勢がまず標的となったのは、年が明けて4歳緒戦の中京オープンレース。当初は登録馬がマルゼンスキーを含めて3頭しか集まらず、レース不成立の目算が高まった。
だが、関西の名調教師・服部正利氏が「マルゼンスキーを関西に迎えて、レース不成立とさせるわけにはいかない」と、管理馬の馬主たちに了解を取り付け、2頭を出走させることで何とかレース成立させる運びとなった。
レースが無事開催される事が決定したのち、服部氏は、中野渡騎手、本郷調教師に対し「マルゼンスキーのチカラが他馬と大きく違っているのはわかっている。ただ、レースに使う事を承諾してくれた馬主の方に迷惑をかけないためにも、何とかタイムオーバーになるような大差はつけないでもらえないだろうか」と願い出た事は有名なエピソードとして残されている。
……冷静に考えれば、公営ギャンブルの性質を考えると、かなり危ない発言にも聞こえる。これでもし、中野渡騎手が手加減した騎乗を行い下位に敗れる事があれば、一番人気に支持されるであろうマルゼンスキーの馬券関係でのちのち大問題となっていた恐れがある。
とはいえ「興行不成立を避けたい」「勝てる見込みが薄い事を承知で、出走OKを出してくれた馬主たちの恩義にも応えたい」という板挟みの状況で、思わずこのような言葉が吐露されたのだと考えれば、服部調教師の立場の難しさも理解できるだろうか。
上記の中京オープンでは辛うじてレース成立となったが、その後、ついにマルゼンスキー陣営が抱いていた憂慮は現実のものとなった。
5月末の東京開催で、マルゼンスキーが登録していたオープンレースが、最終的に4頭しか集まらずレース不成立が発表された。
海外での競馬黎明期でこのようなケースがしばしばあったと伝えられるが、戦後の日本の近代競馬で「ただ一頭の馬の出走するか否かが原因」でこのような事が起こったのは非常にまれな、一種の事件といっていいだろう。
“持ち込み馬”として出られるレースが限られる中で、それでも集まらぬ対戦相手―――マルゼンスキーは、レーススケジュールを組む難しさを内外に示しながら、下記の日本短波賞に照準を合わせる事となった。
3.日本短波賞(現:ラジオNIKKEI賞) ※当時は中山競馬場で開催
このレースでもマルゼンスキーはスタート直後から一気に加速し、向こう正面では8馬身以上の大きなリードを作っていた。しかし3コーナーの手前で突然失速、後続の馬たちが猛追する中レース前半に作った大差リードを全部吐き出してしまう。故障発生を予感させる不自然な減速に実況のアナウンサーも思わず「なんか止まった!」と叫んだが、マルゼンスキーは後続馬に並びかけられた瞬間再加速し、4コーナー出口からは突き放すのみ。終わってみれば7馬身差の、いつも通りの圧勝だった。
これはレース前の返し馬(ウォーミングアップ)の際、鞍上の中野渡騎手が4コーナー付近で一度止まり馬場状態を確認した事をマルゼンスキーが覚えていて、レース中も同じ位置で自発的に止まろうとしたとも言われている。
この時の2着馬が後の京都新聞杯・菊花賞をレコードタイムで制したプレストウコウであったこと、『ペース配分がどうなろうと、自分が加速したい時に加速すればそれだけで後続を突き放してゴールできる』事実を突きつけたこと、さらに一般の馬にとってキレ・瞬発力が減殺される不良馬場(前夜までの大雨で芝の内側にあるダートコースに水が浮いていたほど極度に悪化した馬場状態だった)の中でそのような芸当を見せたことから、「同世代相手なら遊んで勝ててしまう」とまで言われた。またもやありえん。
このレースは、(予想家としてはイマイチだが)競馬関連のデータにおいては日本屈指の知識を持つ井崎脩五郎氏をして「日本競馬史上唯一、重賞を遊んで大楽勝した馬」と言わしめ、井崎氏が考える歴代最強馬候補の1頭に挙げる理由となっている。
4.短距離ステークス
結果として生涯最後のレースとなったこのレースは、ダートの1200mであった。
デビュー以来初めてのダート戦、同じく初めての古馬との混合戦。そんな不安視される条件が揃う中、マルゼンスキーはここでも10馬身差の圧勝を収めた。
本来ダートは芝のレースより速度差がつきにくく、さらに当レースは古馬とのオープン戦であるため、古馬の中からダートの実力馬が出てくる以上、4歳(現3歳)馬にとっては年齢的な不利もあり、着差がハデに開く事は考えにくい。またこのレースでは、前述した同世代のヒシスピード(この時点で重賞3勝、またマルゼンスキーに先んじて古馬を相手にダートで勝利を収めダート適性をも示していた)、芝・ダート不問の走りを見せ生涯で重賞6勝を挙げた古馬の実力馬・ヤマブキオー、札幌ダートだけで4勝し翌年のこの短距離Sも制するなど『札幌・ダート』で特に好成績を残したヨシオカザンなどが出走しており、決してレベルが低いメンバーだったわけではない。
※その証拠にというべきか、この時2着したヒシスピードは前年のこのレースの勝ちタイムを上回るタイムで走破している。
しかも1200mというスプリント戦である以上、常識的に考えればレース全体の距離として大差リードを作るための物理的余裕も無いと思われるレースでもあった。
実際、当時よりスピード化が増している現在でも「『ダート・1200m・中央の古馬オープン戦』で、古馬の重賞馬相手に、3歳馬が10馬身差で勝つ」などと言うと、多少競馬の知識があるファンなら「ご冗談を」「それなんてゲームの世界?」というような返答が返ってくるだろう。そんな常識を覆してしまうような走りを、マルゼンスキーはやってのけてしまったのである。やはりありえん。
「時代」という壁
しかし、マルゼンスキー誕生の少し前になる1971年、活馬(=生きた馬)の輸入が自由化。内国産馬や生産者の保護を図るため、従来内国産馬として扱われてきた持込馬は外国産馬と同様の扱いを受けるようになった。このためマルゼンスキーは、多くの主要レース(後にGIに指定されるようなレース)に出ることが叶わなかった。その中にはクラシック競走も含まれており、世代の代表を決するクラシック競走で同世代の馬と戦うマルゼンスキーを見ることはできなかったのである。
その境遇に按上の中野渡騎手は、
「28頭立ての大外枠でもいい。賞金もいらない。他の馬の邪魔もしない。だからマルゼンスキーを日本ダービーで走らせてくれ。そうすれば、どの馬が一番強いかわかる」
と周囲に漏らしたといわれる。
秋以降は有馬記念を目標に調整が続けられトップレベルの古馬との戦いを期待されたが、遂に脚の爆弾が限界を迎え故障を発生、やむなく引退に追い込まれた。この年の有馬記念はトウショウボーイとテンポイントがマッチレースを繰り広げたことで知られており、そこにマルゼンスキーが加わっていればどうなっていたか(特にこの年の有馬記念開催時の中山競馬場の馬場はすこぶる悪く、出走出来ていれば荒れ馬場特性の差からマルゼンスキーが勝っていたのではないか)という考察はしばしば行われた。
同世代の悲劇
本来競馬界で「同世代の悲劇」と表現されるものは、「実力があるのにライバル相手に勝ち切れず、ビッグタイトルに手が届かなかった馬」を指す事がほとんどである。 しかしマルゼンスキーの世代の馬たちは、別の形での「同世代の悲劇」を味わう事になった。
マルゼンスキーの77年世代クラシックレースは、皐月賞=ハードバージ、日本ダービー=ラッキールーラ、菊花賞=プレストウコウがそれぞれ制しているのだが、
・鮮烈なレースぶりにもかかわらずクラシックに出走できなかったマルゼンスキーへの同情論が根強かった。
・3頭の内のラッキールーラとプレストウコウが、マルゼンスキーに完敗したヒシスピード相手に二度に渡って敗れた(距離不適も一因だった)上、上記のようにプレストウコウはマルゼンスキーに直接完敗してしまったことから、この年のクラシックレース自体が「(マルゼンスキーの)敗者復活レース」と揶揄されるほどだった。
・上の世代がいわゆる華やかなTTG三強世代であり、ハードバージ以下の活躍が余計にその陰に隠れてしまった。
と、上記の3頭はクラシックレースに勝利していながら(特にプレストウコウは、『芦毛の馬は大レースで勝てない』というジンクスを覆し、芦毛馬で初のクラシック制覇の快挙を成し、最優秀四歳牡馬に選出された栄誉を勝ち取っている)、他になかなか例を挙げられないほど低い評価に留まってしまった。
悲劇はそれだけに留まらず、彼らの低評価は引退後もついてまわった。常にマルゼンスキーと比較され続ける中、良質な肌馬が揃わず種付け頭数は低迷を続け、次々に種牡馬として見切りをつけられてしまう。ラッキールーラとプレストウコウは韓国に輸出される事で一応種牡馬生活は続いたが、 ハードバージの種牡馬引退後のあまりに悲惨過ぎる末路は新聞記事で取り上げられたほどであった。ただしその末路はただ無意味だったわけではなく、競馬界への競走馬保護への批判のうねりへと繋がり、後に大レースを制した馬の養老施設や引退後の助成システムが生みだされる契機となっている。
このように(マルゼンスキーに罪は無いのだが)、この世代は勝利の栄冠を手にしたにも関わらず悲劇的な評価を被ったとして、マルゼンスキーとは別の形の不運を背負った世代として記憶されている。まぁ、この世代の過小評価の要因として『一つ上がTTG世代』と言うチート軍団(特に、世代最強と謳われるトウショウボーイは、中距離に関してならマルゼンスキーと同等以上とも言われる怪物)だったと言う部分もあるので、単純にマルゼンスキーだけの責任とは言い切れない部分もあるのは留意してもらいたい所ではある。
種牡馬として
種牡馬としても
ニシノスキー(朝日杯3歳S)
サクラチヨノオー(朝日杯3歳S・日本ダービー)
スズカコバン(宝塚記念)
ホリスキー(菊花賞)
レオダーバン(菊花賞)
ダイカツストーム(中山大障害)
サクラトウコウ(重賞3勝・種牡馬としてGⅠ馬を輩出)
など数々のGⅠ馬・重賞馬を輩出。特にサクラチヨノオーは自身の出走が叶わなかった日本ダービーを制覇し、見事父の無念を晴らした。
また、母の父としてもライスシャワー・ウイニングチケット・メジロブライト・スペシャルウィーク・サクラプレジデント・ロイヤルタッチ・ボンネビルレコードといった活躍馬を多数輩出し、BMSリーディングでも10年以上上位に入り続ける成績を上げた。
孫世代になると、ホリスキー・サクラチヨノオー産駒が重賞勝ち馬を複数輩出し、スズカコバン産駒は道営競馬などダートを中心に活躍。中でもサクラトウコウ産駒のネーハイシーザーは天皇賞(秋)を制覇し、孫世代からもGⅠ馬を誕生させりるなど種牡馬の父としても能力も見せた。
産駒はマイルから中距離で活躍した馬が多いが、父としてホリスキー・レオダーバンを、母の父としてライスシャワー・メジロブライト・スペシャルウィークを出したように豊富なスタミナも伝えた。一方で脚の弱さも伝えてしまっており、怪我によって順調さを欠いた馬は多い。
1997年8月21日、放牧中に突如いなないて倒れ、そのまま死亡した。23歳だった。橋本氏は、マルゼンスキーを自らの次男(橋本氏自身には末子の聖子含め4人の子がいた)として弔い、死の3日後にシルや聖子の他、多数の関係者が参列した葬儀が行われ、スケートや自転車競技の選手として名を馳せていた「姉」・聖子は「弟」の棺に世界選手権の金メダルを入れたという。なんでも、本来ならば格の高いアルベールビルオリンピックで勝ち取った銅メダルでは、無敗、つまり「金メダルしかとることのなかった」弟に失礼だからだという。遺骸は橋本牧場に眠り、兄姉や自らの子孫の活躍を見つめている。
現在(2021年6月時点)父系としての子孫はクラグオーのみであり、年間種付け数も1~2頭と勢力は非常に小さな物になってしまったが、産駒のクレモナが地方重賞ののじぎく賞を制すなど、活力は決して衰えていない。祖父スズカコバン・父クラキングオーに続き、クラグオー産駒のダート路線の活躍とその血がさらに代々繋がる事を期待したい。
引退後の評価
古馬との対決がほとんど無かった事、走ったレースが全て1800m以下であった事から、そのスピードが古馬のG1に多い2000mを超える主要なレースで発揮されたかどうかは疑問が残る。
とは言え、圧勝に次ぐ圧勝でスピード能力が非常に高い事を示した事、実際にどのレースもタイムとしては当時のレベルとして圧倒的に優秀だった事から、長距離はともかく中距離以下では間違いなく超一級の実力を持っていたというところで衆目は一致している。
あまりの強さと人気ぶりに馬産地ではニジンスキーブームが到来、マルゼンスキー自身の種牡馬人気はもちろんのこと、代用種牡馬の人気も沸騰した。代表格はヤマニンスキーとラシアンルーブルで、ヤマニンスキーは皐月賞&天皇賞(秋)優勝馬・ヤエノムテキやオークス優勝馬・ライトカラー、父や母父に加えて母母父までマルゼンスキーと血統が同じというラシアンルーブルはオークス優勝馬・イソノルーブルを誕生させている。
なお、マルゼンスキーが被った持込馬ゆえの一連の規制については、マルゼンスキーの現役時代から以前より注目されるとともに疑問の声が高まっていき、次第に規制改訂へ動き出す事になった。そしてマルゼンスキー引退から数年後、クラシックレース他、多くの重賞参加への門が持ち込み馬に対して開かれたのである。また上にもある通り、結果的にはマルゼンスキーの影響により、これまで全く顧みられてこなかった引退馬への養老助成等も次第に充実していった。このように、マルゼンスキーが競馬界のシステムについて一石を投じ、そしてその流れを変えた事は、競馬界全体において決して小さくない功績だったと言えよう。
「さようなら マルゼンスキー
語り継ごう おまえの強さを」
引退式の時にファンが用意した横断幕にはこう書かれていた。マルゼンスキーを讃える有名な一文である。
※当時、引退式にまで横断幕が作られる事はほとんど無かった。それだけマルゼンスキーの早期引退を惜しむ声が高かった、といえるエピソードである。
血統表
Nijinsky II 1967 鹿毛 |
Northern Dancer 1961 鹿毛 |
Nearctic | Nearco |
Lady Angela | |||
Natalma | Native Dancer | ||
Almahmoud | |||
Flaming Page 1959 鹿毛 |
Bull Page | Bull Lea | |
Our Page | |||
Flaring Top | Menow | ||
Flaming Top | |||
*シル 1970 鹿毛 FNo.5-g |
Buckpasser 1963 鹿毛 |
Tom Fool | Menow |
Gaga | |||
Busanda | War Admiral | ||
Businesslike | |||
Quill 1956 栗毛 |
Princequillo | Prince Rose | |
Cosquilla | |||
Quick Touch | Count Fleet | ||
Alms | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Menow 4×4(12.50%)、Bull Dog 5×5(6.25%)、Blue Larkspur 5×5(6.25%)
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
- 競馬
- 競走馬の一覧
- 1977年クラシック世代
- チート
- バケモノ
- ニジンスキー
- ヤマニンスキー
- 主な産駒
- シアトルスルー(同年齢のアメリカ三冠馬。「もしマルゼンスキーがそのままアメリカで生まれていたら彼の三冠はなかったかも」と日本の競馬関係者が想像していた)
JRA顕彰馬 | |
クモハタ - セントライト - クリフジ - トキツカゼ - トサミドリ - トキノミノル - メイヂヒカリ - ハクチカラ - セイユウ - コダマ - シンザン - スピードシンボリ - タケシバオー - グランドマーチス - ハイセイコー - トウショウボーイ - テンポイント - マルゼンスキー - ミスターシービー - シンボリルドルフ - メジロラモーヌ - オグリキャップ - メジロマックイーン - トウカイテイオー - ナリタブライアン - タイキシャトル - エルコンドルパサー - テイエムオペラオー - キングカメハメハ - ディープインパクト - ウオッカ - オルフェーヴル - ロードカナロア - ジェンティルドンナ - キタサンブラック - アーモンドアイ - コントレイル |
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