愛さずにいられない。
時代に新たな最強馬が生まれるたび、いつも果敢に挑んでいくあなたの姿がある。
黒鹿毛に輝く小さな身体を力いっぱい弾ませて、最後の直線にすべての勝負を懸けて、
先頭でゴールを駆け抜ける一頭がどの馬だったとしても、あなたのその姿にたくさんの声援が送られるだろう。
ステイゴールド、もう誰もがあなたのことを、愛さずにいられない。
ステイゴールド(英:Stay gold、中:黄金旅程)とは、1994年生まれの日本の元競走馬・種牡馬である。
馬名の由来はスティーヴィー・ワンダーの楽曲から。香港での馬名表記は『黄金旅程』。
競馬ファンからは馬名を略して『ステイ』『ステゴ』、勝ち鞍から『阿寒湖』、ゴドルフィンの有力馬に勝利したことから『ゴドルフィンキラー』とあだ名されることが多い。
【主な勝鞍】
1997年: 阿寒湖特別(900万下)
2000年: 目黒記念(GII)
2001年: 香港ヴァーズ(G1)、日経新春杯(GII)、ドバイシーマクラシック(G2)
父サンデーサイレンス、母ゴールデンサッシュ、母父ディクタス、母母父ノーザンテースト。1994年3月24日、北海道白老町の白老ファームに生まれる。
条件戦である阿寒湖特別が主な勝ち鞍に表記されているのは、当該競争で三勝目を挙げた後、約2年8カ月・28レースに亘って古馬王道で連敗を重ねる中で、その内重賞26競走中2着10回掲示板内22回、GI競走12回で2着4回掲示板内8回という成績を上げ、新聞にずっと「主な勝ち鞍:阿寒湖特別」と表記され続けてきたためである。
目黒記念で勝利して以後、日経新春杯(GII、2001年)、ドバイシーマC(G2、2001年)で勝利し、50戦目にして引退レースとなった香港ヴァーズ(G1、2001年)でついにGI勝利を飾った。
生涯成績50戦7勝。特に、GI出走回数20、重賞連続出走回数36はナイスネイチャの記録を更新していた。獲得賞金推計10億3909万円(7億6299万3000円+120万USドル+800万香港ドル)。[1]
種牡馬入りした後、産駒からはドリームジャーニー、ナカヤマフェスタ、オルフェーヴル、ゴールドシップ、レッドリヴェール、オジュウチョウサンなどを輩出した。
父は言わずと知れた大種牡馬サンデーサイレンス、母ゴールデンサッシュは未勝利馬だが全兄にマイルCSなどを制した「弾丸シュート」サッカーボーイがいる。母父は日仏でGI馬を輩出したディクタスという良血馬。母母父にはノーザンテーストというこれまた日本競馬を塗り替えた大種牡馬。当時のザ・社台グループ血統といった血筋である。
父からスピードと瞬発力を、母父からスタミナとパワーを、両者から旺盛な闘争心を受け継ぐことを期待できる血統であった。また、母母父ノーザンテーストの産駒は「三度変わる」という成長力があり、結果的に、これらの血統的特徴は現役生活で示されることとなる。
96年、旧3歳(現2歳)12月にデビュー。2戦目に骨膜炎を発症した影響で出世が遅れ、6戦目の4歳(現3歳)5月にようやく初勝利を挙げる。ちなみに3戦目には右回りの京都コースで左に旋回し落馬競走中止、調教再審査という暴れっぷりを見せつけている。初勝利が5月なため皐月賞は既に終わっていたし、ダービーへの出走もできるわけがなかった。
頭角を現したのは4歳の夏から。初勝利に続いてすいれん賞(4歳500万下)を勝利。さらに1戦を挟んだ阿寒湖特別(900万下←ここ重要)を勝つ。ただ恐らく、ここから2年以上も勝利がないとはだれも思っていなかっただろう。
兎にも角にも、この勝利で弾みをつけ、上がり馬の一角として牡馬クラシック最後の一冠・菊花賞戦線に挑む。トライアルのGII京都新聞杯では4着と好走、優先出走権は逃すも陣営や穴馬好みのファンに期待を抱かせる。 が、格上挑戦で出走した本番では、マチカネフクキタルの8着といいところなく敗れた。その後は97年冬から98年春にかけて自己条件と格上挑戦で4戦し、4戦連続2着。この4戦の中にGIIIダイヤモンドステークスでの2着があったため、収得賞金が加算され晴れてオープン馬となる。その後、GII日経賞での4着を経て、ステイゴールドは本格的に古馬GI路線へと駒を進める。
天皇賞(春)では、クラシックを無冠で終えていた大器メジロブライトが遂に戴冠。父メジロライアンが果たせなかった天皇賞制覇を成し遂げる。ステイゴールドはその陰で2着。初の古馬GIかつ勝ち鞍が勝ち鞍なので10番人気だったのを考えると大快挙である。
春のグランプリ・宝塚記念では本格化した稀代の快速馬サイレンススズカが優勝。道悪や急な乗り替わりに苦しみながらも、この年の緒戦から続く連勝街道にGI勝利という大輪の花を添えた。ステイゴールドはその陰で2着。何気に覚醒したススズの影を踏めた唯一の馬であったりする(ただしこの時はいつもの大逃げスタイルではなく騎手が変わっており「引き付ける競馬」をしていたのだが)。また、この2着は前年度代表馬エアグルーヴに先着する2着であり、総合的には大善戦であった。
天皇賞(秋)では絶対的な存在であったサイレンススズカがレース中にまさかの故障発生、帰らぬ馬となる。
静かな会場に僅かな悲鳴と怒号が聞こえる中、伏兵の8歳(現7歳)馬オフサイドトラップが後味の悪い勝利を手にする。ステイゴールドはその陰で2着。
GIレースを3戦連続2着である。特に大本命馬が事故で消えた天皇賞(秋)は、言い方は悪いがGIを勝つまたとないチャンスだった。これをみすみす逃したことで、競馬ファンのステイゴールドに対する評価はほぼ決まってしまう。惜しいところまで行くが詰めが甘い善戦マン。ナイスネイチャ、ロイスアンドロイスの系譜に連なるネタ馬枠である。「名前はゴールドなのにシルバーコレクター」、「ゴールドの前でステイ」などと揶揄されながらもネット住民から、牝馬並みの小柄な馬体が可愛らしいと女性ファンから、大レースでかなりの割合で馬券に絡んだ馬券師からと、幅広い層に人気を博し始めた。
その後ジャパンカップでは10着と掲示板を外すも暮れのグランプリ・有馬記念では3着に入りシーズンを締めくくる。GIでの好走が目立つも自己条件戦も含め勝利は無かった。これに「勝ち鞍は無いがこの結果。やはり力は有る」と翌年の飛躍に期待する者もいる一方で「有馬で3着・・・やはりナイスネイチャ枠か!?」と別の意味で今後の活躍に思いを馳せる者もいたとか何とか。なお、GIレースで他の馬たちが重賞を勝ちあがってくる中、ステイゴールドはひたすら「主な勝ち鞍:阿寒湖特別(900万下)」だったことから、「アカン子」と掛けて「阿寒湖」「阿寒湖特別」とあだ名がついている。
明けて99年。旧6歳となったステイゴールドは初戦の京都記念こそ着外となるも、ステップレースの日経賞と天皇賞(春)では掲示板に復帰。その後は金鯱賞、鳴尾記念(当時は初夏開催のG2)、宝塚記念と3戦連続3着。ファンは惜しいレースにやきもきし、複勝馬券師は懐を温め、馬連馬券師は「どうして3着にこだわるんですか?2着では駄目なんですか!?」と憤慨し(この年の宝塚で2着はキツいって)、ネット住民はネタ的な意味で予想をはるかに超えるポテンシャルに身震いした。
京都大賞典を経て挑んだ天皇賞(秋)ではレコードを更新する勢いで末脚を発揮する強い競馬を見せるも、更に0.1秒速く駆けたスペシャルウィークを前にクビ差涙を呑む。なおステゴはこの時12番人気で2着という激走であり、スペ様は自身が勝ったレースで3度目の馬連万馬券を製造した。その後JCと有馬記念は掲示板外に敗戦。結局、99年シーズンも前年に続き惜しいところで勝ち鞍を上げることはできずに終わった。
2000年にはステイゴールドも7歳(現6歳)。人間で言えばアラサーに当たる世代に突入していた。同期はおろか98世代の一部もターフを去っていた。彼も残された時間は少ない…と言いたいが衰えを見せる様子はとりあえずなかった。この年もAJCC2着、京都記念3着、日経賞2着、天皇賞(春)4着と惜敗を繰り返し、「もうステイは勝てないままなの? 重賞は取れないの?」「でもそれはそれで美味しい気がする」・・・そんな声も囁かれだした中、陣営は苦渋の選択を行う。騎手の交代である。宝塚記念へのステップ・GII目黒記念に挑むにあたり、これまでの主戦だった熊沢重文から、トップジョッキー武豊へ乗り替わりを決断した。
乗り代わりについてはシビアな考えの武であったが、この時は流石に、これまでの主戦であった熊沢を慮って複雑な心境であったという。なにしろ熊沢は、かつて自分がさじを投げた癖馬の、一番しんどい時期を担当していたのである。
だが、武はレースでは見事期待に応えてみせた。重賞未勝利馬なのに最重量斤量を背負い、雨の降りしきる重馬場の中を後方待機で進むと、最後の直線で超良血馬マチカネキンノホシを捉えて、そのまま突き放すこと1と1/4馬身差をつけて入線。ファンはついに、ステイゴールドが重賞で先頭に立ってゴールする瞬間を目撃したのだった。
レース数にして実に29戦、時間にして約2年と8カ月ぶりの勝利であり、サンデーサイレンス産駒重賞100勝目でもあった。このレースまでにGIの複勝圏内に6回入り、既に並のGI馬よりは稼いでいた。その額5億5466万円(例えばサイレンススズカの賞金額は4億5,598万円) 。それにも関わらず、新聞に表記されていたのはずっと「主な勝ち鞍:阿寒湖特別(900万下)」だった。だからこそか、この勝利に会場となった東京競馬場では雨天・土曜開催にも関わらずGI並みの拍手と歓声が巻き起こり、レースを中継していた中京競馬場でも拍手を送る者が絶えなかったという。
この人気に押されて、JRAでも冒頭の文章が入ったポスターが製作された。[2]だが、このポスターはNo.49だったわけで、これが果たして翌年のNo.50として作られていたらどのような文書が書かれていたのだろうか。
またこの年、JRAが開催した「Dream Horses 2000」において、GI競走未勝利ながらファンの投票数34位に入っている。[3]
しかしこの年は世紀末。そう、世紀末覇王テイエムオペラオーが古馬王道を蹂躙した年である。2着にはメイショウドトウが常にいて、更にステイゴールドは鞍上がコロコロ変わった影響もあってか不振に陥り、宝塚記念以降はこれまでと打って変わってGIで馬券に絡むことが出来ずに終わる。
世紀は変わり2001年。年齢表記は7歳で変わらず。JRAの制度改革の一環として、馬齢を従来の数えから満表記に変更したため、2年目の「7歳シーズン」になったのである。これで1歳若返った気にでもなったのか、前年の重賞制覇に気を良くしてか、ステイゴールドはこの年も現役を続けていた。
気楽に言っている少なくともステゴ自身は気楽なのだろうが、そろそろ種牡馬入りできるかどうか、出来たとして良い牝馬を付けられるかどうかが問題になる時期である。一部の例外を除いて、繁殖に関われない競走馬の運命は決まっている。それ故、陣営は必死であった。
もう同期はおろか、98世代も多くがターフを去ったというのに、まだ走り足りないのか初戦のGII日経新春杯を藤田伸二の手綱で勝利し重賞2勝目を挙げる。そして勢いに乗って海外に遠征。ドバイシーマクラシックへの参戦を決定した。一応、突拍子のない話ではなく、トゥザヴィクトリーのドバイ挑戦の現地での調教併せ馬としての話もあったので「それなら一緒に」と考えた結果である。
ドバイワールドカップのサポートレースであるドバイSCは高額賞金もあってか欧州の強豪馬も参戦。出走馬の面子は、最早並のGIすら逃げ出しそうな様相だったが、中でも前年に英ダービー馬と凱旋門賞馬を下すレコード勝利を上げ、この年の欧州年度代表馬・アメリカの芝のチャンピオンにも選出されることとなるファンタスティックライトが連覇を狙って出走したのは、特筆すべきことであろう。前年度はオペドトウに負けているとはいえジャパンカップはステイゴールドが作ったスローペースの逃げに振り回された上にアウェーの勝負。このレースは前年度の勝利もあってホームというべきものだった。
当のファンタスティックライトは調子が今一つだったものの、それ以上にステイゴールドはただでさえ小柄な馬体が、遠征による疲労で更に痩せ細ってしまっていた。そのため「せめて無事で帰ってきてくれ」とまで心配され、苦戦が予想されると同時に、もしかししてステゴなら2、3着に入って笑いをとるのではと期待された。だが、馬群から抜け出したファンタスティックライトを凄まじい猛追で捉え、掲示板や2着どころか、ハナ差で下す大金星を挙げる。
これは、日本調教の馬に限ればサンデーサイレンス産駒、初の海外重賞制覇である。[4]SS産駒に限らずとも、内国産馬においては障害競走のフジノオー[5]、ワシントンバースデーを勝ったハクチカラ、香港国際カップ制覇のフジヤマケンザンに続く4頭目の偉業であった。
これで、ステイゴールドもGI馬……となればよかったのだが、ドバイシーマクラシックがG1になるのは翌年の話。当時の格付けではまだ国際G2だったのである。残念!だが、この勝利がGI相当であると見なされたことによって、日高軽種馬農業協同組合からステイゴールドにもようやく種牡馬入りの話が来た。社台グループが日高の組合に提示した額は3億。だが、後述する様々な理由によって、組合員が高すぎると判断したことでこの件はお流れとなってしまう。社台グループは自身らでシンジケートを組むこととなり、ステイゴールドの種牡馬入りが決定する。
なお、ごたごたやっているうちに完全に繁殖時期を過ぎたことと、アグネスタキオンが種牡馬入りして、同じサンデーサイレンス系のステイゴールドに需要が見込まれなかったため、この年は現役続行となる。現役最後の年、このままの勢いでGI制覇を、と期待が高まるも、国内復帰初戦の宝塚記念では4着に終わる。
秋のGII京都大賞典では『あの』テイエムオペラオーから1位入線を奪うも、直線で例の左にヨレる癖を出して斜行し進路を妨害していたため、審議の結果失格となる。この際に接触したナリタトップロードの鞍上渡辺薫彦騎手は落馬。トップロードもハ行を発症して天皇賞を回避するという後味の悪いレースとなった。
本番の天皇賞(秋)でも再び左に行きたがった影響で惨敗。ジャパンカップでは左への斜行癖対策を重点的に行い、まっすぐ走らせることには成功して初対戦以来20ヶ月ぶりにメイショウドトウに先着するも、4着に終わった。
50戦目の節目にしてラストランとなったのは、年末の有馬記念……ではなく、香港国際競走G1・香港ヴァーズ。ファンタスティックライトを下したことが評価され、G1で初めての1番人気で出走したステイゴールドは、遂に悲願のG1制覇へ到達する。左のヨレ癖が直ったと思っていたら右にヨれ内ラチにぶつかろうかというほどに寄っていったという。最後までネタに事欠かない馬である。
日本産の日本調教馬、初の海外での国際G1制覇という快挙[6]。最早、善戦マンどころか21世紀最初の名馬である。その上、その年(2001年)の香港国際競争はエイシンプレストン、アグネスデジタルによって4レース中3レースを日本調教馬が制覇。当時実況に対応していなかった2ちゃんねるの競馬板が鯖落ちする事態となった。なお、このレースでの中文表記である「黄金旅程」は、彼の異名となり、後々産駒の命名にまで影響することとなる。
その香港ヴァーズの動画は競馬タグの最古投稿動画である。あえてそのレースの内容については多くを語らない。是非とも動画上でその雄姿に触れてほしい。その後は興奮のあまりに発走時と最終直線で別人のように変貌しているラジオ実況も聞いてみてね
……ステイゴールド、ステイゴールド追ってくる!
ステイゴールド! 差し切れ!
ステイゴールド! ステイゴールド! エクラー!
ステイゴールド! ステイゴールド! ステイゴールド……ステイゴールドォォーーッ!! 差し切ったぁーっ!!
ラストランを見事に飾ったステイゴールド!!!
最終戦でG1獲ったか……っ!?
海外重賞2勝の戦績が評価され、2001年度JRA特別賞を受賞。これを手土産に引退、繁殖入りする。生涯成績50戦7勝。
マチカネフクキタルの桁外れの末脚、メジロブライト悲願の戴冠、最速の逃げ馬サイレンススズカの栄光と最期、オフサイドトラップの不屈の快挙、世界に飛翔するエルコンドルパサーの雄姿、復活した怪物グラスワンダーと王道を征くダービー馬スペシャルウィークの死闘、世紀末を制したテイエムオペラオーの凱歌とメイショウドトウの逆襲、外国産馬アグネスデジタルによる盾の奪取、新世紀最初のダービー馬・ジャングルポケットのJC制覇による世代交代劇……。
ステイゴールドの現役生活は、多くの名馬たちが紡ぎだす伝説と共にあった。そして最後は自らも伝説を残して去っていく。その蹄跡の一つ一つが、名前の通り色褪せぬ黄金色であった。
当初、引退式は予定されていなかったが、ファンの嘆願とJRAの要請により急遽開催が決定。馬名の由来となった名曲を背にターフを去った。エルコンドルパサーが何か言いたげだ。
海外重賞2勝とサンデーサイレンス産駒としての看板を引っ提げ、種牡馬として彼の旅の第二幕は上がる。
とはいえ、最初から種牡馬として期待されていたわけではない。彼の父であるサンデーサイレンス自身がいまだ健在であったことに加えて、その初年度産駒のフジキセキや、ステイゴールドから4歳年下のアグネスタキオンら、サンデーの後継種牡馬は既に多数存在していたからである。その後継種牡馬の産駒からもGI勝利馬はこの時点では産まれておらず、加えてステイゴールド自身は小柄・晩成・ステイヤー(寄りの中距離)という種牡馬としては売れない要素を多く抱えていたのである。
ところが、香港ヴァーズの勝利で全てが変わった。「サンデーサイレンス産駒の国際G1勝利馬に安く種付けできる」と人気が急上昇し、多くの肌馬を集めることができたのだ。そして産駒初の重賞ウィナー・ソリッドプラチナム含め、初年度から4頭の重賞馬を輩出する。
更に、次年度産駒のドリームジャーニーが朝日杯フューチュリティステークスでGI初勝利を挙げ最優秀2歳牡馬を受賞。晩成型と思われたステイゴールドの産駒から2歳GI勝利馬がでたことが驚愕であったが、このドリームジャーニーが2009年に春秋グランプリを制したことで、ステイゴールドのサイアーラインが繋がることがほぼ確定した。翌年にはナカヤマフェスタが宝塚記念勝利、凱旋門2着の成績を上げる。更に、ドリームジャーニーの全弟オルフェーヴルが三冠を取ったことで、ステイゴールドの種牡馬としての評価は決定的となった。
翌年以降も、GI6勝のゴールドシップ、天皇賞連覇のフェノーメノなどGI勝利馬、重賞勝利馬を数多く輩出。史上5頭目の産駒重賞100勝を達成して、種付け料も150万→100万→250万→600万→800万と、ディープインパクトに次いで、キングカメハメハと並ぶまでに至り、サンデーサイレンス系の後継種牡馬の一頭として地位を確立した。産駒もやっぱり癖馬ばかりだなぁ…。
こうして輝きに満ちた旅程を歩んでいた彼であったが、その終焉は突如訪れる。2015年2月5日午後に種付けをした後様子が一変。苫小牧市の社台ホースクリニックで診察を受け一度は馬房に戻ったものの、その後容態が急変し、ついに永遠の眠りに就いた。21歳。死因は大動脈破裂であった。種牡馬として活躍したサンデー産駒が20もいかず亡くなることが多いとはいえ、一般的な競走馬の平均寿命(25歳前後)よりも数年早く、夢半ばにして第二幕は閉じることとなった。
しかし、死後も天才障害馬オジュウチョウサンが障害獲得賞金記録とJRA重賞連勝記録を塗り替えたり、中長距離産駒が多い中インディチャンプはマイラーとして活躍し春秋マイルGI連覇を達成したり、また(種付け頭数1頭の真ラストクロップ世代を除いて)実質的な最終世代のステイフーリッシュがサウジG3→ドバイG2と海外重賞を連勝する中で父譲りのゴドルフィンキラーっぷりを発揮するなど、まだまだ産駒は話題に事欠かない活躍をする。
また、彼の系統はオルフェーヴルとドリームジャーニーの兄弟、ナカヤマフェスタ、ゴールドシップ、フェノーメノ、レインボーライン、ウインブライトなどすでに多くの後継者に恵まれており、さらには孫世代も牡系ではエポカドーロ、ウシュバテソーロ、牝系ではラッキーライラック、ユーバーレーベン、マルシュロレーヌ、ショウナンナデシコなどの活躍馬が輩出されつつある。このほか、GIタイトルにあと一歩届かなかったオーソリティも種牡馬入りを果たし、後継者の一員に名を連ねている。これからは彼らが、さらなる黄金の旅路を拓いていく。すでに上がった旅路の第三幕も暫く色褪せることはなさそうである。
2400~2500mの競争で勝利を挙げつつ、2000~3200mの広い範囲のレースで賞金を稼ぎ続け、GI競走出走20回。内2着4回。スペシャルウィークの2着だった第120回天皇賞(秋)では、自身もレコード越えで駆け抜けており、GI馬としての能力は確かにあった。それでも、GIを取るまで20戦、重賞を取るには25戦かかっている。勝ちきれない性分を残念と思うか、それだけ出走しても壊れない体を褒めるべきか。一応言うと、王道路線を1年間走り切れる馬なんてそんなにいないのである。況や、2年3年と続けることをや。王道GIを2年完走した競走馬すら他にテイエムオペラオーしかいないと言えばどれ程の大偉業か分かるだろうか。しかも身体能力的に5年は完走できそうだから驚愕ものである。
ステイゴールドが「社台レースホース」の保有するクラブ馬であるということを考えると、これは「最高の特性」なのである。一口馬主になったことのある人の多くが経験しているように、そもそもデビューすらできない、デビューしても1戦2戦で能力不足で引退なんてことはザラである。能力を示したところで、間隔を空けて使うしかない馬も多い。それがステイゴールドは6年間で50戦、しかも後ろの4年間は重賞ばかり。GIで勝たないから引退しないし、勝てなくても高い賞金を稼いて帰ってきてはまたすぐ次のレースに向かうから出資者は儲かるのである。ステイゴールドは95万円×40口で募集されたため、出資者は多くとも40人ということになるが、これだけ多くの人に6年間もの長い間じれったさと賞金とそしてそれ以上のワクワクを与えたという、アーモンドアイすら及ばない日本の競馬史上でも最高のクラブ馬と言えるのではないだろうか。でも牝馬だったら「6歳春に引退」という規定のせいで本当に「主な勝ち鞍:阿寒湖特別」で終わっていた可能性が高い。
ただ、最後の引退レースであんな走りをしてもゴール後にまだ暴れる余力があったそうで、最初から本気で走ったらどうなっていたのだろう。まあ、気性に関しては最早何も言うまいか。
種牡馬としては一流を通り越して「超一流」といっていい。当初はよい肌馬もつかず、他のSS産駒種牡馬も多数いる中で重賞馬、GI馬を生みだし、そこから、2010年代のサイアーランキングに上位に乗り続けたのは立派。自身に似ず早い時期から走れる産駒も、自身に似て古馬でも長く結果を残し続ける産駒もいた。今後は彼の子孫が系統として確立するかが注目される。
ステイゴールドはサラブレッドの平均体重からするとかなり小さく、4歳春の日経杯の時点ですら408kg、最も重い時でも436kgだった。体つきが牝馬のようだとか、身体が出来上がったのが6歳後半ではないかとか言われたこともある。武豊曰く、引退レース時が全盛期。
一方、両親から受け継いだ身体能力は中々のもので、後ろ足二本のみで立ち上がってもフラつかない、小柄な体格にもかかわらず、調教時に体重60kg(レース時の騎手は大体50kg台、場合によっては40kg台)の人間が乗っても走ってのけたなど、能力の高さだけなら一級品である。こと、瞬発力に関しては凄まじいものがあり、ドバイでは狭い所を抜け出すと強烈な追い込みを見せてハナ差で指しきり、香港では右に左に向きを変えながら、後にディープインパクトの走りを飛んでいるようだと表現をした鞍上をして「羽が生えたようだった」と言わしめる末脚を発揮した。
尤も、この馬に関してはそれ以上に頑健さが特筆される。他のSS産駒には、フジキセキ、サイレンススズカ、アグネスタキオンといった、高速の足を持ちつつも、遂に走れなくなった競走馬も存在する。一方、ステイゴールドはデビュー直後こそ骨膜炎を発症していたが、それ以降は大きな病気も怪我もなく、特段の休養もないまま毎年同じように王道路線を走って、結果6年で50戦GI20戦。古馬路線を4年も続けてどこかで掲示板に入って賞金を獲得し続けてきた。これは、SS産駒は勿論のこと、競馬界全体を見ても極めてまれ。例えば、王道制覇を果たしてテイエムオペラオーでも2年目の古馬路線(5歳)では衰えており、そんな中でなぜか7歳時に競走能力が上がっていくステイゴールドは破格の存在といえる。
なのだが、血統を遡ってもそこまで頑丈と言える馬はおらず、果たしてこの頑健な体は一体どこから来たのかはよく分からない。伯父のサッカーボーイもそれほど頑丈ではなかったしだから競走をいつも手抜いてたとか言われる。産駒もやたら頑丈なので遺伝子的な要素とは思われるのだが…。一応、
という要素は見て取れる。
彼は両親から素晴らしい肉体を受け継いだ。但し、ステイゴールドはそれ以外のものも受け継いでしまった。
サンデーサイレンスは凄まじく荒い気性の持ち主であり、その産駒もまた、優れた能力を発揮すると同時に、気性の激しさが大きな特徴である。ディクタス産駒もこの点においては人後に落ちず、母の兄サッカーボーイはその代表格である。そんなわけで、この配合から生まれたステイゴールドは、SS産駒の中でも、特に気性難が予想されていた。
その予想にたがうことなく、幼いころは大人しかったステイゴールドも、人を乗せて調教し始めると気性の粗さを現していく。他馬に乗りかかろうとするわ、噛みつきにも行こうとするわ、あまつさえ人にも噛みつき、厩舎の中でも油断すると蹴りが飛んでくる。馬房の前を通っただけで突進して威嚇する。走行中はやたらと左にヨレるわ、逸走するわ、終には鞍上の熊沢重文を振り落とす、etc…とにかく気性面では問題点が目白押しだった。
ことに、ヨレ癖は生涯決して直らなかった。京都大賞典では左ヨレの癖が最悪の方向に働いたため、陣営が必死の調教と左目を隠すと言う合わせ技で、ついに克服したと思ったら、引退レースでは右にヨレると言う何とも言えないことになっている。
荒い気性と引き換えに闘争心だけは必要以上に持ち合わせており、2度の海外勝利はこれが功を奏した結果だろう。他に人馬問わず自身の弱いところを見せるのをとにかく厭う性格だったようでドバイ遠征で体調を崩し食欲が落ちても飼い葉を寝床に隠したり他の馬に与えたりして健康アピールをしていたとか。牧場に鹿が迷い込んできた時他の馬は逃げ惑っていたがステゴだけは逆に追い回していたという逸話がある。
ステイゴールドを管理する池江泰郎調教師の下で調教助手をしていた池江泰寿(後に調教師となりステゴの代表産駒ドリームジャーニー・オルフェーヴルを管理する)に「コイツ、肉やったら食うんじゃね?」と言わしめ、下級条件時代、後にコンビを組む武豊からは初騎乗時に「競馬に集中できていない」とまで言われてしまった。更に小柄であるにも関わらず群れのボス馬であり、とにかく唯我独尊を地で行く俺様っぷりだったそうな。
だが、池江泰寿氏のいとこでステイゴールドの担当厩務員だった山元重治氏は「とにかく自分が一番エラいと思ってる。自分の中のマイルールを絶対曲げようとしない(笑)」とあきれる一方、「(面倒は面倒だけど)猛獣ではない」といい、熊沢も「何がOK、何がNGということをはっきり表現している馬だから、それがわかってしまえばかえって扱いやすい」とも語る。要するに、ステイゴールド自身の中ではしっかりとしたルールがあって、ただ意味もなく暴れるということはなかった。その意味では「賢い馬」であったとも言える。
ステイゴールドが獲得した賞金は海外でのレース含めて10億3909万円と推定されている(為替比率の関係でおおよその計算である)。比較として、メジロマックイーンは10億1465万円、ナリタブライアンは10億2691万円(ボーナス含む)、スペシャルウィークは10億9262万円である。テイエムオペラオーに次ぐ5頭目の10億円ホースであり、時代や物価の変動ということを加味しても名馬に並ぶ稼ぎ頭であったことは間違いない。
競馬にあまり詳しくない人の中には「1着が少ないのになんでこんなに稼げたの?」と疑問に思う人がいるかもしれない。これは日本競馬の「入着する=掲示板表示される5着以内に入る」と賞金が貰える制度のためである(貰える額は1着を100とすると、2着40、3着25、4着15、5着10)。50戦という他のGI勝利馬と比較すると遥かに長い戦いの中でひたすらに善戦を続け、掲示板から外れることの方が少なかったステイゴールドは、着実に賞金を積み上げ続けた「塵も積もれば山となる」を体現した存在であると言える。
加えて、実動期間6年で大きな休養もケガもないという、まさに「『無事是名馬』を地に行くような、素晴らしい馬(池江泰寿氏評)」であった。
→ステイゴールド産駒の記事も参照
先述の通り、種牡馬入りが見込まれたころはそこまで期待されていたわけではなかった。だが香港ヴァーズ勝利以後、評価がうなぎ登りに上り続け、ついに三冠馬まで出してしまったのだから大したものである。
ステイゴールドの受胎率は高く、そのため他の種牡馬で受胎しなかった牝馬がやってくる場合もあった。産駒はステイゴールドの特徴であった・体のバネによる瞬発力・頑健な体・息の長さ・競走馬としての賢さ、そして気性難を概ね引き継いでいる。
ラストクロップであるハルノナゴリ[7]を除く全世代の産駒において重賞馬を輩出。重賞勝ちは父サンデーサイレンスに並ぶ17年連続(第5位タイ)、116勝(第4位)を数える。とくに14年連続産駒GI勝利は父に並ぶ1位タイの記録となっている。
なお、父サンデーサイレンスの「親友」と評されたメジロマックイーン産駒の牝馬との配合が「黄金配合」として注目されていた。→ステマ配合
――能力は確かにある。レースでも好走はする。だが、なぜか勝てない。人はそんな詰めの甘い馬たちが勝ちきれない訳を、勝負根性の四文字だけで説明しがちである。後一歩で勝ちきれないのは、根性が足りないから。闘争心が不足しているからだ、と。 ステイゴールドにもそんな評価が下されたこともある。
だがその通説には疑問が残る。
我々は『勝負根性』という便利な言葉で、不可解な敗因を分かった気になっているだけではないだろうか。走馬の個性は千差万別で、その勝因も敗因も、十人(十馬?)十色であることを忘れていないだろうか。果たして、たった四文字の言葉で惜敗を重ねる馬たちの敗因を説明していいのだろうか。
例として、一頭の馬を挙げさせてもらいたい。ビワハヤヒデ。三冠馬ナリタブライアンの半兄で、自身もGIレース3勝を誇る名馬である。だが、彼を評する言葉の中に、ある不名誉な言葉がある。
顔がデカイ勝負根性不足である。
なるほど、朝日杯、皐月賞、ダービーとGIレースで2着惜敗を繰り返したビワハヤヒデは、確かに一見して
勝負根性が欠けて見える。だが、彼を預かった浜田光正調教師は後年、競馬雑誌『サラブレ』の取材にこう答えている。
ビワハヤヒデは先行抜けだしの、いわゆる横綱相撲と呼ばれる競馬を得意とする。抜かれまいとする逃げ馬をねじ伏せ、抜こうとする差し馬を封じ込めるための勝負根性が無ければ決して務まらない戦法である。そんなスタイルを貫くビワハヤヒデが根性無しな訳は無い。
逆にビワハヤヒデを負かした馬たちはトニービン産駒のウイニングチケットに追込馬のナリタタイシン、そして全身是バネ也ともいうべきトウカイテイオーと、瞬発力に恵まれたタイプが多い。ビワハヤヒデ陣営が敗因を瞬発力不足と捉えるのも、自然な発想だろう。事実、日本ダービーの敗戦後は放牧を拒み猛特訓を積んでこの弱点を補強し、菊花賞を勝ち取っている。
話をステイゴールドを戻す。彼の場合はビワハヤヒデとは逆に、瞬発力に秀でたタイプの競走馬だ。それだけに勝負根性の不足という論は、あるいはより説得力を持ってしまうかもしれない。しかし、彼の血統を見れば、母母父ノーザンテースト、母父ディクタス、父サンデーサイレンス……。いずれも大舞台でこそより輝ける馬を送り出してきた時代のトップサイアー達である。彼らの血の結晶であるステイゴールドが、果たして本当に勝負根性に欠ける馬なのだろうか。
前稿での解説した通り、ステイゴールドの最大の弱点は気性からくる斜行癖だった。このために最大の武器である瞬発力はその発揮が遅れ、本領が目に見えるころには先頭馬がゴールしている。それこそが彼を苦しめていた真の欠点ではないだろうか。考えれば、果たして闘争心に欠ける末脚だけの馬があのエアグルーヴを抜きサイレンススズカをクビ差まで追い詰める、スペシャルウィークに0.1秒差の勝負を強いることが出来るだろうか。失格になったとはいえ、接触事故の起こったレースでテイエムオペラオーに先んじることが出来るだろうか。ヨレて内ラチスレスレにも関わらず残り1ハロンで5馬身以上先を行くエクラールを差し切ることが出来るだろうか。
ステイゴールドの代表産駒オルフェーヴルは、不良馬場の日本ダービーで他の馬に挟まれる不利を受けながらも、怯まず果敢に走り2冠目を手にした。その豪快な末脚のみならず、旺盛な闘争心もまたステイゴールドから受け継いだものであると、私は信じたい。
まあ、勝負根性を競馬へのやる気と言い替えたら、明らかに足りてなかったかもしれないけど。
左に行きたがる癖は「騎手が追えなくなって楽できるようになる」と思ってたからって言うし。
日付 | レース名 | 格付 | 開催競馬場 (国・地域名) |
距離 m | 馬場 | 頭数 | 騎手 | 人気 | 着順 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1996年(旧3歳) | ||||||||||
1 | 1996/12/01 | 3歳新馬 | 阪神 | 芝2000 | 良 | 14 | ペリエ | 3 | 3 | |
2 | 1996/12/21 | 3歳新馬 | 阪神 | 芝2000 | 良 | 16 | ペリエ | 1 | 16 | |
1997年(旧4歳) | ||||||||||
3 | 1997/02/15 | 4歳未勝利 | 京都 | ダ1800 | 良 | 12 | 熊沢重文 | 1 | 中 | |
4 | 1997/03/22 | 4歳未勝利 | 阪神 | 芝2000 | 稍 | 13 | 熊沢重文 | 2 | 2 | |
5 | 1997/04/19 | 4歳未勝利 | 京都 | 芝2400 | 良 | 18 | 熊沢重文 | 1 | 2 | |
6 | 1997/05/11 | 4歳未勝利 | 東京 | 芝2400 | 良 | 18 | 熊沢重文 | 2 | 1 | |
7 | 1997/06/07 | すいれん賞 | 500万下 | 中京 | 芝2500 | 良 | 10 | 熊沢重文 | 1 | 1 |
8 | 1997/06/29 | やまゆりS | 900万下 | 阪神 | 芝2000 | 良 | 13 | 熊沢重文 | 5 | 4 |
9 | 1997/09/06 | 阿寒湖特別 | 900万下 | 札幌 | 芝2000 | 良 | 14 | 熊沢重文 | 3 | 1 |
10 | 1997/10/12 | 京都新聞杯 | GII | 京都 | 芝2200 | 良 | 12 | 熊沢重文 | 7 | 4 |
11 | 1997/11/02 | 菊花賞 | GI | 京都 | 芝3000 | 良 | 18 | 熊沢重文 | 10 | 8 |
12 | 1997/11/30 | ゴールデンホイップT | 1600万下 | 阪神 | 芝2000 | 良 | 13 | 武豊 | 1 | 2 |
1998年(旧5歳) | ||||||||||
13 | 1998/01/17 | 万葉S | OP | 京都 | 芝3000 | 良 | 14 | 熊沢重文 | 2 | 2 |
14 | 1998/02/08 | 松籟S | 1600万下 | 京都 | 芝2400 | 良 | 16 | 熊沢重文 | 3 | 2 |
15 | 1998/02/21 | ダイヤモンドS | GIII | 東京 | 芝3200 | 良 | 16 | 熊沢重文 | 3 | 2 |
16 | 1998/03/29 | 日経賞 | GII | 中山 | 芝2500 | 良 | 12 | 熊沢重文 | 5 | 4 |
17 | 1998/05/03 | 天皇賞(春) | GI | 京都 | 芝2000 | 良 | 14 | 熊沢重文 | 10 | 2 |
18 | 1998/06/13 | 目黒記念 | GII | 東京 | 芝2500 | 重 | 13 | 熊沢重文 | 3 | 3 |
19 | 1998/07/12 | 宝塚記念 | GI | 阪神 | 芝2200 | 良 | 13 | 熊沢重文 | 9 | 2 |
20 | 1998/10/11 | 京都大賞典 | GII | 京都 | 芝2400 | 良 | 7 | 熊沢重文 | 2 | 4 |
21 | 1998/11/01 | 天皇賞(秋) | GI | 東京 | 芝2000 | 良 | 12 | 蛯名正義 | 4 | 2 |
22 | 1998/11/29 | ジャパンカップ | GI | 東京 | 芝2400 | 良 | 15 | 熊沢重文 | 6 | 10 |
23 | 1998/12/27 | 有馬記念 | GI | 中山 | 芝2500 | 良 | 16 | 熊沢重文 | 11 | 3 |
1999年(旧6歳) | ||||||||||
24 | 1999/02/14 | 京都記念 | GII | 京都 | 芝2200 | 良 | 16 | 熊沢重文 | 2 | 7 |
25 | 1999/03/28 | 日経賞 | GII | 中山 | 芝2500 | 稍 | 13 | 熊沢重文 | 2 | 3 |
26 | 1999/05/02 | 天皇賞(春) | GI | 京都 | 芝3200 | 良 | 10 | 熊沢重文 | 6 | 5 |
27 | 1999/05/29 | 金鯱賞 | GII | 中京 | 芝2000 | 良 | 15 | 熊沢重文 | 3 | 3 |
28 | 1999/06/20 | 鳴尾記念 | GII | 阪神 | 芝2000 | 良 | 10 | 熊沢重文 | 3 | 3 |
29 | 1999/07/11 | 宝塚記念 | GI | 阪神 | 芝2200 | 良 | 12 | 熊沢重文 | 7 | 3 |
30 | 1999/10/10 | 京都大賞典 | GII | 京都 | 芝2400 | 良 | 10 | 熊沢重文 | 7 | 6 |
31 | 1999/10/31 | 天皇賞(秋) | GI | 東京 | 芝2000 | 良 | 17 | 熊沢重文 | 12 | 2 |
32 | 1999/11/28 | ジャパンカップ | GI | 東京 | 芝2400 | 良 | 14 | 熊沢重文 | 5 | 6 |
33 | 1999/12/26 | 有馬記念 | GI | 中山 | 芝2500 | 良 | 14 | 熊沢重文 | 8 | 10 |
2000年(旧7歳) | ||||||||||
34 | 2000/01/23 | アメリカジョッキーC | GII | 中山 | 芝2200 | 良 | 14 | 熊沢重文 | 1 | 2 |
35 | 2000/02/20 | 京都記念 | GII | 京都 | 芝2200 | 良 | 11 | 熊沢重文 | 3 | 3 |
36 | 2000/03/26 | 日経賞 | GII | 中山 | 芝2500 | 良 | 10 | 熊沢重文 | 2 | 2 |
37 | 2000/04/30 | 天皇賞(春) | GI | 東京 | 芝3200 | 良 | 12 | 熊沢重文 | 4 | 4 |
38 | 2000/05/20 | 目黒記念 | GII | 東京 | 芝2500 | 重 | 15 | 武豊 | 1 | 1 |
39 | 2000/06/25 | 宝塚記念 | GI | 阪神 | 芝2200 | 良 | 11 | 安藤勝己 | 5 | 4 |
40 | 2000/09/24 | 産経賞オールカマー | GII | 中山 | 芝2200 | 重 | 9 | 後藤浩輝 | 3 | 5 |
41 | 2000/10/29 | 天皇賞(秋) | GI | 東京 | 芝2000 | 良 | 16 | 武豊 | 4 | 7 |
42 | 2000/11/26 | ジャパンカップ | GI | 東京 | 芝2400 | 良 | 16 | 後藤浩紀 | 13 | 8 |
43 | 2000/12/24 | 有馬記念 | GI | 中山 | 芝2500 | 良 | 16 | 後藤浩輝 | 10 | 7 |
2001年(現7歳) | ||||||||||
44 | 2001/01/14 | 日経新春杯 | GII | 京都 | 芝2400 | 良 | 11 | 藤田伸二 | 5 | 1 |
45 | 2001/03/24 | ドバイシーマC | G2 | ナド・アルシバ (アラブ首) |
芝2400 | 良 | 16 | 武豊 | - | 1 |
46 | 2001/06/24 | 宝塚記念 | GI | 阪神 | 芝2200 | 良 | 12 | 後藤浩輝 | 5 | 4 |
47 | 2001/10/07 | 京都大賞典 | GII | 京都 | 芝2400 | 良 | 7 | 後藤浩輝 | 3 | 失格 |
48 | 2001/10/18 | 天皇賞(秋) | GI | 東京 | 芝2000 | 重 | 13 | 武豊 | 3 | 7 |
49 | 2001/11/25 | ジャパンカップ | GI | 東京 | 芝2400 | 良 | 15 | 武豊 | 4 | 4 |
50 | 2001/12/16 | 香港ヴァーズ | G1 | 沙田 (香港) |
芝2400 | 良 | 14 | 武豊 | 1[10] | 1 |
1着 | 2着 | 3着 | 4着 | 5着 | 6着以下 | 失格 | 中止 | 合計 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
GI | 1 | 4 | 2 | 4 | 1 | 8 | - | - | 20 | ||
GII | 3 | 2 | 5 | 3 | 1 | 2 | 1 | - | 17 | ||
GIII | - | 1 | - | - | - | - | - | - | 1 | ||
重賞 | 4 | 7 | 7 | 7 | 2 | 10 | 1 | - | 38 | ||
OP以下 | 3 | 5 | 1 | 1 | - | 1 | - | 1 | 12 | ||
総計 | 7 | 12 | 6 | 8 | 2 | 11 | 1 | 1 | 50 |
*サンデーサイレンス Sunday Silence 1986 青鹿毛 |
Halo 1969 黒鹿毛 |
Hail to Reason | Turn-to |
Nothirdchance | |||
Cosmah | Cosmic Bomb | ||
Almahmoud | |||
Wishing Well 1975 鹿毛 |
Understanding | Promised Land | |
Pretty Ways | |||
Mountain Flower | Montparnasse | ||
Edelweiss | |||
ゴールデンサッシュ 1988 栗毛 FNo.1-t |
*ディクタス 1967 栗毛 |
Sanctus | Fine Top |
Sanelta | |||
Dronic | Worden | ||
Dulzetta | |||
ダイナサッシュ 1979 鹿毛 |
*ノーザンテースト | Northern Dancer | |
Lady Victoria | |||
*ロイヤルサッシュ | Princely Gift | ||
Sash of Honour | |||
競走馬の4代血統表 |
JRA賞特別賞 | |
優駿賞時代 | 1973 ハイセイコー(大衆賞) | 1978 テンポイント(マスコミ賞) | 1982 モンテプリンス(ドリーム賞) | 1983 アンバーシャダイ |
---|---|
JRA賞時代 | 1989 オグリキャップ | 1993 トウカイテイオー | 1995 ライスシャワー | 1998 サイレンススズカ | 1999 グラスワンダー、スペシャルウィーク | 2001 ステイゴールド | 2004 コスモバルク(特別敢闘賞) | 2007 ウオッカ、メイショウサムソン | 2009 カンパニー | 2016 モーリス | 2020 クロノジェネシス |
競馬テンプレート |
掲示板
745 ななしのよっしん
2025/01/12(日) 17:57:54 ID: eT55PmI17f
オジュウチョウサンも猫に夢中になってるあたりやっぱり血筋かw
>>sm44521170
746 ななしのよっしん
2025/03/14(金) 20:11:25 ID: x4jjjpLcgh
あれ、香港ヴァーズって2400mじゃなかったっけ(最後の方のレース一覧で2000mになってる)
当時は違ったんだっけ?
747 ななしのよっしん
2025/03/30(日) 11:48:37 ID: +RB3VuFSSi
本日の阪神4R障害戦で産駒のザスリーサーティがJRA初勝利!
提供: 舞茸おいしい
提供: kae
提供: エリン公
提供: googu01
提供: クロ
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最終更新:2025/04/01(火) 15:00
最終更新:2025/04/01(火) 15:00
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