斎藤憲次(さいとうのりつぐ 生没年不詳)とは、上野国の戦国武将である。斎藤憲国の子。弟に佐藤憲定。子に斎藤憲広がいる。
岩櫃斎藤氏は藤原秀郷を祖とする一族と称している。
しかし、実態は複数の系図があり、判別がつかない。
上杉禅秀の乱(1416年)に斎藤憲行という人物が参加しているが、彼は尊卑分脈では十三世孫、吾妻郡城塁史所収系図では二十一世孫とされている。藤原秀郷が平将門の乱のあたりに活動していた人間なので、どちらの系図の可能性もある。(前者は世代間平均39歳、後者は世代間平均23歳)
ともかく、斎藤憲行は1405年に岩櫃へと移動してきて、それ以前に当地を治めていた吾妻氏に取って代わったらしい。以後は山内上杉氏の傘下として活動し、戦国時代へと至る。岩櫃城自体は憲行が築城したとも、吾妻氏時代から存在したとも言われ諸説あり。
憲次は憲行の四男・山田基政の孫にあたる。初めは岩下城主であった。
岩櫃斎藤氏の宗家は当然ながら憲行の長男・憲実の家系であったのだが、五男・大野憲基に始まる家系(大野氏)が早々に宗家を凌ぐ勢力を見せており、斎藤宗家を傘下におくようになった。憲基の孫・大野義衡の代には他の家臣を排除して岩櫃城の主と化した。新田岩松氏を牛耳っていた横瀬由良氏に近づいたからとされる。
憲次の頃には義衡の孫・大野憲直が岩櫃城の主となっていたが、憲次はどうやら宗家や大野氏にとって変わりたいという野望を抱いていたようである。
大永年間(1521~1528)に大野憲直が植栗元吉の討伐を決意し、憲次はその命を受ける。憲次はこれを主家乗っ取りの絶好の機会ととらえ、植栗元吉と手を結び植栗城に行くと見せかけて岩櫃城を急襲した。虚を衝かれた憲直をはじめとした大野一族は自害を余儀なくされ、岩櫃斎藤氏の惣領は憲次のものとなり、以後岩櫃城で活動することとなった。
前述の通り系図は諸説ある。『原町史』では憲広の父は斎藤行連となっており、憲次の名は登場しない。
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最終更新:2025/01/14(火) 08:00
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