88年、天皇賞(秋) 。
『芦毛の馬は走らない』
この2頭が現れるまで、人はそう言っていた。激突せよ。
タマモクロスとは、1984年生まれの競走馬、種牡馬。芦毛最強時代の一番手として登場した名馬である。実に浪花節な馬であった。
主な勝ち鞍
1987年:鳴尾記念(GII)
1988年:天皇賞(春)(GI)、宝塚記念(GI)、天皇賞(秋)(GI)、阪神大賞典(GII)[1]、金杯(西)(GIII)
1988年JRA賞最優秀5歳以上牡馬、最優秀父内国産馬、年度代表馬
1988年東京競馬記者クラブ賞、関西競馬記者クラブ賞
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この記事では実在の競走馬について記述しています。 この馬を元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては 「タマモクロス(ウマ娘)」を参照してください。 |
父シービークロス、母グリーンシャトー、母父*シャトーゲイという血統。シービークロスは「白い稲妻」とまで呼ばれた追い込みを得意とした人気馬。ただし、八大競走に限らず現代におけるGIクラスのレースには勝てておらず、種牡馬としても本馬の世代が初年度であった。
生まれた錦野牧場は中堅牧場だったが、錦野昌章代表は大きな野望の持ち主で、シービークロスの種牡馬入りに尽力するなど強い馬を造るべく大変な努力をしていた。しかしながら、サラブレッド生産というのは簡単に結果が出る世界ではない。頑張れば頑張るほど借金が転がるように増えて行く。タマモクロスが生まれたのはそんな頃だった。
錦野氏はタマモクロスを見て「これは走る!」と直感した。そして、この馬はきっと高く売れて、借金返済の助けになるだろうと期待したのだった。
ところが、ついた値段は500万円。実績の無い種牡馬シービークロスと、名血とは言い難い母の仔では仕方が無いところではあったか。
錦野牧場には既に億単位の借金があり、錦野氏は泣く泣くその値段でタマモクロスを売ったのだった。その後、錦野牧場はタマモクロスが活躍を始める前に倒産してしまう。タマモクロスの1歳下の妹ミヤマポピーもタマモクロスの才能が開花したのと同じ年にエリザベス女王杯を優勝しており、あと数年経営が持ちこたえられば違う未来もあったかもしれない。母のグリーンシャトーも他の牧場を転々とした末にマエコウファーム(現在のノースヒルズ)で死亡している。
デビューは3歳の3月で、かなり遅かった。これは、タマモクロスが非常に神経質で体質も弱く、十分な調教が積めなかったからである。だがここで惨敗し、3戦目のダート戦で初勝利を挙げたものの、その後も落馬事故に巻き込まれての競走中止があったりツキも良くない。
夏は北海道開催に向かうがここでも大きな変わり身はなく、秋シーズンは関西に戻ってきて3・3着と好走を見せたが、所詮は400万下(現在の1勝クラス)でのこと、要はイマイチから抜け出せない。
転機が訪れたのは秋も深まったころだった。勝ちきれない流れを断つために気分転換に芝を走らせてみようか、という話になって出走した京都芝2200mの平場400万下において、いきなりの変わり身を見せた本馬はほぼ追われることもなく7馬身差で圧勝。勝ちタイムは同日に同コースで行われた菊花賞トライアル京都新聞杯と比べても、斤量こそ2kg軽いとはいえ0.1秒速い。小原伊佐美調教師は狐につままれたような気がしたそうである。
この当時は同一開催中であれば斤量負担を増やすことで一度勝ち上がったクラスでも特別戦に限り出走できるルールがあった。「負かした相手が弱かった?」「たまたま何かの弾みで好走した?」という疑問を確かめるために中1週で京都芝2000mの400万下藤森特別を使ったら今度も8馬身差圧勝。周りの見る目が違い始めたのはこの時からである。
こうなりゃ連闘で菊花賞だ!という声もあったそうだが、小原師は先述のように決して心身が強くないこの馬のことをよくわかっていた。「ここで無理をさせたら絶対ダメになる」と生涯一度の出走チャンスを平然と見送り、タマモクロスを当時12月の阪神芝2500mで施行されていた鳴尾記念に出走させる。ここだって格上挑戦だ。しかも古馬混合だし。ただハンデ戦なので斤量は53kg、トップハンデとなる前年の菊花賞馬メジロデュレンは59kg。この差は大きい。上手くすれば初重賞というもくろみである。
いやいや、それどころではなかった。スタート出遅れたタマモクロスは4コーナーで馬群に乗り込むと一気に突き抜け、レベルの違う脚色で他を引き離したのだった。6馬身差、コースレコードの激勝。「おい! あれ! スゲェよ!」ファンはスタンドで騒然とした。
次は正月の金杯(西)。「なんで有馬記念に行かんの?」と思えるようなローテだが、タマモクロスは飼葉喰いが細く、レース後の消耗が激しい馬だったのだ。なので中2週で相手の強い有馬記念は、出走を直訴する競馬記者までいたがパス。しかし春の天皇賞を狙うなら内回り2000m(当時)の金杯ではなく外回り2200m(当時)の日経新春杯の方が良さそうなものだが、オーナーが「年のはじめの金杯で乾杯」と縁起担ぎを希望したためこちらに回った。
その金杯はスタートで後手を踏み、追走にも苦労する。直線入り口では他の馬がごちゃごちゃ前に壁を造っていた。こりゃあかんと鞍上の南井克巳騎手もあきらめかけた。ところが、そこから馬群を縫うように、とんでもない内から猛然と突っ込んで突き抜けたのである。えええ~??? 見ていたファンには何が起こったのか分からなかった。直線だけで15頭をごぼう抜き。「白い稲妻」の再来である。これで重賞2連勝。
次の阪神大賞典は超スローペース、そして直線で前が詰まりながらも物凄い根性で首を伸ばし、なんと完全に勝ちパターンだったダイナカーペンターとの同着優勝に持ち込んだ。中央競馬での重賞1着同着は9年ぶり。結果的に連勝街道で最も苦戦したレースとなった。
こうなればもう、天皇賞(春)ももらったようなものであった。レースでは、ここも内から一気の末脚を披露して「これはもう楽勝です」との実況を背に3馬身差でゴール。父・シービークロスも成し得なかったGI勝利を勝ち取ったのだった。表彰式、生産者を称える表彰台の上に人の姿は無かった。錦野牧場はこの時点で名前すら残っていなかったのである。なお、このレースでは鞍上の南井騎手もGI初制覇であった。南井騎手は直線でムチを28発も入れ、その勢いでゼッケンは割れていたという。
追われる者たちからすれば
その疾走は恐怖の影
ひたひたと背後まで迫り
彼らの天下を脅かす
続くは宝塚記念。ここには当時の中距離王ニッポーテイオーが出走しており、この距離ではニッポーか?ということでタマモクロスは二番人気だった。おいおい、タマモクロスが2500mでレコード勝ちしたのを忘れたのか? 実際、レースではニッポーテイオーを並ぶ間もなく交わして圧勝。ニッポーテイオー陣営は「全てが計算通りだったのに」「相手が強いとしか言いようが無い」と白旗を揚げるほか無かった。
前年の今頃は条件戦をうろうろしていた馬とは思えない強さで、タマモクロスは敵無しと言っても過言ではない最強馬の座に君臨したのであった。
・・・しかし、最大のライバルは思いもよらぬところから現れた。公営笠松競馬場というドマイナーな競馬場からやってきた芦毛の馬は、クラシック登録が無い腹いせに、重賞を荒らしまわっていたのだった。なんと重賞6連勝。古馬をも問題にせず、歴戦の猛者たちをことごとく粉砕していくその馬の名は、オグリキャップ。タマモクロスと同じ芦毛の馬を、ファンは脅威の目で見つめていた。そして必然的に思ったのである。
「タマモクロスとオグリキャップ、どっちが強いのだろう?」
その疑問に答える舞台がやってきた。この年の秋の天皇賞である。
タマモクロスはこの秋にGI3連戦を予定しており、体質的な問題もあって休み明けにステップレースを使わなかった。オグリは毎日王冠でシリウスシンボリを問題にせず圧勝している。順調さはややオグリ有利か? と思われていた。そのためか一番人気はオグリキャップだった。
このレース、驚いたことにタマモクロスはいきなり2番手に占位した。ええ? 追い込みの切れ味に定評があるタマモが? ファンは仰天した。そのまま直線へ。オグリキャップは絶好の手ごたえで外から追い込みに掛った。タマモクロスはなんか逃げたレジェンドテイオーを交わすのにも手間取っている?
いや、そうでは無かった。南井騎手はオグリが来るのを待っていたのだった。オグリが来るのを確認すると、タマモクロスにゴーサインが出される。すると瞬く間に加速してレジェンドテイオーを交わし、追い込んでくるオグリキャップを引き離す。懸命に追い込むオグリだが、1馬身1/4が永遠に詰まらない差に思えた。
そのままタマモクロスが優勝。天皇賞は長い間勝ち抜き制で一度勝った馬は出走権を失うというルールがあったとはいえ、そのルール撤廃後にあのシンボリルドルフでもなし得なかった史上初の春秋天皇賞連覇を果たしたのであった。ちなみにオグリキャップはゴール後、タマモクロスを物凄い形相で睨み付けて悔しがったそうである。
続くジャパンカップ。堂々の日本代表はタマモクロスだった。オグリキャップも出ていたが、ここはやっぱり外国馬が相手であった。レースでは直線入り口でペイザバトラーと並んで抜け出す形になったのだが、「タマモクロスは並ぶと強い」ということを事前にリサーチしていたペイザバトラーのクリス・マッキャロン騎手が、馬を思い切って内に切れ込ませてタマモと馬体を合わさせないという戦法に出た。タマモクロスはジリジリ追い込んだがペイザバトラーの2着。オグリキャップは3着。タマモクロスの連勝は8でストップしたのだった。
タマモクロスは有馬記念で引退が決まった。高齢の馬主が「タマモクロスの子供が見たい」と言ったかららしいのだが、結局、この願いは叶わなかった。
ここには最後の雪辱の機会に燃えるオグリキャップも出走してきていた。この時、昭和天皇の病状の悪化が伝えられており、このレースがおそらく昭和最後の有馬記念になると思われていた。そこで行われる芦毛対決。ファンの期待も最高潮だった。
しかし、ただでさえ体質が弱いタマモクロスは激戦続きの秋、もうボロボロだった。ステップレースを使わずにGIのみの出走とし、さらに関西と関東の往復を減らすために天皇賞の前からずっと東京競馬場に滞在し続けるなど、やれる限りの手は打っていた。ジャパンカップの後も栗東に戻らず、オグリキャップと一緒に美浦トレーニングセンターに滞在したのだが、なんとこれが裏目に出てしまい、慣れない環境で精神が参ってしまってカイ食いが進まない。正直、回避も考えられたというが、王者は挑戦者を迎え撃つのが義務。無理を押して有馬記念に向かったのだった。
レースではタマモクロスは出遅れ、それでも3コーナーから捲って外から先頭に並びかけた。しかし、そこで満を持して待っていたのが岡部幸雄騎手鞍上のオグリキャップ。秋の天皇賞とは逆の展開となり、懸命に追い込んだもののオグリキャップに半馬身届かない。
最後の最後でオグリキャップに名を為さしめたタマモクロス。しかし、負けて強し。タマモクロスに雪辱して、芦毛最強馬の後継に名乗りを上げたオグリキャップは、このあと、希代のアイドルホースとしての道を歩みだすことになるのである。
通算18戦9勝。しかしながら、本格化してからは一気に連勝街道を駆け上がったその姿は、正に白い昇り竜と言うにふさわしい戦績である。
灰色でなんか斑があり、身体は細くて牝馬みたい。およそ強そうに見えない馬であったが、兎に角追い出してからの加速と根性が凄い馬だった。首をグイーッと伸ばしながら必死に伸びてくるその姿は、どこか同情を誘うようであり、頑張って走っている感が物凄く漂っていた。
時はバブル。バブルは楽な時代と言われる事もあるが、同時に「24時間働けますか?」なんて言われて、サラリーマンは遊ぶ暇もなく必死にがむしゃらに働いた時代でもあったのだ。潰れた牧場からやってきて、下積みの苦労も悲哀も存分に味わい、レースではがむしゃらに必死に走る。そんな浪花節溢れる姿に、主に中年以上の競馬ファンは深い共感を覚え、声援を送ったのだった。
引退後、種牡馬となったタマモクロスは、カネツクロス以下の重賞勝利馬を多く出して頑張った。こういう真面目さも、なんというか古き良き日本の美徳を感じる。
GI馬こそ輩出出来ず、直系も既に絶えてしまったが、2022年に彼を母母父にもつナランフレグが高松宮記念を制している。今後も母系に入った彼の血が日本競馬を縁の下から支え続けることだろう。
2003年死亡。後継が残らなかったのは残念である。ちなみに競馬漫画の「みどりのマキバオー」の主人公ミドリマキバオーはこの馬がモデルであるとされている[2]。また、シービークロス、タマモクロス父子の愛称でもあった「白い稲妻」も競馬漫画「風のシルフィード」「蒼き神話マルス」に使われており、競馬漫画に縁のある馬だった。
オグリキャップは第二次競馬ブームの火付け役と言われているが、その人気は迎え撃つタマモクロスが厚い壁となって立ちふさがり、名勝負を重ねたからこそ高まったのだ。その意味で、タマモクロスは競馬新時代のきっかけになった名馬だったと思うのである。
シービークロス 1975 芦毛 |
*フォルティノ Fortino 1959 芦毛 |
Grey Sovereign | Nasrullah |
Kong | |||
Ranavalo | Relic | ||
Navarra | |||
ズイショウ 1968 芦毛 |
*パーソロン | Milesian | |
Paleo | |||
キムラス | *タークスリライアンス | ||
*ローヤルデイール | |||
グリーンシャトー 1974 栗毛 FNo.21-a |
*シャトーゲイ Chateaugay 1960 栗毛 |
Swaps | Khaled |
Iron Reward | |||
Banquet Bell | Polynesian | ||
Dinner Horn | |||
クインビー 1966 鹿毛 |
*テューダーペリオッド | Owen Tudor | |
Cornice | |||
コーサ | *ヒンドスタン | ||
*ミスチヤネル | |||
競走馬の4代血統表 |
父シービークロスは金杯(東)・毎日王冠・目黒記念(秋)など26戦7勝。
母グリーンシャトーは19戦6勝。タマモクロス以外の産駒にはエリザベス女王杯優勝のミヤマポピー(父カブラヤオー)がいる。
母父*シャトーゲイはケンタッキーダービー・ベルモントS優勝、プリークネスS2着など24戦11勝の名馬。アメリカでの種牡馬成績が振るわなかったため日本に輸入された。
JRA賞最優秀父内国産馬 | ||
優駿賞時代 | 1982 メジロティターン | 1983 ミスターシービー | 1984 ミスターシービー | 1985 ミホシンザン | 1986 ミホシンザン |
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JRA賞時代 | 1980年代 | 1987 ミホシンザン | 1988 タマモクロス | 1989 バンブービギン |
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1990年代 | 1990 ヤエノムテキ | 1991 トウカイテイオー | 1992 メジロパーマー | 1993 ヤマニンゼファー |1994 ネーハイシーザー | 1995 フジヤマケンザン | 1996 フラワーパーク | 1997 メジロドーベル |1998 メジロブライト | 1999 エアジハード |
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2000年代 | 2000 ダイタクヤマト | 2001 該当馬無し※1 | 2002 トウカイポイント | 2003 ヒシミラクル | 2004 デルタブルース | 2005 シーザリオ | 2006 カワカミプリンセス | 2007 ダイワスカーレット |
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※1.該当馬無しを除く最多得票馬はナリタトップロード。 | ||
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最終更新:2025/03/30(日) 16:00
最終更新:2025/03/30(日) 15:00
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