文政3年12月17日(1821年1月20日)、坊城俊明の五男に生まれ、のち中御門資文の養子になる。中御門家は藤原氏を祖に持つ勧修寺流の庶流で、家格は名家に属す。
幼少の頃から岩倉具視と仲が良く、岩倉の姉と結婚し義兄になる。
安政5年(1858年)3月の八十八卿列参事件に参加し、岩倉、姉小路公知らと通商条約締結反対の抗議活動を行う。
慶応2年(1866年)8月30日、岩倉村に蟄居中の岩倉具視と計画を練り、朝廷改革・諸侯の招集・蟄居中の公卿の赦免を孝明天皇に上奏した。(二十二卿列参事件)これにより孝明天皇の不興を被り閉門に処される。
慶応3年(1867年)3月29日、大赦があり参内を許されるようになると、岩倉、大久保一蔵らと共に「討幕の密勅」作成に関わる。
12月9日の王政復古により新政府が発足すると議定に就任。翌慶応4年(1868年)には会計事務総督を兼任。
明治2年(1869年)9月、賞典禄として永世1500石を授録。明治3年(1870年)12月、麝香間に祗候し、華族会館創設に携わる。
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最終更新:2024/09/18(水) 23:00
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