サッカーウルグアイ代表 単語

223件

サッカァウルグアイダイヒョウ

9.1千文字の記事
  • twitter
  • facebook
  • はてな
  • LINE

サッカーウルグアイ代表とは、ウルグアイサッカー協会(AUF)により構成されるウルグアイの代表チームである。ユニフォーム国旗色とを基調にしていてホームはシャツが色でパンツ称はロスチャルアス(Los Charas)。セレステと呼ばれることもある。

概要

サッカーナショナルチーム
ウルグアイ代表
基本情報
国旗
協会 AUF
大陸 CONMEBOL南米
FIFAコード URG
FIFA加盟 1923年
監督 マルセロ・ビエルサ
FIFAワールドカップ
出場 14回
最高成績 優勝(2回)
コパ・アメリカ
出場 46回
最高成績 優勝(15回)

第1回のワールドカップである1930 ワールドカップを含め、2度ワールドカップ優勝している南米の強コパ・アメリカではアルゼンチンに次ぐ歴代2位の15回の優勝経験がある。ホームスタジアムとして首都モンテビデオにあるエスタディオ・センテナリオを使用している。

古くからアルゼンチンブラジルとはライバル関係にあり、試合が行われると大きな盛り上がりを見せる。また南米らしく攻撃的な選手に名手が多い。

20世紀前半は強であったが、近年は低迷期を経てタイトルから遠ざかっており、各時代で優れた選手を輩出しながらも21世紀に入ってからは2010 FIFAワールドカップでのベスト4と2011年コパ・アメリカ優勝くらいしか立った成績を残せていない。そのため、最近は「古」というイメージが付いている。

伝統的にしい肉弾戦を厭わない堅守をベースにした戦術を採用しており、攻撃は前線タレントの個人技で手数をかけずにゴールを奪おうとする。狡猾でファウルを厭わないプレーを仕掛けてくることが多いため、ライバルアルゼンチンと同様にダーティーイメージも付いている。特にルイス・スアレス2010年ワールドカップでの故意のハンド2014年ワールドカップの噛みつき事件は有名である。

歴史

初試合は1901年のアルゼンチン戦。20世紀前半は世界でも屈の強豪国として君臨しており、ワールドカップ以前のオリンピック1924年パリオリンピック1928年のアムステルダムオリンピックと連覇している。南米選手権現在コパ・アメリカ)でも第1回の1916年大会に優勝して初代王者となり、1930年代までに6回優勝している。

第1回のFIFAワールドカップである1930 FIFAワールドカップウルグアイ大会では開催となり、グループリーグではペルールーマニア勝利すると、準決勝ではユーゴスラビアを相手にホセペドロ・セアのハットトリックなど大量6ゴールを奪い圧勝する。決勝では南米ライバルであり、2年前のオリンピックでも優勝を争ったアルゼンチンと対戦。90000人の観衆が見守る中、4-2で勝利し、栄えある初代のワールドカップ王者となり、最初にジュール・リメ杯を掲げたチームとなった。1934 FIFAワールドカップ、1938 FIFAワールドカップには参加しなかった。

3大会ぶりの出場となった1950 FIFAワールドカップブラジル大会では、前年の南米選手権で初めてベスト4にすら入れなかったこともあり前評判は高くなかったが、1次リーグボリビアを8-0で下すと、決勝リーグではスウェーデンに勝ったもののスペイン引き分け、1勝1分で迎えた最終戦ブラジル戦が事実上の決勝戦となった。地元ブラジル優勝を信じて疑わない大観衆に囲まれたアウェイ環境の中、前半に先制ゴールを許すも、後半にフアンアルベルト・スキアフィーノとアルデス・ギジャのゴールで逆転し、2度ワールドカップ優勝を果たす。敗れたブラジル優勝を逃したこの大会の事を「マラカナンの悲劇」と名付け、ウルグアイを因縁深い相手としている。そしてまた1つ因縁が生まれた・・・。

前回王者として臨んだ1954 FIFAワールドカップスイス大会は、前回ブラジル大会の優勝メンバーチームに残っていたこともあり、グループリーグを全勝で突破。特に第2戦のスコットランド戦では7-0で大勝している。準決勝では当時世界最強と言われた”マジックマジャール"ハンガリーと対戦。前半に2点のリードを許すが、後半に同点に追いつく闘を繰り広げるが、延長戦でコチシュ・シャンドールに2ゴールを決められ敗戦。ちなみにこれがワールドカップでの初となった。

1958年スウェーデン大会は南米予選敗退となり、1962年チリ大会ではグループリーグ敗退と南米選手権では結果を出しながらもワールドカップでは苦戦する時期が続く。1966 FIFAワールドカップイングランド大会ではグループリーグは突破できたが、準々決勝では西ドイツを相手に0-4と敗している。

1970 FIFAワールドカップメキシコ大会では、得失点差でわずかにスウェーデンを上回り、グループリーグ2位で突破。準々決勝のソ連戦は延長後半終了間際に1点を奪い、1954年大会以来となるベスト4進出を果たす。準決勝ではペレを擁するブラジルの強力攻撃の前に敗れる。3位決定戦でも西ドイツに敗れるが、久々世界舞台で上位進出を果たした。しかし、これ以降はさらなる低迷期が続き、1974 FIFAワールドカップグループリーグ敗退に終わり、1978年大会と1982年大会は2大会連続で南米予選で敗れるなど世界トップからは遠ざかっていった。

1980年代に入り、エンソ・フランチェスコリが台頭する。コパ・アメリカ1983では、ブラジルとの決勝でフランチェスコリが先制ゴールを決め、ホーム&アウェイのトータル3-1で勝利。12回南米王者にいている。この大会で彗星のようにデビューしたフランチェスコリは、大会の最優秀選手を受賞。以降、代表のシンボルのような存在となる。

1986 FIFAワールドカップメキシコ大会では1974年大会以来3大会ぶりの本大会出場を果たす。本大会では、西ドイツデンマークといった強と同じグループに入ったこともあり、2分1敗の3位で辛うじてグループリーグを突破。しかし、ラウンド16でディエゴ・マラドーナを擁するアルゼンチンに敗れ、1勝もできないまま大会を去る。

コパ・アメリカ1987では前回優勝として準決勝からの登場となったが、準決勝でアルゼンチンを下すと、決勝のチリ戦では前半26分にフランチェスコリが退場となるアクシデントに見舞われるが、後半にパブロベンゴエチェアが決勝ゴールを決め、連覇を果たす。

2大会連続での出場となった1990 FIFAワールドカップイタリア大会では、1分1敗で崖っぷちに立たされるが、第3戦の韓国戦で1970年大会以来のを挙げ、グループリーグを3位で突破する。しかし、ラウンド16では開催イタリアに敗れ、4年前と同じくベスト16止まりに終わる。

1990年代に入るとルベン・ソサ、ダニエル・フォンセカ、グスタボ・ポジェ、アルバロ・レコバら優れたタレントが登場するが、1994年大会と1998年大会の2大会連続でワールドカップ出場を逃している。一方、コパ・アメリカ1995では、決勝でPK戦の末にブラジルを破り、14回優勝を果たす。この大会ではベテランとなったフランチェスコリが大車輪の活躍でチームを牽引しており、大会最優秀選手とこの年の南米最優秀選手賞を受賞している。しかし、その後は再び長い低迷期が続くようになる。久々に本大会出場権を得た2002 FIFAワールドカップ日韓大会でも1勝もできずにグループリーグ敗退となる。

2006 FIFAワールドカップ南米予選敗退後、オスカル・タバレス1990年以来となる監督に就任。タバレスはA代表だけでなく、ユース世代の代表強化にも力を入れ、将来有望な若手選手には必ずU-20世代別代表を通してからA代表へと招集するようになる。

伝統の堅守をベースディエゴ・フォルランルイス・スアレスエディソン・カバーニというワールドクラスメンバーえた攻撃大陸プレーオフを勝ち抜き、2010 FIFAワールドカップ南アフリカ大会の出場権を獲得する。大会前の下評は低かったが、初戦で前回準優勝フランス相手に引き分けると、その後の南アフリカ戦、メキシコ戦に手堅く連勝。3試合失点という内容で首位でのグループリーグ突破を果たす。ラウンド16の韓国戦をスアレスの2ゴール勝利すると、準々決勝のガーナ戦では後半にフォルランのFKで追いつき延長戦に持ち込むと、延長後半終了間際のピンチスアレスの故意のハンドいでからのPK戦を制し、準決勝ではオランダ相手にるが、一歩及ばず敗戦。3位決定戦でもドイツと打ち合いになるが、惜しくも敗れる。それでも1970年大会以来40年ぶりとなるベスト4進出を果たし、古復活を印付ける大会となった。特にフォルランは大会得点王とMVPを獲得する大車輪の活躍ぶりだった。古復活をたたえ、帰後の凱旋パレードではおよそ50万人の民が出迎えた。

コパ・アメリカ2011では、開幕当初は低調だったものの、準々決勝で開催アルゼンチンPK戦の末に下したことで勢いづくと、準決勝ではペルーを相手にスアレスの2ゴール勝利し、決勝でもスアレスフォルランの活躍でパラグアイ相手に快勝し、史上最多となる15回優勝を果たす。

2014 FIFAワールドカップブラジル大会では強ぞろいの死のグループに組み込まれるが、イングランドイタリアという強を出し抜いてグループリーグを突破。しかし、第3戦のイタリア戦でエーススアレスジョルジョ・キエッリーニに噛みつく奇行によって出場停止となったことがき、ラウンド16で同じ南米勢のコロンビアに敗れ敗退となる。この大会を最後にフォルランが代表から引退する。

2018 FIFAワールドカップロシア大会でもスアレス&カバーニの強力2トップの活躍によってグループリーグを3戦全勝しかも失点で突破。ラウンド16ではクリスティアーノ・ロナウド擁する強ポルトガルカバーニの2ゴールで撃破する。しかし、この試合で殊勲の活躍を見せたカバーニが負傷。準々決勝のフランス戦ではそのカバーニの欠場がいてスアレス底したマークで封じられ、さらにはここまで失点に抑えていた守備にも綻びが生じて敗北2010年大会以来のベスト4進出を逃すこととなった。

2022 FIFAワールドカップカタール大会の南米予選では敗退の危機に立たされるが、15年の長期政権を築いたタバレス監督に見切りを付け、ディエゴアロンソ監督のもとで再スタートを切り、本大会出場権を獲得。しかし、本大会ではベテランとなったスアレスカバーニはもはや衰えを隠し切れず、韓国戦とポルトガル戦を得点のまま1分2敗と崖っぷちに立たされる。第3戦では2010年大会の因縁があるガーナ相手にリードし、一時は逆転でグループリーグを突破するかに思われたが、同時開催していたポルトガル韓国の試合で韓国が試合終盤に逆転勝利したことで状況が一変。総得点の差で韓国に及ばず、グループリーグ敗退に終わる。

2023年より「鬼才」「エルロコ(変人)」と呼ばれるマルセロ・ビエルサ監督に就任。新キャプテンにはフェデリコ・バルベルデが任命される。コパ・アメリカ2024ではパナマボリビアアメリカと同居したグループCを3連勝、しかも9得点1失点という圧倒的な内容で首位通過する。準々決勝では強ブラジルとの対戦となるが、退場者を出しながらも内容ではむしろ上回り、0-0のままPK戦に突入。PK戦ではGKセルヒオ・ロシェが活躍し、ブラジル相手に勝利する。準決勝のコロンビア戦では前半に先制ゴールを許し、10人になった相手を最後まで崩せずに敗退。3位決定戦のカナダ戦では敗色濃厚となった試合終了直前にベテランスアレスが劇的な同点ゴールを決めると、PK戦を制し、3位入賞を果たす。

2026 FIFAワールドカップ南米予選では、ブラジルアルゼンチン南米二強を相手に勝利を奪う。

主な戦績

ワールドカップ
優勝(1930, 1950)
ベスト4(1954, 1970, 2010
ベスト8(1966, 2018
ベスト16(1986, 1990, 2014
グループリーグ敗退(1962, 1974, 2002, 2022)
コパ・アメリカ
優勝(1916, 1917, 1920, 1923, 1924, 1926, 1935, 1942, 1956, 1959, 1967, 1983, 1987, 1995, 2011
優勝1919, 1927, 1939, 1941, 1989, 1999
3位(1921, 1922, 1929, 1937, 1947, 1953, 1957, 2024)
ベスト4(1945, 1946, 1955, 1975, 2001, 2007
ベスト8(1993, 1997, 2015, 2019, 2021)
グループリーグ敗退(1949, 1959, 1979, 1991, 2016
FIFAコンフェデレーションズカップ
ベスト4(1997, 2013

世代別の戦績

オリンピック
優勝(1924, 1928)
FIFA U-20ワールドカップ
優勝(2023)、準優勝(1997, 2013)、3位(1979)
FIFA U-17ワールドカップ
優勝2011

主な選手

2024年10月現在

(※太字はワールドカップ優勝メンバー

コパ・アメリカ2024メンバー

2022 FIFAワールドカップ・カタール大会メンバー

歴代代表監督

太字はワールドカップを戦った監督赤字ワールドカップ優勝監督国旗が付いているのは外国人監督

関連動画

関連項目

この記事を編集する
関連記事

親記事

子記事

  • なし

兄弟記事

流行語100

掲示板

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

記事と一緒に動画もおすすめ!
[単語]

提供: Wu

もっと見る

急上昇ワード改

最終更新:2024/12/02(月) 05:00

ほめられた記事

最終更新:2024/12/02(月) 04:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP