正親町三条実愛 単語

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正親町三条実愛とは、幕末卿である。

概要

文政3年(1820年)10月30日正親町三条実義の子に生まれる。

安政5年(1858年)3月12日岩倉具視大原重徳らの計画した条約勅許反対運動(八十八卿列参事件)に参加。安政の大連座し、10日間の慎の処分を受ける。

万延元年(1860年)6月、議奏に任じられ、和宮降に関わる。長州士・長井雅楽の航遠略策を支持していたが、薩摩島津久光上京すると薩摩替えした。

文久2年(1862年)、事御用掛に就任。

文久3年(1863年)1月22日、儒学者の池内大学が尊攘に暗殺され2日後にその正親町三条邸に投げ込まれた。恐怖した実は27日に辞職、失脚したが8月18日の政変後は復職。薩摩と同調し、佐幕二条斉敬・朝彦親王らと対立した。

慶応2年(1866年)10月岩倉の計画した二十二卿列参に加担したとして孝明天皇から勅勘を受けて閉門処分となる。

慶応3年(1867年)3月孝明天皇崩御に伴う大赦によって議奏に復職。

岩倉中山忠能中御門経之と共に王政復古を画策して「討幕の密勅」作成に関わり、10月14日に自邸で大久保利通と広沢臣に渡した。12月9日王政復古の政変により議定に就任。以後内事務総督や刑部卿など新政府の要職を歴任。

明治3年(1870年)、嵯峨実愛と改名。明宮(大正天皇)の御用掛などを務めた。

明治42年(1909年)、薨去。享年90。

正親町三条の残した『嵯峨実愛手記』は幕末史の重要文献とされている。

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