天馬、空をゆく。
天性のスピードと華麗を極めたフォーム。
翔ぶがごとくにゴールを駆け抜けるその姿は、
まさに"速さの象徴"だった。
トウショウボーイ とは、1973年生まれの競走馬。「天馬」と呼ばれた名馬である。1984年、顕彰馬に選出されている。
父 テスコボーイ 母ソシアルバタフライ 母父 Your Hostという血統。テスコボーイは当時のリーディングサイアー。母は既に重賞勝ち馬を出している名繁殖牝馬。当時考え得る限り最高に近い良血馬として、トウショウボーイは生まれた。生まれた時から素晴らしい馬体をしており、育つに従って若駒なのに風格すら漂わせるその姿に牧場の期待も最高潮。「クラシックの一つや二つは堅い!」と思われていたと言うのだからすごい話である。
しかしながら、同時にトウショウボーイは競走馬になれないかもと噂されてもいた。それは腰が甘かった(踏ん張りが利かないという意)からで、あまりに雄大な馬格の割りに筋肉の発達が追いつかず、フラフラしていたのである。
それゆえ、調教はゆっくりにならざるを得ず、2歳時は競馬に出ず、じっくりと調教を積まれた。デビュー戦は3歳の1月。ここを期待通り完勝する。ちなみにここには、後にボーイとの間に三冠馬ミスターシービーを生むことになるシービークインと後のライバルグリーングラスが出走しており、伝説の新馬戦の一つに数えられることもある。
つくし賞とれんげ賞を楽勝し、関東の大将格として皐月賞へと向かった。ここには関西で圧勝を繰り返し「関西の期待」と呼ばれたテンポイントが出走してきていた。テンポイントが一番人気である。
しかし、トウショウボーイはここで直線楽々抜け出すと、レースレコードで完勝した。テンポイントは5馬身離された二着。厩務員のストライキの影響で日程が狂い、テンポイントの調子落ちが噂されていたとはいえ、レコードで圧勝したのだから文句は言えない。「クラシックの一つや二つ」が早くも実現したのであった。
次の狙いは当然ダービーだった。陣営は絶対の自信を持ってボーイを送り出す。しかしここにダービーの魔が潜んでいた。直線坂下。さぁここからというところで、闘将と言われた加賀武見騎手鞍上のクライムカイザーが反則すれすれの進路カット。怯んだトウショウボーイを尻目にそのまま一気に抜け出すと、立ち直って追い込んだトウショウボーイを振り切ってゴールに飛び込んだのだった。
一敗地にまみれたトウショウボーイは札幌記念に出走。しかしここを出遅れで負けてしまう。このミスで、デビュー以来騎乗していた池上昌弘騎手は降ろされることになる。
二ヶ月休養の後、トウショウボーイは当時「天才」の名を欲しい侭にしていた福永洋一騎手を鞍上に迎える。そして神戸新聞杯に出走したのだが、このレースが凄かった。直線で福永騎手に促されると、優雅なフォームで一気に加速するトウショウボーイ。クライムカイザーが必死に食い付こうとするも差は開く一方。5馬身差をつけて悠々勝利した。タイムはなんと1分58秒9の2000m日本レコード。当時の馬場では有り得ないようなタイムに実況の杉本清アナウンサーは「恐ろしい時計です!」と叫んだ。
続く京都新聞杯もクライムカイザーをしのいで優勝。ちなみにクライムカイザーはダービー後、一回もトウショウボーイに先着出来ず、それどころか優勝からも見放されて「史上最弱のダービー馬」候補とまで言われてしまうようになる。この馬にとって最大の不幸はトウショウボーイと同時代に生まれたことであろう。
そして菊花賞。トウショウボーイは一番人気に支持されたが、福永騎手はこの時既にトウショウボーイの調子落ちを感じていた。案の定、レースでは直線でテンポイントに置いていかれ、離された3着に終わった(優勝はグリーングラス)。
続けてトウショウボーイは3歳最後のレースとして有馬記念に出走。鞍上はこのレースから武邦彦(武豊のお父さん)騎手。この時、関東ではなじみが薄かった武騎手(関西の騎手)を、大川慶次郎氏がトウショウボーイ陣営に勧めたという話がある。
このレースは天皇賞馬が三頭も出る豪華メンバーだったのだが、トウショウボーイは直線一気に抜け出して、テンポイントの追い込みを抑えて完勝。タイムは当時の2500m日本レコードだった。3歳馬が有馬記念で1・2フィニッシュを決めたのは史上初。この二頭がいかにずば抜けていたかということである。トウショウボーイはこの年、年度代表馬に選出された。
4歳になったトウショウボーイだったが、前年の疲労が抜けず、結局春はほぼ全休。その間に行われた天皇賞ではテンポイントが念願のタイトルを手にしていた。そして宝塚記念。まだまだ本調子ではなかったトウショウボーイと、イケイケなテンポイントの対決となった。一番人気はテンポイント。
レースはトウショウボーイ先頭で、前半はスローに進んだ。テンポイントはこれをぴったりとマーク。しかし、1000m地点でゴーサインを出されたトウショウボーイは、なんと後半の1000mを57秒6という当時の1000mレコードを上回るタイムで駆け抜けたのである。これには流石のテンポイントも付いて行くのがやっと。またもライバル対決はトウショウボーイに軍配が上がったのであった。
高松宮杯も苦手の不良馬場を克服して勝ち、見習い騎手を鞍上に、どんなタイムが出るかという興味だけで出走した1600mの平場オープン戦(現在はオープン戦は全て重賞かリステッドか特別であるが、かつては平場オープンも施行されており、八大競走を勝ったような一流馬でも見習い騎手を乗せて斤量を減らして出走することができた)では、当時の日本レコード1分33秒6という寒気がするようなタイムで優勝。そして、残していたタイトルである天皇賞(秋)へ向かった。もちろん、当時は東京3200mである。
ところがここではなぜか、グリーングラスと先頭を張り合いほとんど暴走気味に吹っ飛ばして、直線では二頭してズブズブ。7着に終わった。武騎手は馬場が悪かったと言ったらしいが、どう考えても乗り方が(ry。まぁ、距離もボーイには長かったのだろう。
トウショウボーイはこの年で引退を決めており、引退レースは有馬記念を予定していた。そこには、最後の雪辱のチャンスに向けて鍛えに鍛え、充実の秋を迎えてビカビカな馬体を見せ付けてテンポイントが待ち構えていたのである。対するトウショウボーイは連戦の疲労でボロボロ。筋肉注射とマッサージをしてレースに向かう有様だった。しかしそれでも挑戦を受けて立つのが王者の矜持であろう。
その有馬記念ではスタートから二頭でぶっ飛ばし、後続は付いて行くのがやっと。どうしてもここで勝負をつけたいテンポイントと、負けるわけにはいかないトウショウボーイの意地がぶつかり合う物凄いレースとなった。
そして直線。一気に抜け出したテンポイントを驚異的な粘りで懸命に差し返すトウショウボーイ。しかし、わずかに及ばず二着。最後の最後でテンポイントに先着を許したのだった。しかし、道中テンポイントにマークされながらも、堂々と受けて立った誇り高きレース振りは、テンポイントびいきで知られる実況の杉本清アナウンサーをして「しかし、流石にトウショウボーイも強かった!」と言わしめた。
ちなみに、後にTTGと呼ばれるトウショウボーイ、テンポイント、グリーングラスは、三頭揃って出走したレースでは常に上位を独占して他を圧倒した。三頭が三頭とも年度代表馬に選ばれているのだから、そこらの「三強」とは訳が違うのである。
通算成績15戦10勝。各所に故障を抱え、強力なライバルの中で残した成績としては素晴らしいものであろう。特に1600m、2000m、2500mで当時の日本レコードを出しており、完調時のスピードは凄まじいの一言だった。競馬関係者が現在でも「サラブレッドの理想」と褒め称える馬体。首を伸ばして飛ぶように走る優雅極まりないフォーム。人懐っこく賢い気性。あらゆる面で彼は「天馬」の名に相応しかった。
しかしながら、彼の物語はここで終わりではなかったのである。
「天馬」らしくということで国内では初となる飛行機輸送が行われ、北海道で種牡馬入りしたトウショウボーイ。当時は内国産種牡馬はまだまだ不人気で、ダービーも天皇賞も取れなかったトウショウボーイは必ずしも大きな期待をされていたわけではなかった。彼は日高軽種馬農協で種牡馬入りしたのであるが、予定配合数を集めるのも苦労し、集まった牝馬も質が悪いものばかりだったという。
ところが二年目産駒からあのミスターシービーが出るのである。ちなみにミスターシービーの母は前述のシービークインであるのだが、実は種付け権がないにも拘らず「こんな良血牝馬、トウショウボーイのためにも逃すべきではない」と担当者が無断で種付けを許可したのだそうである。そのため、後でばれて散々怒られたらしい。しかしミスターシービーの活躍でトウショウボーイの種牡馬としての評価は大きく上がったのだった。
トウショウボーイ産駒はその後も良く走った。毎年のように重賞勝ち馬を出すだけでなく、非常に高い勝ち上がり率を誇り「くずを出さない」という評判をとった。これは高い金を出して馬を買う馬主にとっても有難いことで、トウショウボーイ産駒は大人気となったのである。
トウショウボーイは組合所有の種馬であったので、種付け料は最高でも350万円と、全盛期のサンデーサイレンスが2500万円だったことを考えると非常に低く抑えられていた。それでいて奇形でない牡馬なら最低3000万円で売れたというのだから、牧場としてはローリスク・ハイリターンもいいところだったのだ。
「神様仏様、お助けボーイ様」と崇められるのも当たり前である。トウショウボーイのおかげで破産を免れた牧場が数多くあったという。それだけではなく、トウショウボーイの活躍は内国産種牡馬の評価を大きく高めた。最近の競走馬たちが以前に比べればはるかに容易に種牡馬入り出来、また見切られ難くなったのも、すべてトウショウボーイの活躍のおかげなのである。
1992年、トウショウボーイは蹄葉炎を発症。懸命な治療の甲斐無く症状が悪化。日高中の生産者の悲嘆の声に見送られながら、安楽死の処置がとられた。19歳だった。
父系子孫はミスターシービーの失敗もあり、既に残っていない。しかし日高の牧場中に残された牝馬の子孫は当分残り、これからも大レースを賑わせることであろう。
競走馬としても種牡馬としても偉大極まりない足跡を残した名馬トウショウボーイ。彼こそサラブレッドの中のサラブレッドである。
| テスコボーイ 1963 黒鹿毛 |
Princely Gift 1951 鹿毛 |
Nasrullah | Nearco |
| Mumtaz Begum | |||
| Blue Gem | Blue Peter | ||
| Sparkle | |||
| Suncourt 1952 黒鹿毛 |
Hyperion | Gainsborough | |
| Selene | |||
| Inquisition | Dastur | ||
| Jury | |||
| *ソシアルバターフライ 1957 鹿毛 FNo.1-w |
Your Host 1947 栗毛 |
Alibhai | Hyperion |
| Teresina | |||
| Boudoir | Mahmoud | ||
| Kampala | |||
| Wisteria 1948 黒鹿毛 |
Easton | Dark Legend | |
| Phaona | |||
| Blue Cyprus | Blue Larkspur | ||
| Peggy Porter |
クロス:Hyperion 3×4(18.75)、Blenheim 5×5(6.25%)、Pharos=Fairway 5×5(6.25%)
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最終更新:2025/12/11(木) 15:00
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