サッカースペイン代表とは、スペインサッカー連盟(RFEF)によって編成されるサッカーのスペイン代表チームである。愛称はラ・ロハ(La Roja、赤色)、無敵艦隊。ユニフォームは国旗に基づき赤がベースでホームではシャツが赤でパンツが青。
| スペイン代表 | |||
|---|---|---|---|
| 協会 | RFEF | ||
| 大陸 | UEFA(ヨーロッパ) | ||
| FIFAコード | ESP | ||
| FIFA加盟 | 1904年 | ||
| 監督 | ルイス・エンリケ | ||
| FIFAワールドカップ | |||
| 出場 | 16回 | ||
| 最高成績 | 優勝(1回) | ||
| UEFA欧州選手権 | |||
| 出場 | 11回 | ||
| 最高成績 | 優勝(3回) | ||
FIFAワールドカップで優勝経験のある8チームのうちの一つであり、UEFA欧州選手権ではドイツと並んで最多の3回優勝経験のある強豪国である。しかし、かつては無敵艦隊と呼ばれ、優勝候補に挙げられながらも長い間主要な大会では結果を出せなかった。
国内には世界でも最高峰と呼ばれるラ・リーガが栄えており、レアル・マドリードとFCバルセロナが国際舞台でも輝かしい成績を残しているが、歴史的な背景から民族間の対立の問題もあって地元クラブへの愛着が強く、代表チームに対する国民からの人気はそれほど高くはなかった。
そんな背景もあって「永遠の優勝候補」、「勝てない強豪」などと揶揄された時期が続いていたが、2000年代後半にFCバルセロナのポゼッションスタイルをチームに取り入れるようになり、シャビ、アンドレス・イニエスタ、ダビド・シルバといった世界最高クラスの中盤のタレントが揃ったこともありEURO2008、2014 FIFAワールドカップ、EURO2012とメジャーな国際大会を3大会連続で制覇する偉業を成し遂げ、名実ともに強豪国の仲間入りを果たす。
初試合は1920年。この年に開催されたアントワープオリンピックでは銀メダルに輝いている。FIFAワールドカップには、1934年のイタリア大会が初参加となり、ブラジルを相手に1勝を挙げてベスト8という成績を残している。しかし、その後勃発したスペイン内戦によって代表チームの活動は停止となり、1938 FIFAワールドカップ・フランス大会は不参加となる。
第二次世界大戦後に代表の活動も再開されると、1950 FIFAワールドカップ・ブラジル大会では決勝リーグまで残り、ベスト4という成績を残す。だが、その後は期待外れに終わる歴史が続き、1954年、1958年のワールドカップは2大会連続で欧州予選敗退に終わる。低迷脱却へエレニオ・エレーラを監督に招聘するが、EURO1960では予選敗退、1962 FIFAワールドカップ・チリ大会で3大会ぶりに出場権を獲得したものの、グループリーグ敗退に終わっている。
1962年にレアル・マドリードで黄金期を築いたホセ・ビジャロンガが監督に就任。自国開催となったEURO1964(当時の名称は欧州ネイションズカップ)では、準決勝で強豪ハンガリーを下して決勝へ進出。決勝では4年前に政治的理由で試合を拒否した経緯のあるソ連を2-1で破り、代表チームとしては初のビッグタイトルを獲得。2008年までの間、このタイトルがスペイン代表にとっての唯一の勲章となる。
EURO優勝後の1966 FIFAワールドカップ・イングランド大会ではグループリーグ敗退。ビジャロンガは監督を退任する。だが、この時期のスペインは暗黒期といえる低迷期を迎えており、1970年と1974年のワールドカップで2大会連続欧州予選敗退。EUROでも1968年、1972年、1976年と3大会連続で予選敗退。実に10年間国際大会出場の切符を逃すこととなった。1978 FIFAワールドカップ・アルゼンチン大会は3大会ぶりに出場するが、ノーインパクトのままグループリーグ敗退に終わる。
自国開催となるワールドカップが控える中、4大会ぶりに出場したEURO1980ではベスト8まで残ったものの1勝も挙げることはできなかった。大会後、アンダー代表の監督だったホセ・サンタマリアを代表監督に昇格させ、1982 FIFAワールドカップ・スペイン大会に臨む。1次リーグを2位で通過したものの、西ドイツ、イングランドと同組になった2次リーグでは最下位に終わり敗退。ホスト国としては不完全燃焼のまま終わり、大会後にサンタマリアは解任。後任に国内で最高峰の実績を持つミゲル・ムニョスが就任する。
EURO1984予選では、最終節で本大会出場には11点差が必要とされる厳しい状況に立たされるが、ここでマルタを相手に12-1で大勝し奇跡的に本大会出場権を獲得。EURO1984本大会では、西ドイツ、ポルトガルと同居したグループを手堅く首位で突破。準決勝でデンマークとのPK戦を制し、20年ぶりに決勝へ進出。しかし、決勝ではミシェル・プラティニを擁する開催国のフランスに完敗。準優勝に終わる。
1986 FIFAワールドカップ・メキシコ大会では、ベスト16のデンマーク戦でエミリオ・ブトラゲーニョが1試合4ゴールの大爆発を見せ1934年大会以来となるベスト8へ進出。EURO1988はグループリーグで敗れ、大会後にムニョスは代表監督から退く。1990 FIFAワールドカップ・イタリア大会ではミチェルの活躍でグループリーグを突破したものの、ベスト16でドラガン・ストイコビッチを擁したユーゴスラビアに敗れる。
EURO1992で予選敗退となり、ハビエル・クレメンテが新たに監督に就任。同年のバルセロナオリンピックでU-23代表が金メダルを獲得。クレメンテはブトラゲーニョやミチェルを切り、U-23のメンバーだったジョゼップ・グアルディオラやルイス・エンリケら若手を積極的に抜擢するようになる。1994 FIFAワールドカップ・アメリカ大会でベスト8、EURO1996でもベスト8と着実に成長を遂げたチームは徐々に完成度を増すようになり、大会後には超新星ラウール・ゴンザレスがエースとして台頭。足りなかった最後のピースが加わったチームは1998ワールドカップ欧州予選を無敗で勝ち抜き、4年間無敗を貫いたチームはいつしか「無敵艦隊」と呼ばれるようになり、チームへの期待値はこれまでにないほど高まっていた。
優勝候補の呼び声もあった1998 FIFAワールドカップ・フランス大会だったが、初戦のナイジェリア戦でよもやの逆転負けを許し、4年間無敗だった無敵艦隊はあっさりと沈められてしまう。さらに第2戦のパラグアイ戦を引き分けで終わり、大きな期待を背負った無敵艦隊はグループリーグ敗退に終わってしまう。クレメンテの後任となったホセ・アントニオ・カマーチョ監督のもと、EURO2000を戦うが、当時黄金期にあったフランスに準々決勝で敗戦。2002 FIFAワールドカップ・日韓大会でも疑惑の判定があったものの、準々決勝で開催国の韓国に敗れる。
EURO2004ではグループリーグ敗退。イニャキ・サエス監督は解任となり、ルイス・アラゴネスが監督に就任。プレーオフで何とか出場権を獲得した2006 FIFAワールドカップ・ドイツ大会でアラゴネスはこれまでエースであったラウールをスタメンから外し、ダビド・ビジャとフェルナンド・トーレスを前線の軸とする思い切った決断を下す。議論を醸した采配であったが、新2トップはグループリーグで結果を残し1位通過を果たしたものの、ベスト16でフランスに1-3で敗れる。
2006年ワールドカップの敗退を受け、アラゴネスは本格的にバルセロナ的なポゼッションをベースとしたサッカーを志向するようになる。「クアトロ・フゴーネス(四人の創造主)」と呼ばれたシャビ・エルナンデス、アンドレス・イニエスタ、ダビド・シルバ、セスク・ファブレガスを並べたスタイルは、徐々にチームへ浸透するようになり、迎えたEURO2008本大会では、美しいサッカーでグループリーグから無敗のまま決勝へ進出。決勝のドイツ戦もクアトロ・フゴーネスの技術力で試合を支配し、フェルナンド・トーレスの決勝ゴールで勝利。1964年のEURO以来42年ぶりのタイトルをスペインへもたらす。
EURO優勝と共にアラゴネスは勇退。後任監督となったビセンテ・デル・ボスケも当時黄金期にあったFCバルセロナの選手を主体にチームを構成。2010ワールドカップ欧州予選を10戦全勝という圧倒的強さで勝ち抜く。2010 FIFAワールドカップ・南アフリカ大会では初戦でスイスに敗れる波乱が起きるが、続くホンジュラス戦、チリ戦を連勝したことでグループリーグを突破。デル・ボスケのチームはアラゴネス時代と比べると守備的であったが、それでも中盤の圧倒的な構成力で他を寄せ付けず、高いポゼッションを維持していた。1950年大会以来進出した準決勝ではカルレス・プジョルの決勝ゴールでドイツを破り、初の決勝進出を果たす。延長戦までもつれ込んだ決勝のオランダ戦ではイニエスタが歴史を変える決勝ゴールを決め、ついにワールドカップ初優勝を成し遂げる。
ディフェンディングチャンピオン、そしてFIFAワールドカップ王者として臨んだEURO2012では、2勝1分でグループステージを突破。準々決勝でフランスを、準決勝ではポルトガルに熱戦の末PKで勝利し決勝進出。決勝のイタリア戦では、熱戦になると思われたが4-0で圧勝。終わってみれば全6試合で失点数1と実力差をまざまざと見せつける結果となり、前人未到のメジャー大会3連覇(EURO2008、2010 FIFAワールドカップ、EURO2012)を果たした。
しかし2014 FIFAワールドカップ・ブラジル大会では、初戦のオランダ戦で前回大会決勝の恨みを晴らされるかように圧倒され1-5で敗れると、2戦目のチリ戦でも敗北を喫する。辛うじて最終戦のオーストラリア戦で勝利を収めたが、2連覇を目標としてブラジルに乗り込んだスペインにとっては屈辱的な大会となり、これがスペイン黄金時代終焉の始まりとなった。汚名返上を誓ったEURO2016だが、ベスト16でイタリアに完敗。大会後、デル・ボスケは監督を辞任する。
2018 FIFAワールドカップ・ロシア大会はフレン・ロペテギが代表監督として指揮を執る予定だったが、RFEFに無断でレアル・マドリードと契約を交わしたことが問題視され、なんと大会開幕前日に解任となる。急きょフェルナンド・イエロが暫定監督となったが、実質監督不在となったチームは低調な戦いを続ける、グループリーグは突破したものの、ベスト16では開催国のロシアにPK戦で敗れる。
ロシアW杯終了後、FCバルセロナを三冠に導いた実績のあるルイス・エンリケが監督に就任。黄金期のメンバーがほぼいなくなった中でペドリら若手を積極的に起用。EORO2020では、前評判は低かったが、大会が進むにつれて成長したチームはベスト4という成績を残す。また、彼らの多くはU-24代表として直後の東京オリンピックにも出場し、銀メダルを獲得。
(※太字はワールドカップ優勝メンバー)
太字はワールドカップで指揮を執った監督。赤字はワールドカップ優勝監督。
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最終更新:2025/12/07(日) 01:00
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