真田重蔵単語

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真田重蔵さなだ じゅうぞうとは、元プロ野球選手である。故人。「真田重男さなだ しげお」の登録名でプレーした年もある。

概要

1923年5月27日生まれ。和歌山県和歌山市出身。7人兄弟の末っ子として生まれる。幼い頃からスポーツであり、小学5年時には相撲の全大会で優勝したこともある。

中学に進学。入学時は内野捕手を務めることが多く、2年時には「伝説の大投手」と呼ばれたエース清一が、甲子園大会2試合連続ノーヒットノーランを含む快投で全制覇、真田三塁手として全制覇のメンバーに名を連ねた。その後、の後継者として投手に転向し、翌年の夏の甲子園大会連覇の中心選手となった。

1943年日本大学大阪専門学校に籍を置きながら朝日軍に入団。同年13勝13敗の成績を残した。

だが、兵役逃れのために学校に籍をおいているとみなされ学徒兵として海軍へ。この時、と再会している[1]

1946年チーム名を変えたパシフィックで現役復帰。この年から3年連続で20勝を記録するなどエースとして活躍、1948年には1リーグ制最後のノーヒットノーランを達成

1950年には現在セ・リーグ記録シーズン39勝を挙げ、最多勝を獲得。沢村賞ベストナインにも選出されたもののMVPは逃した。

かしこの年以降、これまでの酷使がたたり不振に陥る。

1952年大阪タイガースへ移籍。移籍初年度はノーヒットノーランを含む16勝、防御率1.97の成績を残し復活するも、以降は立った活躍はできず。

1956年シーズン終了後、藤村富美男を排斥しようとする運動の中心人物の一人となった真田は球団から解雇通告を受ける。その後、もう一人の中心人物であった金田正泰は復帰したものの、真田が衰えているということを理由に契約更新されず、そのまま現役を引退した。

引退後は大阪明星高等学校監督を務め、1963年夏の甲子園大会優勝甲子園優勝投手甲子園優勝監督となったのはこれが初であった。

その後は1964年東京オリオンズ投手コーチに就任を皮切りに、阪急近鉄などでコーチを歴任。

晩年はボーイリーグチーム監督を務めた。

1990年野球殿堂入り。

1994年5月30日死去。享年71歳。

人物・エピソード

沢村栄治のように足を高々と上げた快な投球フォームから、剛速球と「懸河のドロップ」と呼ばれた縦に大きく曲がるカーブボール武器に打者をねじせた。

一方で酷使のを受け、1試合最多被安打(被安打22)の記録歴代シーズンワーストの被安打・失点・自責点(被安打422・202失点・自責点163)記録など、非常にムラのある成績を残した投手でもあった。

打者としてのセンスも高く、中時代は「日本一サード」とも呼ばれたこともあり、1950年から3年連続で3割1分以上の打率マークしている。

野球連盟の引き抜き、野球賭博疑惑、藤村富美男排斥事件、高校野球界のプロ野球出身者に対する冷遇など様々な事件や人間関係のいざこざに巻き込まれた。

投手成績

通算:11年 登板 完封 勝利 敗戦 セーブ ホールド 勝率 投球回 与四球 奪三振 失点 自責点 防御率 WHIP
NPB 416 211 39 178 128 --- --- .582 2717.0 869 1083 1036 854 2.83 1.19

打撃成績

通算:12年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 667 1516 1386 154 353 12 182 15 16 6 105 3 138 17 .255 .309

主な獲得タイトル・記録

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関連項目

脚注

  1. *その後、真田は転属し実戦に出ることはなかったが、が乗り込んだ海防艦撃を受け沈し戦死している。

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