いかりや長介 単語


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イカリヤチョウスケ

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いかりや長介とは、昭和を代表するコメディアン・ベーシスト・俳優である。
ザ・ドリフターズの偉大なるリーダー。

概要

本名は碇矢長一(いかりやちょういち)。本名の「長一」を芸名で「長介」と改めさせられたのは、名付け親であるハナ肇(クレイジーキャッツ)曰く、「『一』よりも『介』のほうが、こう、スケーッて伸びるからな!」という、なんだかよくわからない理由からだそうだ。

ドリフ全盛期のコメディアンや晩年の俳優のイメージが現在では強いが、バンドマン時代はベースの名手として知られていた。

風貌がゴリラに似ていたため、よくそれをネタにからかわれていた。

経歴

生誕~芸能界入り~ドリフ加入

1931年、東京都墨田区に生まれる。
戦前は魚河岸で軽子(商品の魚を運搬する仕事)をしていた父親の関係で、浅草近くの業平橋に住んでいた。
朝は早いが昼前には仕事の終わる父親の仕事から、浅草に当時あった六区(当時東京有数の繁華街)の映画館や劇場に父親と一緒に連れて行ってもらい、自然と演芸や映画に親しみを持って育っていった。

1944年、太平洋戦争の激化に伴い、いかりやの小学校卒業と共に静岡県富士市に家族と共に住み移る。
終戦後もそのまま富士市に残り、中学校卒業後に地元の製紙工場に就職した。
その同僚たちと結成したハワイアンのバンドで音楽にのめり込み、1959年に28歳で本格的に音楽活動で飯を食っていくことを決意し上京。

米軍キャンプやジャズ喫茶での活動の中で、曲間のMCにおいてちょっとしたコントを披露し始める。
コントは受けたのだが、次第にコント目当てで見に来る客が増えて所属バンド内で疎まれるようになってしまった。
そこに、ザ・ドリフターズのリーダーであった桜井輝夫の目に留まり、「コントを演奏のアクセントにしたいからウチに来てくれ」と誘われ、1962年頃にドリフへ移籍することとなる。
(この頃のドリフターズは純然としたロカビリースタイルのバンドで、桜井は2代目リーダーである)

いかりやの加入と同時期にドラマーの加藤茶もドリフに加入。
ジャズ喫茶で披露していたコントも受け、テレビ番組にもレギュラー出演をするようになった。

新生ドリフ

しかし、ここで大事件が起こる。
1964年、当時実質的に中心メンバーとなっていたいかりやを快く思わなかった他のメンバーが大量脱退。
いかりやの強い慰留でなんとか残った加藤と半隠居状態だった桜井以外は一人も残らなかったため、ドリフは解散の危機に陥る。
そこでいかりやは奔走し、他のバンドのメンバーに移籍話を片っ端から持ちかけた。
その結果、ギター・ヴォーカルの仲本工事、ギターの高木ブー、キーボードの荒井注を加入させることに成功し、なんとか解散の危機を回避することに成功した。
この際に前リーダーの桜井が一線から退き、いかりやにリーダーの座を譲ることとなる。
こうして、現在知られる形のドリフターズの基礎が出来上がった。
(一般的に、ドリフの結成年数はこの1964年を起源としてカウントされていることが多い)

1966年、日本に来日したザ・ビートルズの前座として日本武道館の同じステージに立つ。
この時の映像が現存しており、動くいかりやの映像としては最古の部類に入るものとして貴重な資料となっている。

テレビでもそのコントや歌を披露し人気を得るようになったドリフに最大の転機が訪れる。
1969年、「8時だョ!全員集合」(TBSテレビ)が放送開始。
番組開始前のプロデューサーからの番組の誘いに一度は躊躇したいかりやだったが、「(人気裏番組のメイン出演者であった)コント55号とドリフとじゃ、今は月とスッポンかもしれない。でも、スッポンが月に勝てないとも限らない」と煽られたこと、そして、それまでのジャズ喫茶やテレビ番組と比べたら破格の制作費や手間をかけてコントを演じることができるという魅力に惹かれ、この大博打に乗ることとなる。

ドリフ全盛期

土曜日夜8時の時報と同時に「8時だよ!」といかりやがカメラ(とその先の視聴者)に向かって叫ぶシーンから始まる「全員集合」は一躍国民的人気番組となり、1971年には驚異の番組平均視聴率である50.5%を記録した。
(この記録は、現在のTBSの歴代最高視聴率でもベスト5に入る大記録である)

全員集合ではいかりやらドリフのメンバーと放送作家やディレクターらスタッフと共に行われた番組会議は毎週あり、その重々しく辛い雰囲気から『地獄の会議』と恐れられていた。
この会議でもいかりやが主導権を握り、数々のギャグやアイディアを提示していた。
また、いかりやがリーダーになって以降、他のメンバーへのギャラ分配の割合もいかりやが決めており、加藤茶などドリフメンバーやスタッフから「独裁者」と揶揄され、それがコントの中でもギャグとして登場することが多かった。

1974年、荒井注が突如ドリフから脱退。いかりやは当初、自分と同世代の新メンバーを加入させようと考えていたが、加藤茶が、かつていかりやの付き人であった志村けんの加入を強く推したのが決め手となって、志村けんが新メンバーとして加入することとなった。

志村けんの最初の大ヒットギャグである『東村山音頭』を気に入って採用したのはいかりやである。
ネタ会議中に志村が生まれ故郷の東京都東村山市のローカルな音頭であった『東村山音頭』を鼻歌で歌っていたのをいかりやが気に入り、それをアレンジして番組で披露することとなった。「三丁目」の歌詞はいかりやの作詞である。

また、番組前半のコント終了後の撤収時に流れた『盆回り』を採用したのもいかりやである。当初は1回限りの使用のつもりだったのだが、いかりやがそのテンポの良さを気に入り、最終回までこれを使用し続けることとなった。

主に番組進行役やツッコミ役となったことが多かったいかりやだが、「ドリフ大爆笑」(フジテレビ)後期の名物コント・『バカ兄弟』では珍しいボケ役に回り、そちらでも高い評価を得ている。

俳優としての活躍~晩年

1985年、「8時だョ!全員集合」が放送終了。
前年の1984年頃から番組会議から外されるようになり、ドリフの主導権は徐々に志村や加藤に移行されていったという。

「全員集合」終了を期に、俳優としても活躍を始める。
1987年の大河ドラマ『独眼竜政宗』(NHK)の鬼庭左月役、1994年より始まった火曜サスペンス劇場・『取調室』シリーズ(日本テレビ)の主役・水木正一郎役、そして1997年の『踊る大捜査線』(フジテレビ)の和久平八郎役、実写版『サザエさん』(フジテレビ)の磯野波平役などが有名。
特に和久役ではノンキャリア組のベテラン刑事という役どころを見事に演じ、ドリフ時代に馴染みのない若い世代のファンも獲得した。

2003年春頃から原発不明頚部リンパ節がんが発症。
闘病生活の末に一度退院し、2003年年末に放送された「ドリフ大爆笑」の特別番組・『40周年だよ!ドリフ大爆笑スペシャル』では20年ぶりにオープニングとエンディングを撮り直したことで話題となった。葬儀での加藤茶による弔辞によれば、この時、「40周年を記念して、全員集合と大爆笑、この2本撮りたいね」と話していたという。
しかし、皮肉にもこれが生前最後のテレビ出演となってしまった。

2004年3月20日、再び体調が悪化し、未明に死去。享年72歳。
告別式には多くの一般のファンが詰めかけ、『8時だョ!全員集合』のファンは「長さーん」「オイッスー」、『踊る大捜査線』のファンは「和久さーん」「和久さーんお疲れ様」と涙ながらに叫んだ。
また、午後8時になると同時に数ヶ所で、ファンが持ち込んだテープによりいかりやの「8時だョ!」という掛け声が流れ、即座に周囲のファンが「全員集合!」と掛け声を挙げた。いかりやの息子で喪主でもあった碇矢浩一氏はファンの愛に感動したという。

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関連項目

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  • 男優の一覧
  • ドリフターズ
    • 加藤茶
    • 仲本工事
    • 高木ブー
    • 志村けん
  • 8時だョ!全員集合
  • ドリフ大爆笑
  • 踊る大捜査線
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