1960年5月11日は、アドルフ・アイヒマンが逮捕された日なんですよ(暗黒微笑)。ただ、実際には正規の法的手続きに則って拘束したわけではないため、逮捕っつうか、まあ拉致だな隊長?
この記事では、アイヒマンのホモガキ時代や、オイル売ロッカーとして働いていた頃、そして「ユダヤ人の最終的解決(意味深)」に果たした詳しい役割については、流しますね……
第二次世界大戦中は親衛隊中佐としてユダヤ人の絶滅収容所への移送を主導したアドルフ・アイヒマンであったが、戦後は様々な偽名を使い分け、連合国による戦犯狩りから逃れていた。
1950年にイタリアに脱出したアイヒマンは、親ナチス的な現地のオーストリア・カトリック組織の協力を得て、政治難民「リカルド・クレメント(大嘘)」としての身分とパスポートを得た。そしてアイヒマンは6月17日に船でジェノヴァを発ち、7月15日にアルゼンチンのブエノスアイレスに到着した。後には家族もブエノスアイレスに呼び寄せたアイヒマンは、工員や養兎家など様々な職に就き、現地では4番目の息子も儲けている。普通に家族みたいで微笑ましいと思う。
しかし、イスラエルの諜報機関モサドの魔の手からは絶対に逃れられない! その詳細については諸説あるが、モサドは1950年代末にはアイヒマンが偽名でアルゼンチンに潜伏していることを掴んでいた。特定の決め手は、「リカルド・クレメント」がブエノスアイレスに購入した家の名義がアイヒマンの妻の名と一致したこと、そして「クレメント」がアイヒマンの結婚記念日に花束を買ったことであった。
アイヒマンの居所さん!? を特定したイスラエルであったが、肝心のアルゼンチン政府は過去にも逃亡戦犯に対する捜査要求を拒否したほどの親ナチスであり、イスラエルは当初から正規の手段でアイヒマンを拘束しようとは考えていなかった。
大統領ダヴィド・ベン=グリオンによってアイヒマン誘拐作戦が下命され、アルゼンチンに設立された偽の旅行代理店によってモサドの工作員たちが現地に送り込まれた。当時イスラエル=アルゼンチン間には定期便が運航しておらず、誘拐の期日はアルゼンチン独立120周年に際して送られたイスラエル公式代表使節団が帰国する1960年5月20日に設定された(はぇ~すっごい周到……)。
1960年5月11日、ブエノスアイレス市北部サン・フェルナンドに在するアイヒマンの自宅付近で、2台のクルルァに分乗した7人のモサド工作員たちが、アイヒマンの帰宅を待ち構えた。通常アイヒマンは毎日必ず午後7時に帰宅するマジメ君であったが、なぜかこの日に限っては帰宅が遅れた。
しかし、作戦は予定通り決行された。午後8時5分、自宅前に現れたアイヒマンに対し、工作員ペテル・マルキンがスペイン語で「あっ、おい待てぃ」と声をかけた。と同時にマルキンがアイヒマンの首元を掴んで地面に引き倒し、すかさずアブラハム・シャロームとラフィ・エイタンがその両脚を掴んだ。3人に勝てるわけなくアイヒマンはクルルァに押し込まれ、占めて20秒余りで拉致は完了した。
その後9日間、アイヒマンはブエノスアイレス郊外にモサドが用意した屋敷で拘束された。そして11月20日夕方、やわらかスマホで昏睡させられ、エル・アル・イスラエル航空の制服を着せられた状態でブエノスアイレスの空港に連行された。国境警備隊には、エル・アル航空パイロット「ラファエル・アルノン」の身分証と、彼が現地で事故に遭ったという偽の診断書が提示され、こうしてアイヒマンはアルゼンチン側に気づかれることなく、イスラエル公式使節団とともにイスラエルへと連れ去られた(まるでスパイ映画みたいだぁ……(直喩))。
当然ながら、この誘拐作戦は国際法違反であり、直後にアルゼンチン政府は「これが……合法行為なのぉ? なんか(主権が)侵されてるよぉ!」と国連安保理に提訴している。安保理理事会はアルゼンチンの主張を認めたが、その後アルゼンチン政府とイスラエル政府が交渉を重ねたことにより、2国は幸せなキスをして終了。
その後、アイヒマンはイスラエル国刑法「ナチ及びナチ協力者処罰法」に基づき訴訟(きそ)され、公判はエルサレム地方裁判所特別法廷で1961年4月11日に開始された。
弁護側は、1950年に制定された「ナチ及びナチ協力者処罰法」による起訴は法の不遡及に反し、そもそも大戦中に存在すらしなかったイスラエル国には裁判権自体が存在しないと訴えた。しかし裁判所は、国際法上の普遍的管轄権が優越するとしてこれらの訴えを却下した(そんなこと言ったらニュルンベルク裁判の正当性も揺らぐからね、しょうがないね)。
1961年12月15日、エルサレム地裁はユダヤ人に対する罪・人道に対する罪・通例の戦争犯罪など15の訴因すべてについて有罪とし、アイヒマンに死刑を宣告した。弁護側は再度イスラエルの裁判権や適応法条についての法律論で争い、イスラエル最高裁に上訴した。しかし、最高裁は1962年5月29日に地裁判決を支持して上訴を棄却し、6月1日午前0時過ぎ、アイヒマンはラムラ刑務所において絞首刑を執行された。基本的に死刑制度が存在しないイスラエルにおいて、現在まで法制上の刑死者はアイヒマンを含めて2人のみであり、また判決が撤回されていないのはアイヒマン1人のみである(語録無視)。
アイヒマンの遺体はすぐさま火葬され、その灰はイスラエル海軍が地中海の領海外にバラ撒くぞこの野郎!
かくしてアイヒマンに対する裁きは下ったが、アイヒマン裁判はその後も各方面に対して大きな影響を残した。なかでも裁判で注目されたのは、自身の行為に対するアイヒマンの態度であった。
アイヒマンは自身がホロコーストに加担した事実については弁明せず、それに「遺憾の意」さえ表しながら、その責任については「(総統命令を)聞くっつったのに聞かねぇっておかしいだろそれよぉ!?」と繰り返した。自身はハイドリヒ、ヒムラー、MURや虐殺おじさんの命令に従ったまでである、と衒いもなく述べる小役人さながらのアイヒマンの姿に対し、彼がKMYJYUのように人間性も良心も持ち合わせない怪物だと想像していた人々の考えは裏切られた。
傍聴席からつぶさにアイヒマンを観察していたユダヤ人哲学者ハンナ・アーレントは、1963年2月16日に『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さに関する報告』を発表した。この著作でアーレントは、アイヒマンが怪物ではなくただ命令に従うことを至上とした、結婚記念日には妻に花束を贈るような一市民に過ぎず、時と場合によっては「誰でもそうなるんや」と、人々の心に遍在する「悪の陳腐さ」について警鐘を鳴らした。
このアーレントの主張をアイヒマン擁護と受け取った各界からは凄まじいバッシングが相次いだが、その後『エルサレムのアイヒマン』に着想を得て行われた「ミルグラム実験」や「スタンフォード監獄実験」では、市井の人々がいとも容易く虐待おじさんと化すことを雄弁に物語っている。
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最終更新:2025/12/12(金) 08:00
最終更新:2025/12/12(金) 07:00
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