討幕の密勅とは、慶応3年10月14日(グレゴリオ暦1867年11月9日)、薩摩・長州両藩に下賜された、詔書とされる文書である。
慶応3年9月、薩摩、長州、安芸(広島)の三藩は、御所を制圧した上で京都・大坂・江戸で反乱を起こす「一挙奪玉」のクーデター計画を立てていたが、根強い薩摩藩内部の反対論の前に出兵が延期されていた。
10月8日、京都において小松帯刀・西郷吉之助・大久保一蔵の三人は、中山忠能・中御門経之の両公卿に討幕挙兵の為の「相当の宣旨」を要請したが、翌9日には長州藩士・福田侠平から大久保に対し「失機改図」、つまり機会を逃した為の計画の変更が伝えられた。
11日、小松・西郷・大久保の三者は、藩主・島津茂久自ら兵を率いての上京を要請するため、揃って鹿児島に戻る事に決めた。当初のクーデター計画には藩主の上京は予定されておらず、薩摩藩内部の反対論も無視できない状況であった。その渦中にあった14日、大久保と長州藩士・広沢真臣は正親町三条実愛と面会し、正親町三条から『討幕の密勅』を受け取った。
詔す。源慶喜、累世の威を藉り、闔族の強を恃み、妄りに忠良を賊害し、数王命を棄絶し、遂に先帝の詔を矯めて懼れず、万民を溝壑に擠して顧みず、罪悪の至る所、神州将に傾覆せんとす。朕今民の父母たり、是の賊にして討たずんば、何を以てか上は先帝の霊に謝し、下は万民の深讐に報ぜんや。此れ朕の憂憤の在る所、諒闇にして顧みざるは、万巳むべからざるなり。汝宜しく朕の心を体し、賊臣慶喜を殄戮し、以て速かに回天の偉勲を奏して、生霊を山岳の安きに措け、此れ朕の願、敢て惑懈すること無かれ
奉
大久保と広沢の二人はこの文書を受け取り、西郷・小松・大久保、広沢・福田・品川弥二郎の書名した請書を提出。17日に6名はそれぞれ帰国の途についた。21日、中山・中御門・正親町三条の三人は大政奉還によって討幕の大義名分が失われたとして中止の沙汰書を出した。
この密勅は、小説を始めとするフィクションでは「大政奉還の機先を制して討幕の挙兵を起こすため」のもので、大政奉還の実現によってそれが頓挫したと語られることがある。だがこの見方は当時の政治情勢を反映したものとは言えず、実態としてはそう単純なものではない。
密勅降下の経緯として、まず10月8日にクーデター計画を正当化するための宣旨の要請があったものの、9日にクーデター計画は中止されており、その後この『討幕の密勅』が降っている事から、この密勅は武装蜂起後の自らの正当性を天下に向けて公表するためのものではないと思われる。[1]
また、この当時薩摩藩では出兵を巡って議論が紛糾しており、島津一門で藩主茂久の弟でもある島津久治は国元の鹿児島で出兵に強く反対していた。[2]京都においても家老の関山糺が出兵反対の立場で小松帯刀と激論しており、八月十八日の政変の活動で知られる高崎正風も強く反対していた。こうした内部の反対意見を抑えて藩主の卒兵上洛を実現するため、慶喜討伐を指示する詔書が必要であった。[3]
小松・西郷・大久保の三人は、大政奉還の実現を見届けた後に密勅を携えて鹿児島に戻り、この密勅によって島津久治ら反対派を抑えた上で軍事力の動員を可能とし[4]、次なる計画である王政復古の政変に向けて動き出したのである。
この文書を起草したのは当時岩倉具視の側近だった玉松操で、中山忠能が明治天皇に密奏し、宸裁(天皇の裁可)を経て正親町三条実愛から大久保一蔵、広沢真臣の両名に降されたとされる。だが、この件については特に物証がなく、中山も明治天皇の外祖父という以外地位があったわけでもないため、明治天皇と本当に面会することができたのかどうか疑問視されている。そのためこの詔書は天皇の裁可を受けていない偽勅であるとする説が有力である。
明治中期、嵯峨と改姓した正親町三条実愛はこの件に関して問い合わせを受け、次のように答えている。
問 討幕の勅書を薩長二藩に賜わりしは、如何なる次第に候や。
答 余と中御門の取計なり。
問 中山公の御名もあり、是は如何なる次第に候や。
答 中山故一位は名ばかりの加名なり。岩倉が骨折たり。
問 右は二条摂政、または親王方にも御協議ありしことにや。
答 右は二条にも親王にも、少しも洩らさず。極内のことにて、自分等三人と岩倉より外、知るものなし。
問 勅書と称するもの綸旨との違いは如何に候哉。
答 薩長に賜わりしは綸旨と云うべし。(『大久保利通文書』)
『討幕の密勅』を薩長に下賜したのは自分と中御門経之である事、中山忠能が加わったのは名ばかりのもので、岩倉が協力していた事、三人と岩倉以外は知らない事だったと回答している。
また、この密勅は綸旨であるとも回答している。綸旨とは天皇の側近が、その意向を受けて発行する文書であるが、『討幕の密勅』は天皇自らが命じたかのような文体であり、綸旨の文体とは異なる。更に天皇のサインである御画日(日付)と御画可("可"の一字)も無い。[5]
ただ、この密勅を偽勅と断定することは出来ないとする見解もある。歴史学者の原口清によれば、中山忠能の日記には「相当の宣旨」要請を受けた後の10月10日と12日に参内を示す記述があり、そこに密奏を思わせる記述がある事や、『討幕の密勅』の実施が延期した事を天皇に伝えたとする箇所がある事などから、密奏が実際に行われた可能性もあるとしている。[6]
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最終更新:2024/12/22(日) 14:00
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