もっとおぞましい何かだとは、漫画『シグルイ』に登場する「伊良子清玄」を評した言葉である。
『シグルイ』第2巻
師走の稽古納めの日、虎眼流頭首の「岩本虎眼」は一人娘の「三重」の婿、すなわち虎眼流の後継者として伊良子清玄を選んだ。そして認知症で自我があいまいなまま、伊良子と三重にその場で男女の契りを結ぶよう命令する。
実の父のあまりに無体な命令を三重は拒否し、その場から下がろうとする。しかし、虎眼流の高弟は三重の行く手を遮り、虎眼の命令を実行するために三重を床に押さえつけた。その姿は三重には父の言いなりになる傀儡に見えていた。そして、三重は穢されるくらいなら舌を咬んで死ぬ覚悟を決める。
だが、他の虎眼流の高弟たちが岩本虎眼の言に従うだけの傀儡になっている中、清玄のみが三重の心情を読み取り、今契りを交わせば三重が死ぬと諫言する。三重はその言葉に感極まって泣き出し、その泣き声を赤子の鳴き声と勘違いした虎眼は満足したのか、その場は丸く収まった。
その際に背景の地の文で語られたのが「もっとおぞましい何かだ」のフレーズである。
このシーンだけを見れば、如何にも伊良子が主人公らしい清廉潔白な行動をしており、実際に三重も伊良子に惚れて伊良子との婚姻を楽しみにしている描写もある。
ではなぜ、そんな伊良子が「もっとおぞましい何か」と評されたのか。
実は、伊良子は己が出世の道具としてしか三重を見ておらず、この回より以前のエピソードでは虎眼の妾「いく」に手を出していたり、次のエピソードでは出世の妨げとなる自らの母親を手にかけていたりなどの外道な人物なのである。のちのエピソードではさらに多くの女性に手を出していたことも判明しており、女性を誘惑する事に長け、そしてその女性たちを棄ててきたことも示唆されている。
虎眼流の高弟たちは自らの意思を失って師匠の虎眼に従うだけの傀儡ではあったが、伊良子は自らの意思で悪行を重ねていた。それがゆえに「もっとおぞましい何か」と言われたのではないだろうか。
あるカテゴリーに分類されると規定されながら、そのカテゴリーの枠に悪い意味で納まりきれていない事象・キャラクター・作品などに対して「○○は(カテゴリー名)ではない。もっとおぞましい何かだ」という評価がされることがある。
また、『シグルイ』と言う作品自体も「シグルイは時代劇漫画ではない。もっとおぞましい何かだ」と評されることも多い。この場合は独特のセンスが飛び抜けているなどの肯定的評価になっていることもある。
今まで考えないようにしていたことを、雪ノ下陽乃は突きつけるのだ。それは信頼などではない。もっと酷い、おぞましい何かだと
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最終更新:2024/04/19(金) 10:00
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