ジル・ド・レエ(Gilles de Rais)とは、
以下では2について説明する。
1404年終わり頃、現在のメーヌ・エ・ロワールに相当するアンジュー地方のマシュクール城にて、裕福な名門貴族の長男として生を受ける。10年後に弟のルネが誕生。父親が狩で猪の牙にかかって死に、母親は幼い兄弟を棄て別の男の元へ走った(一説には父親は戦で命を落とし、母親はルネを生んですぐ死んだとも)。その為、祖父のジャン・ド・クランが彼等の後見人となる。祖父はあまり良い人物とは呼べなかったらしく、ジルが16歳になると、祖父は彼を八親等の従姉妹であるカトリーヌ・トゥアールと結婚させ、後見の任を逃れると同時にさらなる領地を手中に収めた。
当時の貴族は自分の名前すら書けないような文盲が殆どであったが、ジルは年若くから学問や文学、芸術等に深い理解を得ていたようだ。ラテン語も堪能で、愛好する作家の本は自ら美しく装幀させ、肌身離さずに持ち歩いていたようだ。生前の父親が息子に家庭教師(聖職者)をつけて教育していた賜物であるが、祖父に親権が移ると彼等は罷免されてしまう。その結果、弟のルネは他の貴族同様の文盲のままだった。
もっとも、この教育こそがジルの成長に第一の良からぬ影響を齎したとしても過言ではないかもしれない。彼が所有していた莫大な蔵書の中に見られるローマの歴史書の中には、暴君ネロやカリグラの残忍な物語を描いた書物もあったのかもしれないのだから。
当時、フランスはイギリスとの百年戦争の真っ最中であった。祖国が戦禍とペストに苦しめられ疲弊窮乏しきっていた中、20歳を越えたジルは自前で起こした軍勢を率いて戦地を転々とし、優秀な指揮官となっていたが戦況は振るわなかった。
彼が「オルレアンの乙女」ジャンヌ・ダルクと出会ったのはこの頃である。彼女の働きにより、士気を得たフランス軍は奇跡ともいうべき反撃を見せ、1429年、パテーの戦いを勝利し、戴冠の地であるランスへとシャルル7世を導く。
当時のジルはあくまでも騎士道に則り、献身的に、さながら聖女のようにジャンヌを崇拝し警護していたとされている。彼が元帥の地位まで上り詰めたのもその頃で、シャルル7世の戴冠式では聖油瓶を捧げ持つ大役を仰せつかっている。
しかし、その裏には政治的策謀が動いていた。ジャンヌが頼みの綱としたリッシュモン大元帥は、ジルが盟約を結んでいた宮廷筆頭侍従のラ・トレムイユとの確執が元で戴冠式への出席を許されず、その代役を元帥になったばかりのジルが務めるという皮肉を招く。その一方で、国民に圧倒的な人気を得ていたジャンヌは従軍を余儀なくされる。
乙女が齎した奇跡と熱狂を醒まされたと感じたのか、勇敢な指揮官だった筈のジルは26歳にしてチフォージュの居城へと引きこもってしまう。1431年にジャンヌが火刑に処され、翌年に祖父がこの世を去ると、彼はほぼフランス一とされるほどの莫大な遺産を受け継ぐ事となった。
巨万の富を得、チフォージュ城に隠遁したジルであったが、彼はその膨大な財産をその後わずか6~8年程で使い果たしてしまう。親衛隊として200人以上の騎士や侍従を集め、その全員に立派な服装の下僕をつける。贅沢な礼拝堂を建設し、そこに集う聖職者達を豪奢な服装で着飾らせる。また、彼は教会音楽を好んで聴いたとされ、当時流行の楽器を集めた唱歌隊学校を設立し、金を惜しむ事無く美声を持つ少年による聖歌隊を作り上げた。城には女官が殆どいなかった。
常軌を逸した夫の浪費に怯えた家族は国王の財政干渉を懇願。これがジルの不興を買い、妻カトリーヌと娘のマリイはチフォージュ城から追われ、プゾージュに幽閉され、その後死ぬまで一瞥も与えられなかったという。
放蕩によっていよいよ貧窮が眼前へ迫ったジルは、裕福な時代から密かに着手していた錬金術に本格的に没頭していく。50年前に公布された錬金術禁止令が未だ効力を保つ一方、教養と財力のある領主の多くが優れた錬金術師を引き入れ、黄金生成の夢を抱いていた時代。頑迷なカトリック教の下にありながら、錬金術師のほとんどが学識ある聖職者であった混沌の中世。魔術師や錬金術師の最初の迫害者として知られるヨハネス22世自身も錬金術の研究を秘密裏に行っていたという疑惑を内包していた、そんな時代。
目の色を変えて優れた錬金術師を集めようと躍起になっていたジルは、フィレンツェ出身のひとりの魔術師と出会い、遂に転落の第一歩を踏み出してしまう。その名はフランソワ・プレラチ。
それまで幾度となくイカサマ術師に騙されてきたジルだったが、当時の文化の最前線の地であるイタリア出身のプレラチには並ならぬ信用を寄せていたらしい。自分と同じように淀みなくラテン語を話す才気煥発な若い美貌の魔術師が、かつては聖女を崇拝しながらも国家に裏切られ、一転して男色趣味へと変貌したジルの歓心を買った事は想像に難くないだろう。
魔法と錬金術を学んだというプレラチと共に、隠された財宝の在り処と錬金術の秘法を知る悪魔への祈祷を繰り返すも、一向に姿を現そうとしない悪魔。焦るジルに対し、プレラチは悪魔との直接の契約を迫る。「忠誠を誓い、魂と生命を除く悪魔の要求する全てのものを捧げる」。
なんとも自己欺瞞的な契約ではあるが、これについて伝記作者であるユイスマンスは自書『彼方』にてこう記している。
ジルは殺人の罪を犯すことは別段恐ろしいとも思わなかったが、生命を魔王に譲ったり、魂を棄てたりすることはかたく拒んだ。
神に背き、はっきりと異端になったにも拘らず、頑迷なカトリックの戒律が逆に曖昧な欺瞞を生み出してしまう。ジルの最初の殺人は、恐らく純然に悪魔に捧げる贄の為に行われたものだっただろう。それがいつしか、己の昏い欲望を満たす為の残虐な流血趣味へと変貌を遂げていったのだ。
ジルが殺した幼児の数は、裁判記録では8年間の間に約800人かそれ以上とされている。近代的な手段のない15世紀では少々現実味に欠ける数字ではあり、伝記作家によっては140~300人という数字になる事もある。それでも常軌を逸した数字ではあるのだが。記録通りであるならば、この大虐殺に比肩する殺人者は、16世紀末に600人もの娘を殺してその血に浸った『血まみれの伯爵夫人』エリザベート・バートリーぐらいのものだろう。
…ともあれ、8年間の間に近隣の村から小さな男の子の姿はすっかり絶えてしまったという。
ジル・ド・レエが恐るべき殺人者として語られるのはその数字だけではなく、それらの殺人が彼独自の美学に基づいて行われた事にある。
あわれな子供が連れてこられると、まずジルは部下に命じて、犠牲者となるべき少年に猿轡を噛ませ、壁に打ち込んだ鉄の鉤に子供を吊り下げる。恐怖におびえた子供があわや窒息しかけると、ジルは子供を鉤から外して下におろし、膝の上に乗せて涙を拭いてやり、やさしく愛撫してやる。それから部下の者を指差し、「この男達は悪い奴だが、私がいるから心配しなくていい。きっと助けてやるぞ」という。そこで子供は喜んで、すぐその後で殺される事も知らずに笑顔を取り戻す。これがジルにはなんともいえぬ悪魔的な歓喜をそそるのである。子供が喜んでいるうちに、うしろから静かにその首を切りはじめ、血がどくどくあふれ出すと、絶え入るばかりな子供のすがた、その断末魔の痙攣を打ち眺めて我を忘れる。やがて喚き叫びながら死体を捏ね回し、ひっくり返して玩具にする。
澁澤龍彦『黒魔術の手帖』内 ジル・ド・レエ侯の肖像 幼児殺戮者より
1440年、ジルは不可解な事件を起こす。60名ほどの部下を率いて、とある教会へ闖入。領主権を巡って争っていた聖職者を捕らえて監禁するという、当時としては様々な重罪をみすみす犯したのである。とうの昔にジルを見捨てたシャルル7世の許可を得、大司教はジルを告発。
そして、ようやく彼の犯した大罪が白日の下に晒される事となる。男色、錬金術、悪魔との取引、そして幼児殺し。あまりの大罪に後悔の念に駆られたか、背徳にすら飽きて我が身すら見捨てたか、自らの地位を以って逃れようとしたか。
公開裁判で語られた恐るべき罪の数々に傍聴者は悲鳴を上げて気絶し、司教達は顔面蒼白となった。追い詰められた故か、とうとうジルは聖女を崇拝していた頃の神秘主義に立ち返り、自らの罪を告白し、最期には喜んで処刑台へのぼったとされる。
シャルル・ペローの童話『青髭』のモデルがジル・ド・レエであるとする説があるが、青髭は妻殺しであり、幼児殺しのジルとは異なる殺人者である。妻殺しという点で見れば、イギリスのヘンリー8世や中世ブルターニュのコモール王をモデルとする説の方が正しくはあるが、その残虐性と(コモール王が)教会から破門された点がジルと混同されたのではないかとされている。
尚、Wikipediaにあるジルの肖像画は黒髪に黒の髭を蓄えている。
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最終更新:2025/12/13(土) 22:00
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