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ジムライトル
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ジム・ライトルJames Lawrence Lyttle Jr.)とは、元プロ野球選手である。

概要

1946年5月20日生まれ。アメリカ合衆国ハイオ州ハミルトン出身。

1966年MLBドラフト1巡(全体10位名)でニューヨーク・ヤンキース契約

1969年メジャー初昇格。同年は28試合に出場した。1970年、87試合に出場して打率.310、3本塁打マーク。ただその後はメジャーリーグマイナーリーグを行き来するような生活となる。1972年からはシカゴ・ホワイトソックス1973年からはモントリオール・エクスポズ1976年からはロサンゼルス・ドジャースプレーするなど複数チームを転々としたが、いずれのチームでもレギュラーに定着することはできなかった。

1977年広島東洋カープに入団。とき同じくして入団したエイドリアン・ギャレットとともに、前年限りで退団したゲイル・ホプキンスシェーンの埋めを期待されての入団であった。

加入初年度の1977年山本浩二衣笠祥雄とともにクリーンナップの一として開幕から活躍。チームは5位に沈んだが、ライトルは打率.301、19本塁打、65打点マーク

1978年打率こそ.296と前年よりわずかに下回ったが、33本塁打108打点本塁打打点の2部門では前年より数字を大きく伸ばした。また、肩の強さを活かした守備を評価され、ダイヤモンドグラブ賞を初受賞。同年から1981年まで4年連続で同賞を受賞している。

1979年打率.264、23本塁打、61打点マークし、セ・リーグ制覇・日本一に大きく貢献。

1980年打率.280、23本塁打、82打点マークし、セ・リーグ連覇に貢献。日本シリーズでは3本塁打を放ち、日本シリーズ連覇にも貢献、日本シリーズMVPにも選ばれた。

1981年セ・リーグ最多の157安打を放ち、打率.318、33本塁打100打点とキャリアハイの成績を残し、ベストナインにも初めて選ばれた。

1982年打率.270、24本塁打、75打点マーク。ただ、長く活躍したことで年俸も高騰したため、広島を退団。南海ホークスへ移籍することとなった。

南海では中軸を期待されたが、打率.258、11本塁打、38打点に終わり、1年限りで退団。そのまま現役を引退した。

引退後はフロリダの大学導者として活動。

現在ゴルフ場に勤務し、芝の整備や調整をする仕事をこなしているという。

人物・エピソード

パワフルな打撃と強肩を生かした守備で活躍した外野手。勝負強さとパワーを兼ね備えた打撃だけでなく、地肩の強さを活かした鋭いレーザービームで捕殺を記録し、ランナーを進塁させない抑止にもなった。ちなみに、アメリカ時代に肩を壊し手術しており、ボルトの入ったまま状態であったという。

広島球団で放った155本塁打は球団外国人選手の最多本塁打記録である。

同時期に活躍したエイドリアン・ギャレットとのコンビはお互いの名前からとって「ギャートルズ」と呼ばれた。命名したのはチームメイト衣笠祥雄である。

物静かなでな性格であり、チームに積極的に溶け込もうとする姿勢でチームメイトからもされた。また、相手のや気づきをメモするマメな姿勢も首から信頼されていた。

ヒゲメガネ姿がトレードマーク趣味カメラ(写真)であり、広島在籍時にカメラ展を行ったこともある。来日前には教員免許を取得していた。

通算成績

通算:15年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
MLB:8年 391 788 710 71 176 9 70 4 8 8 61 1 139 10 .248 .305
NPB:7年 876 3605 3319 455 945 166 529 30 9 31 218 28 469 68 .285 .331

獲得タイトル・表彰

関連項目

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