藤原氏 単語

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フジワラシ

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藤原氏とは、氏姓のひとつであり、おそらく日本の氏族の中で一、二を争うほどの有名なものである。

概要

中臣足に始まる日本を代表する貴族である。その後藤原不等の登場と、その子藤原武智麻呂(南)、藤原房前(北)、藤原合(式)、藤原麻呂)の四兄弟への分化。その後それぞれのの争いの後の北勝利、そして摂関政治の発達と歩みを同じくし、藤原道長藤原頼通子の代に頂点に到達。以後武士の時代になりつつもそれぞれの職を務め、有職故実の伝授と政治への依然保たれた力によって明治維新まで続いていき、族制度への抱合。そして現代にもなお跡の残る彼らのことである。

しかし、実際のところ藤原氏、という氏族がどのような歩みを経てきたかはあまりピンとこない人も多いかもしれない。そこでいささか長くなるが、その歩みを記していきたいと思う。

藤原氏のほんとにざっくりとした略系図

  • ‖:養子 / 下線付き:養子に行った人物
中臣常磐
中臣可多
中臣御食子 中臣 中臣糠手子
中臣 中臣 中臣 中臣
<中臣氏> <大中臣氏> <中臣氏>
藤原不比等 中臣 中臣意美麻呂 中臣大島
<南> <北> <式> <>
藤原武智麻呂 藤原房前 藤原 藤原麻呂
<名流>
藤原 藤原
<山蔭・利仁流> <四条流> <秀郷流>
藤原麻呂 藤原 藤原末茂 藤原
<日野流>
藤原 藤原
+
藤原長良 藤原良房 藤原良門
<高倉流> <勧修寺流> <壬生流>
藤原基経 藤原清経 藤原基経 藤原 藤原利基
<本院流>
藤原 藤原
<小野宮流> <小一条流>
藤原実頼 藤原 藤原師尹
+
<世尊時流> <河流> <法性寺流> <閑院流>
藤原伊尹 藤原兼通 藤原兼家 藤原 藤原
+
<瀬流> <> <兼流>
藤原道隆 藤原道綱 藤原道兼 藤原道長
<中御門流> <御子左流>
藤原頼通 藤原頼宗 藤原
藤原師実
+
<山院流> <山院流> <山院流>
藤原師通 藤原 藤原経実 藤原忠教
<室町>
藤原忠実 藤原
<宇治>
藤原忠通 藤原頼長
<近衛> <殿> <九条> <高野>
藤原基実 藤原基房 藤原兼実 藤原兼房
近衛基通 九条良経
近衛 九条
<鷹司> <二条> <鎌倉将軍> <一条>
近衛兼経 鷹司 九条教実 二条良実 藤原頼経 一条実経

乙巳の変と中臣鎌足

藤原氏の祖といわれるのが中臣足(中臣子)である。中臣氏とは、古代日本において、忌部氏とともに神事・祭つかさどった中央族で、姓は連であった。当然かつて物部氏とともに仏教の受容に反対したが、いつの間にか蘇我氏側に替えし命脈を保った存在である。

しかし、蘇我氏や大伴氏、物部氏と違いあくまでも中流の氏姓であり、彼は決して政治の中心に躍り出る存在ではなかったのである。しかし動の際情勢のなか中臣足は中央集権化の野心を抱き、諸皇子に接近。蘇我氏本宗の権力拡大で身の危険を感じていた中大兄皇子、および蘇我山田石川麻呂蘇我氏庶らと連携し、蘇我氏本宗を645年のの変で族滅させたのである。

そして中大兄皇子、つまり天智天皇とともに大化の改新(一時期はなかったんじゃね、といわれていたが最近拠が見つかった)を推進。大王との個人的結びつき、つまり後に代々引き継がれる天皇とのミウチ的結合によってのみで内臣になり、藤原という氏姓を与えられたのである。

こうしてただの一中小族から、日本一貴族の歩みが始まったのだ。

藤原不比等の登場

その後藤原氏は、足の又従兄弟中臣金が大友皇子に仕えていたが、672年の申の乱によって最期を共にし、足の次男の不等が大海人皇子、つまり後の天皇の臣下として登場する。

当時はまだ藤原大島藤原意美麻呂ら他の中臣氏の人々も藤原を名乗っていた。しかし、不等は蘇我氏を婚姻関係で取り込み、文武天皇の即位によって、持統天皇との協力関係を構築し、天皇とのミウチ的結合を推進。不等の系統以外を神事にのみ関わる中臣氏に戻し、自身の系統のみを政治に携わる藤原氏としたのである。こうして高い地位についた藤原不比等覇権を築き、議政官制度と蔭位制の整備によってその地位は子孫に至るまで不動のものとなったのである。

そして聖武天皇の即位を成功させ、彼の息子たちが上位の官職で出仕を始める奈良時代に移っていくと、不等は亡くなり藤原四子の時代へと移っていく。

主な分流

大中臣氏

上にも書かれているように、藤原不比等以外の系統はすべて神中臣氏に戻された。

藤原麻呂の乱もあって意美麻呂息子、清麻呂は大中臣の氏姓を与えられ昇進を重ねたが、彼が一の例外に近く、以後彼ら大中臣氏は神伯や伊勢世襲していき、嫡流は堂上公家を名乗って現在まで続いている。

藤原四家と奈良朝の政変

等の死後最初に権勢を得たのは皇族の長屋王である。不等の息子である、藤原武智麻呂藤原房前、藤原合、藤原麻呂藤原四子はこのことに危機を覚え、長屋王の変で危険分子を一斉に排除する。こうして聖武天皇皇后として、藤原氏系の明子を立て藤原四子体制を築く……のだが、737年に疫病の流行により兄弟全員死亡。嫡流とされる武智麻呂の子・南藤原豊成もまだ従四位下という、ようやく出世街道を歩み始めたばかりの段階であった。

こうして藤原氏に代わって、賜姓貴族政権が誕生する。式藤原広嗣はこれに反発し740年に乱を起こすが失敗。こうして藤原氏の危機が再度訪れたのだが、藤原豊成の・南藤原麻呂が登場し、明子と連携。聖武天皇の死によって反仲麻呂が後ろを失うと、の死後にその子である奈良麻呂を757年の奈良麻呂の変で排除。仲麻呂の独裁体制が始まる……のだが道鏡の登場によって、藤原麻呂は764年の恵美押勝の乱で排除されることとなった。

こうして仲麻呂の死後、南は一時衰退、北藤原永手、藤原楯がかろうじて枢要の地位にあり、式は広嗣の乱で低調、は実質的に藤原足しかいない状態だったのである。しかし道鏡支援していた称徳天皇の死によって、道鏡は追放。天皇は自分の即位に功績のあった式藤原良継を重用する。しかし藤原蔵下麻呂藤原良継、藤原といった式の中心人物が相次いで死去。北藤原名が代わって権勢を握り、桓武天皇の即位とともに北が勃する……のだが賜姓貴族の氷上川継の乱が発覚し、名は左遷。加えて藤原成も連座し失脚。

こうして式が復権し、藤原種継の専制が始まるかと思いきや、長岡京への遷都事業中の785年に暗殺。暗漂う中平安時代へと移っていく。

長々と個人名が出てきて分かりづらいので要約すると、奈良時代とは藤原不比等によって高められた藤原氏の権勢は、なおもまだ不安定な時期だったのである。

主な分流

京家

もともと質量ともに弱体であったため、782年の藤原成の失脚後は、孫である藤原緒がかろうじて大納言まで上り詰めた程度であった。その後文化人を多く輩出し、の祖とされる藤原貞敏、和歌の藤原、和歌・舞楽の藤原忠房などが知られる。

なお直江兼続直江氏はの子孫らしいが…

北家魚名流

長男藤原取の子孫は山蔭流、利仁流となり、山蔭流の藤原中正は藤原兼家の妻・時であったことからそれなりの高位高官についたほか、安達氏や伊達氏を輩出、利仁流も軍事貴族成立以前の武者のとして斎藤氏を輩出している。

藤原成の子孫がかの有名な藤原秀郷であり、軍事貴族・秀郷流藤原氏として小山氏など多くの武を輩出する。

一方藤原末茂の子孫は院政期に勢力を伸ばし、四条流、もしくは善性寺流として堂上公家に復帰している。

平安朝成立と北家の覇権の確立

藤原種継の暗殺後は、南藤原藤原継縄、藤原雄友、北藤原麻呂らが導権を握り、式も後宮に強い地歩を築いているなどこれまでにべて藤原氏の動揺は少なかった。そしていよいよ平安京へと都が遷る。

そして桓武天皇の死後、平城天皇が即位する。平城天皇政治やる気を見せる中、伊予王の変が起きて南がとうとう落してしまった。さらに嵯峨天皇の代になると、いわゆる810年の「子の変」がおき、専制的だった上皇運営から排除。変はあっけなく終わり、式藤原仲成、藤原子、そして北藤原麻呂長男であった藤原らにも刑がおよび、式落してしまう。

こうして嵯峨になって北藤原嗣が権勢を得、ようやく北政治導する平安時代が形になったのである。

主な分流

南家

奈良時代に嫡流として権勢を得、平安時代の本当に初期も初期になお活躍が見られた南だったが、807年の伊予王の変で落してしまう。藤原豊成の子孫は受領を歴任する中小貴族に、藤原麻呂の系統は為流藤原氏として、工藤氏、二階堂氏、伊東氏、狩野氏といった武士に、藤原巨勢麻呂の子孫は信西などが知られる学問のである貞嗣流藤原氏や兵のとして知られる麻呂流藤原氏などになっていった。

高倉範季の子孫が堂上公家高倉(藪)となったため北以外の藤原氏では立つ存在となっている。

式家

平安時代初期に権勢を誇ったが、藤原佐世、藤原緒嗣、藤原藤原忠文、藤原明衡といった人々がぽつぽつと出た以外は、ぱっとせず、鎌倉時代以降は全に落してしまった。

の中には渡辺遠藤氏、大和井戸氏らが藤原忠文の子孫を称している。

北家日野流

藤原嗣ので、子の変で落した藤原の系統。とはいえ、儒と歌朝廷に仕え、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて政治史の表舞台に現れた。その後室町幕府との姻戚関係を結び、日野富子が極めて有名である。

摂関政治の確立と北家による他氏排斥

藤原嗣の後はその次男である藤原良房が跡を継いだ。良房は恒貞王を旗印にした謀反を企てたとして伴健岑、逸勢らを配流にした承和の変で、両皇統の迭立状態になっていたのを、嘉智子、仁明天皇の思惑通り、文徳天皇の擁立に成功。藤原氏内部でも良房の優位が確立し、北覇権がついに確定したのである。857年には良房は太政大臣となり、858年には幼い清和天皇の即位で、事実上の摂政になった。

藤原良房には子がいなかったため、そのである藤原長良の子・藤原基経が養子として跡を継いだ。そして866年に応天門の変が起きる。この事件の相は全く不明であるが、とりあえず伴善男が流罪となり、事件処理後に基経は摂政になった。

陽成天皇の代になると、彼は長良流の藤原高子の子であるため、基経はミウチ関係にないことから政務をボイコットしはじめる。こうして陽成天皇はあっけなく降ろされ、代わって光孝天皇が即位する。基経は884年に事実上の関白に就任したものの、老齢の光孝天皇は本来清和天皇と基経のである藤原佳珠子の子・貞王の中継ぎに過ぎなかった。しかし、その後光天皇息子である宇多天皇が即位。基経は、なんとか887年に衡の紛議を起こして広相の追放と関白政治的地位を確立させ、まもなく亡くなった。

主な分流

北家高倉流

基経の実家である藤原長良の子孫。長い間地下として雌の時を過ごしたが、室町時代衣服として天皇将軍に重用され、堂上公家に復帰している。

北家内の抗争と摂関家の確立

藤原基経の跡を継いだのはまだ若い藤原である。宇多天皇はこの状況に対し政を行い、菅原道真が重用された。それは次代の醍醐天皇の治世でも変わらず、摂関はずっと置かれなかったのである。しかし、901年の泰の変で菅原道真が左遷、醍醐天皇の外祖である藤原の系統も高、その子・藤原ともに官職が低いため対抗勢力になりえず、時の権勢が万全となったのである……ところが時はすぐに亡くなり、藤原が跡を継いだ。

そして朱雀天皇の代についに藤原は摂関となった。しかしその村上天皇の代には藤原氏に摂関にふさわしい高位の人物がおらず、再び文人貴族が重用される政が行われたのである。この時期政権を担当したのは忠息子である藤原実頼、藤原らである。冷泉天皇の即位によって二人はなんとか天皇のミウチになろうと苦心し、途中政敵の高明を排斥する969年の安和の変を経て、円融天皇の即位によって藤原藤原伊尹の系統・九条流が嫡流となったのだ。

しかし今度は九条流のなかで藤原兼通、藤原兼家兄弟の対立が起きる。兼通の方が先に摂関となり、死の間際についには藤原実頼の系統・小野宮流の藤原頼忠に摂関と長者の座を譲ってしまったのだ。しかし花山天皇の代に成人天皇、ミウチではない関白藤原頼忠、藤原伊尹の子で地位の低い外戚・藤原義懐、大臣ではない天皇の姻戚・藤原といったイレギュラー事態に陥った結果、藤原兼家クーデターまがいの天皇退位劇によって一条天皇が即位し、ついに兼流の優位が確定した。

藤原兼家を継いだのは、長男藤原道隆、つまり中関白である。ところが995年に藤原道隆藤原道兼の疫病の流行による死によって、突然藤原道長にふってわいたように摂関就任が回ってきたのである。の子である藤原周、藤原隆家ら中関白はこれに反発するが、大局は変わらず、長徳の変によって彼らは排除されたこともあり、以後長の御堂流が摂関を務めていくのである。

藤原道長は生前に息子藤原頼通に摂関の座を譲り、頼通の代は長期政権となったが、頼通、および藤原教通はともに天皇の外戚となることはできなかった。そして摂関政治終焉が近づいてきたのである。

主な分流

北家勧修寺流

藤原良房の藤原良門の子で、宇多天皇醍醐天皇の外戚となった藤原の子孫。藤原藤原定方が高位についたものの以後振るわなかったが、院政期に白河院によって取り立てられ、堂上公家に復帰している。

ちなみに関東管領を代々務めた上杉氏は元はここ出身の貴族である。

北家壬生流

兄弟藤原利基の子孫。鎌倉時代前期までは追うことができ、平家政権を支えた藤原邦綱らを輩出した。

北家本院流

本文にもある通り、かつての嫡流だった藤原の子孫。時に加え息子世代も霊の祟りか世が相次ぎ、忠の子孫が栄えていく中ひっそりと断絶していった。

北家小野宮流

本文にもある通り、かつての嫡流で摂関を任じられた藤原実頼、藤原頼忠の子孫。藤原実資藤原公任藤原資仲、藤原通俊ら故実に通じた人物を輩出し「日記」として存続していった。

北家小一条流

藤原実頼、藤原らの藤原師尹の子孫。安和の変後高位に就くもすぐに亡くなり、割とパッとしない一門であった。

…のだが、分は三国司でおなじみの飛騨姉小路であり、実は結構なじみ深い一門だったりする。

北家世尊寺流

藤原兼通、藤原兼家らの藤原伊尹の子孫。尹の孫・藤原行成に始まるが、さらにその孫の藤原房が密貿易で失脚し、書道としてかろうじて公家社会にとどまっていた。なんやかんや生き残っていたが、室町時代末に断絶することとなった。

北家堀河流

藤原兼家と摂関の座を争った藤原兼通の子孫。当然その後は振るわず、あっけなく歴史の表舞台から消えていった。

本多氏はここの出身とされるが…

北家法性寺流

藤原兼通、藤原兼家らの花山天皇の時代に姻戚となった藤原の子孫。当然花山天皇の失脚後は振るわず、歴史の表舞台から消えていった。

北家閑院流

藤原兼通、藤原兼家らの藤原季の子孫。院政期に天皇の外戚となり政治史の重要な局面に関わり、堂上公家として重きをなした。

北家水無瀬流(中関白家)

本文にもある通り、藤原道隆の子孫。藤原周の系統はくに絶えたものの、藤原隆家の系統は院政期に院近臣として活躍し、堂上公家に復帰している。

北家道兼流

七日関白こと藤原道兼の子孫。武では宇都宮氏や小田氏がここの子孫らしいが…。

楊梅家

藤原兼家息子で、母親が有名な藤原道綱の子孫。分平松ともども室町時代までは堂上公家にあったようだが…。

北家中御門流

藤原道長次男・藤原頼宗の子孫。長の子であるものの、後三条天皇の即位に尽力し摂関政治を終わらせるきっかけとなった一門である。その後も院政を支え、鎌倉時代室町時代政治史にかなり顔を出す。

北家御子左流

藤原道長六男・藤原の子孫。藤原俊成藤原定家を輩出し、歌として重きをなした。

ちなみに那須与一でおなじみの那須氏はここの子孫を称している。

院政期と摂関家の成立

1068年の後三条天皇の即位によってついに摂関を外戚としない天皇が即位してしまった。彼は中御門流藤原氏や日野流藤原氏、村上源氏大江氏といったそれまで中小貴族であった受領、文人官僚らを登用していったのである。後三条天皇後、白河天皇は本来中継ぎであったにもかかわらず、自分の系統を皇位として維持しようとし、院政が始まったのである。

一方摂関藤原頼通藤原教通、藤原彰子らが相次いで亡くなり、頼通の息子藤原師実、教通の息子藤原信長の間で関白継承争いが生じた。結局師実が関白に、信長が太政大臣につくことによって、師実の勝利で終わったが、白河上皇に宮廷内の導権を握られてしまう。

師実の息子藤原師通は天皇とともに白河上皇に対抗しようとしたが、若くして亡くなり、子の藤原忠実はわずか22歳で官位もまだそこまで高くはなかったのである。閑院流を外戚とした鳥羽天皇の即位によって、忠実は白河河、鳥羽ともミウチ関係にない状況に陥ったのである。こうして摂関は形骸化し、外戚であることと分離された摂関が成立したのである。

主な分流

北家花山院流

藤原師実庶子の山院忠、大炊御門経実、難波忠教の三人に始まる一門。分流して後上位公家として活躍し、天皇や院の側近として活躍する人物が多い。

武家の台頭と五摂家

藤原忠実は白河院からの姻戚関係を結ぶ誘いを断り、また鳥羽天皇と協力して入内をもくろんでいたことから居させられてしまう。跡を継いだのは藤原忠通であったが、1129年の白河院の死によって忠実は復帰することとなる。これが非常にややこしいことになり、忠通に息子がいないことを知った忠実は、忠通の藤原頼長を養子にさせる。ところが忠通に藤原基実が生まれるのである。この結果督をめぐる騒動があり、忠通が摂関、頼長が氏長者になるのである。

やがて鳥羽院が亡くなると1156年に保元の乱が起きる。摂関藤原忠通の下に一本化されたものの、その権威、および権力基盤を多く失うこととなった。一方でこれまで摂関をめぐる争いを脱落していった庶院政の発達によって権力の座を握っていくのである。

平治の乱後、摂関藤原基実が継ぐが若くして死んでしまう。平清盛は摂関に近づき、その子である藤原基通(近衛)に継がせようとするが、後白河院は基実のである藤原基房(殿)を摂政とする。しかし、1179年、治承三年の政変後白河院院政が停止されると、基通がようやく関白になるのである。そして、源義仲が入すると、基房の子・殿が摂関に、源義経による義仲討伐後は、再び基通に、やがて傍流とされていた藤原兼実九条)が源頼朝によって議奏に選ばれ摂関に、といった具合に武政権によって人事への介入が行われるのである。

1195年、村上源氏源通親土御門通親)の養女・在子が土御門天皇を生むと、建久三年の政変が起き、九条兼実は摂関を追われ、再び近衛基通が復帰する。こうして摂関は近衛流と九条流が争うこととなる。九条鎌倉幕府と結びつき、さらに後天皇の外戚になるなど権勢を誇ったが、それももはやほとんど意味はなく、あっけなく近衛実に譲らされている。関白に復帰すると四条天皇の即位によって九条教実を摂政とするが、教実は若死にし、が再び外祖摂政となる。

1242年にはついに天皇位まで幕府によって裁定され、後嵯峨天皇が即位する。1246年の宮騒動で九条、摂関・一条実経、将軍藤原頼経らは失脚。その後摂将軍に代わる王将軍の登場によって摂関と幕府の結びつきが途絶え、その後の摂関の座も、幕府の意向によって近衛兼経が選ばれる。こうして息子九条教実、二条良実、一条実経の、九条二条一条近衛実の息子近衛兼経、鷹司の、近衛鷹司の五摂が成立する。その後豊臣氏である豊臣秀次の例外[1]を除き藤原氏の五摂が代々摂関を務めていくのである。

主な分流

室町家

藤原忠実の藤原政の子孫。政自身くに亡くなり、子孫も分の法性寺ともども室町時代に断絶してしまった。

宇治家

藤原頼長の子孫。頼長の後も頑ってはいたのだが、平家政権の成立によってあえなくリタイアしてしまった。

松殿家

本文にたびたび登場した摂関を構成していたはずのもう一つの一門。しかしそれ以降せいぜい権大納言を出す程度のにとどまり、戦国時代に断絶している。

高野家

一応近衛九条、そして殿の他に四男の藤原兼房に始まる高野がいたが、特に摂関を輩出することもなく々と断絶している。

五摂家に分かれて以降

もはや摂関であることは政治的事件にほとんど関与せず、関白相論程度の出来事しか以後生じることはなかった。しかし中近世の藤原氏についても多く語ろうとすれば可であり、皇族の血などが混ざりつつも、彼らは幕末の動乱を経て、維新後も族として、戦後も伝統的権威として今もなお続いているのである。

主な分流

近衛家

流の嫡流…なのだが上に書かれた通り、時の武政権の都合で摂関の座がコロコロ移った結果、その座を継承できた側面もある。

鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて、二流に分裂し、両に分かれて争っていった。戦国時代には将軍の縁戚になったことをはじめ、近衛前久政治的理由から各地を流浪したこと、近衛信尹が関白相論を起こして羽柴秀吉の摂関簒奪を招き、そのことへの反発から朝鮮出兵に加わろうとして失敗したこと、など摂流の中でも一番名前が出てくるといってもいい。

その後近衛信尹には子息がおらず、甥で後陽成天皇の子息である近衛信尋が跡を継ぎ皇別摂となった。

維新後は首相となった近衛文麿が何よりも有名であろう。

九条家

流の傍流だったが、上に書かれた通り、源頼朝との関係で、突如摂関のポストがまわってきた。その後九条子が朝廷と幕府をろうとして失敗したのは上に記載した通りである。

戦国時代を手打ちにし、荘園に降って荘園経営を行い、その記録を残した九条政基が有名である。江戸時代世が多く、養子が何度か入ったが断絶には至らず、幕末の佐幕の代表人物である九条尚忠を輩出した。この結果嫡流である近衛よりもが上がっている。

維新後は九条孝がたちを皇室がせ、「陛下の御生」となり、その子・九条実もその権勢から依然として公家生活を送っていたようだ。現在平安神宮である。

二条家

九条から分立。初代の二条良実は父親九条と仲が悪く、西園寺護によって摂関の座に就いた経歴の人物である。近衛と同じく南北朝に分かれたが、北二条良基の系統が以後続いた。

政権には最も近い存在であり、室町時代以降は代々将軍から偏諱を賜った。また朝廷では天皇の即位頂の儀をる役を独占していった。

幕末には二条斉敬が近衛忠熙とともに、合体として八月十八日の政変を起こすなどの活動を行い、また日本史上最後の関白となった。

維新後は政治活動に従事した二条アイコノスコープ研究に携わり、伊勢神宮大宮も務めた二条弼基らを輩出した。

一条家

九条から分立。九条では一番下のだったものの九条され、そのことが後々九条一条のどちらが嫡流かという争いを数年にもわたって生じさせることとなった。

室町時代一条兼良戦国時代一条教房に始まり一条兼定に終わる土佐一条が有名である。

近衛同様江戸時代初期に一条内基が子息を残さずに亡くなり、後陽成天皇の子・一条昭良が跡を継ぎ皇別摂となったほか、昭良の一条基が新である醍醐を創設した。

維新後は明治天皇皇后・昭皇太后を輩出し、一条一条実孝、一条実文の三代にわたり海軍軍人となった。

鷹司家

近衛から分立。

戦国時代鷹司が子息を残さずに亡くなり一度断絶。しかし、織田信長支援もあって、二条晴良から養子を迎え、鷹司信房が再した。信房の子鷹司信尚の系統が以後続いていったことに加え、鷹司は、鷹司孝子が徳川家光の正室であったために、名乗り旗本となり、子孫は最終的にはになるまで出世している。

維新後は日本学会を結成した鷹司が有名である。現在伊勢神宮大宮を務めている。

関連項目

脚注

  1. *豊臣秀吉近衛前久の養子になって当時藤原氏を名乗っていたため、地味に該当しない
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