金谷経氏(?~1351、または1352?)とは、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した武将である。
新田政義の庶子・新田家氏の子孫で綿打氏、堀口氏、一井氏、大館氏らとは同祖の新田氏庶流である。
新田氏として新田義貞の挙兵から付き従い、足利尊氏の離反の際は新田軍としてこれにあたっている。越前藤島の戦いでの新田義貞戦死後、南朝の新田一門による態勢立て直しの一環として、江田行義の丹波行き、大館氏明の伊予行きとともに、金谷経氏も播磨に送られているため、北陸には行かず後醍醐天皇の近辺にいたと思われる。
1337年には摂津に城郭を構え以来丹生寺城を拠点としている。1342年には大館氏明の世田城攻めを支援しているなど、新田義貞亡き後の新田一門のひとりとして南朝方で活動をしている。大館氏明の戦死の際は水軍を率いて援護に向かったが間に合わなかった。
1351年、京都の石清水八幡宮に討ち入り殺されたとも、こちらはあくまでも一族のひとりで1352年に安達盛兼に打ち破られたともいわれている。これ以降新田一門で畿内近国を拠点とした金谷氏の南朝としての活動は見られなくなってしまった。
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最終更新:2024/04/25(木) 07:00
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