ヤエノムテキ 単語

24件

ヤエノムテキ

3.3千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

きと熱さと

拮抗するたち
せめぎあうたち
小さな油断
たちまち劣勢を招く

己のなかにある
きを絶やすな
熱さを静めるな

それは周囲を撃破し
勝ち抜くための
無敵となるものだから

JRA「名馬の肖像」ヤエノムテキexit

ヤエノムテキとは、1985年生まれの日本競走馬である。府中2000メートルでの異常な強さと、シヨノロマンへの片思いが有名である。

な勝ち
1988年:皐月賞(GI)、京都新聞杯(GII)、鳴尾記念(GII)
1989年:産経大阪杯(GII)
1990年:天皇賞(秋)(GI)

1990年JRA賞最優秀父内国産馬

曖昧さ回避 この記事では実在競走馬について記述しています。
このを元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては
ヤエノムテキ(ウマ娘)を参照してください。

※本の活躍した時代に合わせて齢を特に断りがない場合数え年表記(現表記+1歳)とする。

デビュー前

マルゼンスキー代替種牡馬として人気だったヤマニンスキールミスターは未勝利のさえないだが、イエローゴッドで、地味に血統がよかったので繁殖入りできたである。

牧場という浦川の小さな牧場で生まれたヤエノムテキは東の荻野男厩舎に入厩。しかし気性難でデビューは遅れ、4歳の2月にやっとデビューした。

この頃同期シヨノロマンに出会い、ひとめぼれしたが、まったく相手にされなかった。栗毛の四泊流星で格好いいのに

向かうところ敵なし

前述のとおりデビューは4歳の2月と遅れたが、ここの阪神新馬戦を圧勝し、次走400万下沈丁賞でも12身差もの大差で勝利した。

あまりに強いので営は皐月賞を狙ったが、条件戦を2勝しただけでは賞が全く足りなかった。

そこで沈丁賞から連闘で毎日杯に出走。さすがにだったらしく、ここは4着に敗れている。1着は後にライバルとしてヤエノムテキの前に立ちはだかったオグリキャップであった。

連闘の甲斐なく賞は足りないままだったが、ヤエノムテキは運よくに抽選をモノにして皐月賞に出走できた。さらにこれまた運よく大内1番を獲得。しかもこのシーズン中山競馬場コース修の皐月賞府中開催であった。

このうように幸運に恵まれまくったヤエノムテキだったが、実も十二分に持ち合わせていた。中不利を受けながらも好位でレースを展開し、最後の直線でぐんと伸び、3/4身差で見事に勝利。単勝25倍の大穴を開けた。

次走日本ダービー距離の壁にぶつかり4着、続く中日スポーツ賞4歳Sサッカーボーイに次ぐ2着と連敗で休養に入ったものの、9月に復帰するとUHB杯、京都新聞杯と連勝。菊花賞は10着だったものの、次走鳴尾記念を制し、10戦6勝、2着1回と素晴らしい成績で4歳のシーズンを終えた。

向かうところ敵だらけ

ここまで快調に飛ばしてきたヤエノムテキは、5歳初戦の日経新春杯を2着とすると、次走大阪杯を制し、5歳シーズンも順調な滑り出しをみせた。

恵まれ、運にも恵まれていたヤエノムテキだったが、ついていなかったのはライバルにも恵まれまくっていたことであった。

オグリキャップイナリワンスーパークリークの三強を中心に綺羅星のごとく現れる強ライバルを向こうに回してヤエノムテキはよく走ったが、この大阪杯以降は勝ちきれないレースを続けることになった。

宝塚記念イナリワンの7着、その後休養を経て秋の天皇賞スーパークリークの4着、有馬記念イナリワンの6着と、負け続きで5歳シーズンも終わった。

ムテキの舞い

東京
二千に咲いた
ムテキの舞い

JRA「ヒーロー列伝」No.31 ヤエノムテキexit

6歳になったヤエノムテキは、着は2着3着にまとまったものの、G2で惜敗を繰り返した。

しかし、安田記念からそれまでの戦の西浦騎手から岡部騎手に乗り替わると、オグリキャップの2着と健闘。宝塚記念も3着とし、以前よりは成績を向上させた。

さらに続く秋の天皇賞、最後の直線で中団から抜け出したヤエノムテキはメジロアルダン必死の追撃を振り切り、1分582のコースレコード優勝。悲願のGI2勝を達成した。

その後ジャパンカップでは見せ場なく敗退し、ラストランとして有馬記念に出走した。

オグリキャップにとってもラストランであり、中山競馬場には多くのミーハーファンが詰めかけていたが、ヤエノムテキは気性の荒さがもろに出て本場場入場直後になんと放レースも7着と見せ場なく終わり、現役を引退した。

ちなみにGI2勝の実績から引退式が検討されたが、余りに気性が悪いので営が断ったという逸話も残っている。

その後

引退後は種牡馬になり、5億円ものシンジケートが組まれたが、産駒が全く走らず、さらに安いシンジケートが組みなおされたが、やっぱり産駒は走らず、このシンジケートも解散してしまった。

当時は名の老後についての意識が低く、屋送りの危機したが、ファンの働きかけによってヤエノムテキはなんとか命拾いし、種牡馬を続けることができた。

その後2003年を最後に種付けはなく、2010年種牡馬引退。その後は日高スタリオンステーションで功労として余生を送った。2014年3月28日、腸閉塞により死亡享年満29歳。

競馬ブームった個性、ヤエノムテキ。最後まで運に恵まれであった。

血統表

ヤマニンスキー
1975 栗毛
Nijinsky II
1967 鹿毛
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Flaming Page Bull Page
Flaring Top
*アンメンショナブル
1970 鹿毛
Buckpasser Tom Fool
Busanda
Petticoat Palestinian
Sabana
ルミスター
1980 鹿毛
FNo.1-o
*イエローゴッド
1967 栗毛
Red God Nasrullah
Spring Run
Sally Deans Understanding
Mountain Flower
フジコウ
1964 黒鹿毛
*ソロナウェー Solferino
Anyway
マミドリ トサミドリ
フジサカエ
競走馬の4代血統表

クロスNearco 5×5(6.25%)、Menow 5×5×5(9.38%)

ヤマニンスキーは持込として日本で走り22戦5勝の条件だったが、すでに種牡馬として成功していた同・同マルゼンスキー代替種牡馬として繁殖入りした。産駒にはヤエノムテキのほかオークスライトカラーなど。
ルミスターは中央で3戦0勝。
イエローゴッドジムクラックS・2000ニートイアルS優勝のほか英2000ギニー2着など12戦5勝。産駒には英国に残してきた中に英2000ギニーが、また日本でも日本ダービーカツトップエースなど多くの活躍を輩出した。

関連動画

関連コミュニティ

関連項目

外部リンク

JRA賞最優秀父内国産馬
優駿賞時代 1982 メジロティターン | 1983 ミスターシービー | 1984 ミスターシービー |
1985 ミホシンザン | 1986 ミホシンザン
JRA賞時代 1980年代 1987 ミホシンザン | 1988 タマモクロス | 1989 バンブービギン
1990年代 1990 ヤエノムテキ | 1991 トウカイテイオー | 1992 メジロパーマー |
1993 ヤマニンゼファー |1994 ネーハイシーザー | 1995 フジヤマケンザン |
1996 フラワーパーク | 1997 メジロドーベル |1998 メジロブライト | 1999 エアジハード
2000年代 2000 ダイタクヤマト | 2001 該当※1 | 2002 トウカイポイント | 2003 ヒシミラクル |
2004 デルタブルース | 2005 シーザリオ | 2006 カワカミプリンセス |
2007 ダイワスカーレット
※1.該当しを除く最多得票ナリタトップロード
競馬テンプレート
この記事を編集する

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/04/25(木) 12:00

ほめられた記事

最終更新:2024/04/25(木) 12:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP