全国高等学校野球選手権大会とは、阪神甲子園球場にて毎年夏に行われる硬式野球の大会である。主催は朝日新聞社と日本高等学校野球連盟。
(全国高等学校軟式野球大会は、同じ兵庫県の明石公園野球場と高砂市野球場が開催地となる。)
この大会のテレビ中継は夏の代名詞でもあり、開催地の名にちなんで「夏の甲子園」の名で親しまれている。
高校野球における硬式の部の全国大会は、甲子園球場における春の選抜高等学校野球大会(以下、センバツ)と夏の全国高等学校野球選手権大会(以下、選手権大会)、及び国体の3つがある。
その中でも、地方予選から各都道府県でテレビ・ラジオ中継があり、母校・故郷の応援で思い入れも強くなる夏の選手権大会は、最も注目される大会である。
また、有望な選手を秋のドラフトで獲得しようと目論むプロ野球のスカウト達にとっても、この大会は候補を絞り込む、あるいは新たな素材を発掘するための絶好の機会となっている。
テレビ・ラジオ中継は、おもにNHK(全試合完全中継)とテレビ朝日系列局(各道県代表の試合を出場校の地元系列局が放送、決勝戦のみ全国ネットで放送。ただし制作局の朝日放送<近畿圏>はサンテレビ・KBS京都などの独立局と共同で全試合完全中継、BS朝日がそれを受けて全国に生放送、CSのスカイ・Aも録画放送する。またダイジェスト番組「熱闘甲子園」をABCとテレ朝の共同制作で全国ネットで放送)が行っている。近年では地方のケーブルテレビ局も中継していることがある。
1978年の第60回記念大会以降、現在まで例年の大会では南北北海道と東西東京のみが1道2校、1都2校の代表を選出し、他は全て1府県1校である。それ以前は第40回・50回記念大会で全都道府県1校が出場したのを除き、一部地域ではいくつかの県をまとめて地区代表として甲子園に出場することになっていた。
現行の制度では予選出場校数が25校程度の鳥取県と160校を超える予選出場校がある千葉県や大阪府が同じ出場枠1を争う形になっており、出場枠の価値にあまりにもひどい格差が生じている。
1998年に行われた第80回大会は記念大会と位置づけられ、愛知県、神奈川県などの激戦区から二校が出場した。この年に優勝したのが、松坂大輔、小山良男、後藤武敏、小池正晃といった後にプロ球界で活躍した選手たちを擁する横浜高校であった。
2008年の第90回大会も同様に記念大会となり、北海道と東京都のほかに高校数の多い神奈川県、埼玉県、千葉県、愛知県、大阪府、兵庫県から2校ずつ選出されている。2018年の第100回記念大会は福岡県からも2校選出となり、過去最多の56校が出場する事になる。
広域な地域でまとめて出場校を選ぶセンバツとは異なり、地区大会で優勝した高校はほぼ間違いなく選手権大会に出場できる。ただし不祥事を起こした場合は例外であり、過去には高知県代表の明徳義塾高校が地区優勝を果たしたものの出場を辞退し、準優勝に終わった高知高校が出場したケースがある。第90回大会でも群馬県代表の桐生第一高校の野球部で不祥事があったが、出場を取り消し・辞退するまでには至らなかった。ただ、一部の批判などが重圧となって出たのか、1回戦敗退してしまった。
地方大会には、それぞれ地方大会なりの開催地があり、球場は地方によって異なる。
プロ野球の公式戦が組まれている球場や、実際にプロ野球チームが本拠地を置いている球場も開催地に選ばれる。
愛知県大会はナゴヤドームを決勝などの会場にしており、「高校生には豪華すぎる」と揶揄される場合も(2008年以降は使用されず)。最近では大阪府大会で京セラドーム大阪を会場としており、開会式直後の2試合はドームでやることになっている。
東京代表は東東京、西東京とも新宿区の明治神宮球場周辺を開催地としており、決勝は神宮球場、神宮第二球場を使用する場合がある。
兵庫県大会ではかつて阪神甲子園球場を会場に使っていたこともあるが、2004年を最後に甲子園での県大会は行われていない。
地方によっては甲子園球場より広いグラウンド、甲子園球場より高いフェンスの球場で戦わなければいけない。特に東西東京、宮城、広島の代表選出は両翼101mを超える球場が使われている。場所によっても、両翼が100m級(千葉マリンスタジアムなど)が使用される場合があり、俊足ランナーが三塁打を狙える分、長距離ヒッターがホームランを狙えないケースが多い。
後に中日ドラゴンズに入団し、タレントに転向した板東英二。
実は徳島商業時代、高校野球にて偉大な記録を作っている。
1958年、夏の甲子園。秋田商、八女を下して迎えた準々決勝。富山県代表の魚津に延長18回、実に25奪三振を奪うものの、0-0のまま引き分けに終わり、大会初の延長引き分け再試合が適用された。
しかし、再試合でも板東は登板し、魚津を完投勝利で下した。その後も準決勝で作新学院を破ったが、決勝の柳井戦で力尽き、準優勝で終わった。
だが、その時の大会通算奪三振数は83で、これは未だにどの高校のどの投手からも破られていない。
荒木大輔、桑田真澄、松坂大輔、斉藤祐樹、田中将大、菊池雄星ですら記録を破ることはできなかった。
1979年8月16日に行われた最高試合と呼ばれた試合である。
箕島はこの年春の第51回選抜高等学校野球大会で優勝しており史上3校目、公立高校としては初の春夏連覇がかかっていた。戦力も石井毅-嶋田宗彦のバッテリーに箕島自慢の機動力を生かした打線が充実。
対する星稜も、エースの堅田外司昭に音重鎮らの打線が充実していた。この試合に勝利した箕島はそのまま同大会を制覇。その箕島を最も苦しめた星稜はその健闘ぶりが逆照射的に認識されることとなった。
試合が動いたのは4回表星陵の攻撃で一死後、星陵の3番北安博が安打で出て、続く4番の川井のヒットエンドランで一塁走者・北が三塁へ。川井も盗塁で二塁へ。投手の堅田の適時打で星陵が1点を先制。
しかしその裏、箕島の先頭の上野山が安打で出塁。北野の送りバントが失敗するが、上野敬三のヒットエンドランで一塁走者・北野が三塁へ。森川の適時打で箕島が1ー1の同点に追いつく。
試合はもつれ込み延長12回の表、1死後星陵の6番音の安打と四球で走者をためると8番の石黒の2塁ゴロを箕島のセカンド上野山がトンネル、その間に走者が1人生還し2ー1で星陵の勝ち越し。
しかし続く12回裏箕島は簡単に2死、続く1番の嶋田が打席に入る前に尾藤監督に「ホームランを打っていいですか」と言いカウント1ー0から左翼のラッキーゾーンへの同点本塁打で箕島が同点に追いつく。
試合は16回表、1死後死球と投手の堅田の安打で走者を貯めて、その後の打者の投手ゴロで走者の堅田がアウトになるが、星陵の7番山下の適時打で星陵が3ー2で勝ち越し。
しかしその裏箕島は簡単に2死になり打席に入った森川が1塁ファールフライを打ち上げ今度こそ万事休すかと思われた、しかしその年から敷かれた人口芝がグラウンドの土との少しの境が出来て、星陵の1塁手加藤が転倒、無情にも球はファールグラウンドに落ち箕島は命拾いした、再び打席に入った森川はカウント2ー1から左翼スタンドへの起死回生の同点本塁打を放ち箕島は3ー3の同点にする。
そして延長18回の裏、この回で点が入らなければ引き分け再試合となる所で箕島は先頭の辻内が四球で出塁し、1死後4番の北野も四球で出塁、そして5番の上野が適時打を放ち2塁走者の辻内がヘッドスライディングで生還し、箕島のサヨナラ勝ちとなった。
試合時間は3時間50分で試合開始時刻が16時06分で試合終了時刻が19時56分となった。
1982年の夏の甲子園に突如現れた怪物打線。時代を先取りした筋力トレーニングと徹底した打撃練習で1974年に導入された金属バットの特性を最も活かしたチームである。
6戦で85安打を放つなどバントをしない積極的なスイングは「やまびこ打線」と呼ばれ、高校野球に革命をもたらした。
当時「大ちゃん旋風」だった荒木大輔を擁する早稲田実業を準々決勝で14-2と打ち崩し快勝、全国を驚かせる。
決勝では機動力やバントを駆使した緻密な野球を身上とし、高校野球の主流である「広商野球」を作りあげた広島商業を相手に初回6得点と打線が爆発。結局12-2で初優勝を飾った。
翌年1983年春も制し史上4校目の夏春連覇を達成。5試合で34得点2失点という圧倒的な強さで夏も優勝候補筆頭に挙げられる。
しかし、下記に記してある通り準決勝で当時1年生のKKコンビを擁するPL学園に0-7で敗退。史上初の3季連続優勝は幻となった。
また、準優勝した1974年の春の選抜では野球部員が11人しかいなかった時もあり、「さわやかイレブン」とも呼ばれていた。
1983年~1985年まで甲子園を沸かせた桑田真澄と清原和博のコンビ。
桑田はこの3年間で20勝を挙げホームランも清原に次ぐ6本、清原も3年間で40安打、歴代最多の13本のホームランを放っている(成績は春の選抜込み)。
1年の夏では準決勝で夏春夏の3季連続優勝を狙う池田を7-0、決勝では清原のホームランもあり横浜商を3-0で破り優勝、2年の夏は取手二高に延長戦の末4-8で敗れ準優勝だったものの、3年の夏に宇部商を4-3で下し優勝を果たした。
このときのPLは夏3回、春2回の甲子園全てに出場し、
夏優勝2回、準優勝1回
春準優勝1回、ベスト4が1回
というとてつもない成績を残しており、1985年の夏2回戦では東海大山形を相手に毎回得点の29-7というスコアを記録している。
なお、KKコンビが卒業した2年後の1987年には史上4校目の春夏連覇も達成している。
1992年、ラッキーゾーンが撤去され両翼が広くなってから初めての甲子園であるセンバツ第64回大会。
広い両翼と浜風に阻まれ、本塁打が狙えなくなる中、本塁打を連発する球児がいた。
その有り余るパワーから『ゴジラ』とあだ名された星稜高校の主将、松井秀喜である。
松井は今大会の初戦で2打席連続の本塁打を放ち、2回戦目でもまた本塁打を決め、ドラフト会議の有力候補にもなる程に注目の的となっていた。
そして同年の夏の甲子園。
全国制覇を狙いに来ていた星稜は初戦の長岡向陵を11-0で下し、勢いに乗っていた。
この試合を観戦していた明徳義塾の監督である馬淵史郎は、松井の高校生離れしたバッティングを目の当たりにし、星稜と当たる事になった第2回戦のミーティングである指示を下す。
それは「松井と勝負をせず、5番、6番打者と勝負する」という策だった。
そして迎えた8月16日の星稜対明徳義塾。
馬淵監督の指示通り、明徳義塾のエース河野は1回表の松井の第一打席を敬遠する。
しかも、故意四球と感づかれないようにキャッチャーを座らせたまま四球を投げるという徹底ぶりだった。
3回表の第二打席も同じく敬遠。が、観客は感づいたのかこの時から河野が1球を投げるごとにスタンドがどよめくようになる。
5回表、1死1塁で迎えた松井の第三打席。
「1塁にランナーが居る状態で敬遠は流石にないだろう」
球場の観客は誰もがそう思っていた。
だが、またしても河野は松井を敬遠。疑念は確信へと変わった。
3-2と明徳義塾1点リードの7回表の第4打席。
観客席からは「勝負!勝負!」の怒号が響く中、またもや河野は松井を敬遠。
この時、星稜側はおろか、明徳義塾側の応援席からも「土佐っ子なら正々堂々と勝負しろ!」という野次まで飛んでいた。しかし、明徳義塾はこの策を変えることはなかった。
9回表の松井の第5打席も当然のごとく敬遠。
…が、観客の怒りは頂点に達し、堰を切ったように野次と怒号に包まれるという、高校野球では史上まれに見る異様な雰囲気となった。
しかも、星稜側のスタンドからはメガホン等の応援用具が次々投げ込まれ、明徳義塾側からもナインに向かい「帰れ!」「殺すぞ!」という怒号が飛び交う始末になってしまった。
これを危険と見た審判はタイムを掛け、ボールボーイや星稜の控え選手たちが投げ込まれた物を片付けに走った。松井はこの風景を1塁で憮然と見ていた。
その後、松井が2盗を決めチャンスゾーンにランナーを進めるものの、次打者の月岩は凡退。
1点差を逃げ切り、明徳義塾の勝利となったが、明徳義塾の校歌斉唱時にもブーイングが止まず、負けた方の星稜に盛大な拍手が贈られるという異常な事態となってしまっていた。
この出来事をきっかけに明徳義塾には「悪者」のイメージが付いてしまい、イメージの払拭に四苦八苦し、世間では高校野球における敬遠や勝利至上主義に対する議論が湧き起こった。
余談だがあの試合から21年後、テレビ番組の企画として、河野対松井の「幻の第6打席」が実現した。
結果はあの時とは違い、河野がフルカウントを全力で投げ切っての四球に終わった。
勝負の後、両者は笑顔で握手を交わす。あの時のわだかまりは完全に消え去っていた。
1996年、夏の甲子園第78回決勝戦。古豪同士の決勝で起こった「奇跡」である。
熊本工業(熊工)は、かの川上哲治や前田智徳などを輩出した野球の名門高校であり、春夏合わせて40回以上出ている。
松山商業(松商)は、野球殿堂を数多く輩出し、大正~平成のすべての元号で優勝している唯一の高校。特に夏に強いことから夏将軍と呼ばれている。
ともに走攻守申し分なく強く、ここまで勝ち上がってきたが、前評判では松商有利の展開になるだろうといわれていた。
その通り最初は松商が1回表で一気に3得点を挙げて有利に立ったが、熊工がじわじわと攻めて、9回裏には熊工6番澤村が同点HRを放ち、最終的には延長戦へと入り込む。
そして10回裏で松商が1アウトの状態で満塁策をとり、熊工3番本多の打席。ここで松商監督、澤田が動く。右翼の新田と矢野を交代させた。
この交代した矢野勝嗣は、強肩でまじめで練習を数多くしている生徒であったが、暴投が多く、よく監督やクラスメートから怒られていた。
いざ試合が再開し1球目、本多は甘く入ったスライダーを振り抜き、ボールは右翼側に大きく飛んで行った。確実にHRの弾道であったが、浜風に強く戻される(実況アナもそう語っている)。ちょうどそこにいた矢野がフライになったその球をキャッチすると、3塁にいた星子がタッチアップをする。誰もが熊工の勝利で終わると思っていた。
しかし矢野の中継なしでキャッチャーに投げたボールは、暴投気味であったが、浜風に乗って加速し、ちょうどキャッチャーのミットに入る。そのミットに星子のヘルメットが当たりアウトとなる。結果的にダブルプレーとなった。
試合は終わらなかったのである。
まるで漫画のような展開である
星子は信じられないような表情を浮かべホームベースに倒れこみ、犠牲フライを確信し一塁手前でバンザイをしていた本多は、そのまま呆然と立ち尽くした。なぜあの深い位置からの返球でアウトになったのかと、球場は興奮とどよめきにしばらく包まれた。そして熊工側の観客は悲鳴を上げ、松商側の観客と松山市内の街で中継を見ていた人間は歓声を上げていた。
そのあと奇跡のバックホームを見せた矢野は二塁打を放つなど大活躍。結果【松商6-3熊工】という松商の優勝という形で幕を終えた。
この奇跡のバックホームはいまだに白球の記憶では毎年放送されている。なお、主人公の矢野は現在愛媛朝日テレビのスポーツキャスターとなり、愛媛のニュース番組の顔となっている。星子は現在地元の熊本でスポーツバー「たっちあっぷ」を経営しており、店には当時着ていたユニフォーム、そして矢野のユニフォームが飾られている。
1998年夏の甲子園第80回を数える記念大会に際し、エース松坂大輔を筆頭に小池正晃、後藤武敏、小山良男と錚々たる面子を擁し史上5校目の春夏連覇を狙う神奈川県横浜高校。
しかし、眼前には一筋縄ではいかない強敵が待ち受けていた。
所謂「松坂世代」の猛者たちである。
杉内俊哉(鹿児島実業)
新垣渚(沖縄水産)
東出輝裕(敦賀気比)
森本稀哲(帝京)
村田修一(東福岡)
といった(挙げればキリがないが)後にプロで輝かしい活躍をする選手が揃っていた。
数々の強豪校を打ち破り、決勝ではノーヒットノーラン(!)をやってのけた松坂をして人々は
"平成の怪物"
と呼んだのである。以下、特筆すべき試合を挙げる。
・PL学園対横浜
上重聡(現日本テレビアナウンサー)擁するPL学園と横浜高校の死闘。
春の甲子園では2-3で敗れた雪辱を誓うPL学園は、序盤から松坂を攻めたて3-0とするが、
そこは王者横浜、5回表には同点に追いつく。その後は両者一歩も譲らず一進一退の攻防となる。
(上重は7回からの登板)
そして運命の延長17回、横浜・常盤の2ランホームランにて勝負有り。
松坂は17回、250球を1人で投げ切った。
「ハンカチ王子」として人気が出た斎藤佑樹と現・東北楽天ゴールデンイーグルスの「マーくん」こと田中将大(第1戦は途中出場)の24イニングに及ぶ激闘の決勝戦。
2006年夏の甲子園決勝、第1回大会からの出場校である名門早稲田実業と73年ぶりの夏3連覇を狙う王者駒大苫小牧、運命の対決は、投手戦となった。駒大苫小牧は2年生の菊地が先発だったが、3回裏にチャンスを作られ、すぐさま田中に交代する。
試合は8回表に駒大苫小牧が三木のホームランで先制。しかし、裏に早稲田実業が1アウトから三塁ランナーをホームに生還させ、1-1の同点となる。
試合はそのまま点が入らず延長へ。結果、決着がつかずに1-1のまま引き分け再試合となった。これは1969年以来の決勝引き分け再試合であった。
第2戦。駒大苫小牧は前日と同じ菊地が再び先発するも、1回に即田中へリリーフ。早稲田実業は斎藤が先発した。
試合は1回、2回と1点ずつ積み上げ、2-0で早稲田実業がリード。しかし、6回に駒大苫小牧が三谷のソロホームランで1点を返し、2-1となる。
その後、すぐさま早稲田実業は追加点をあげ、3-1と再び2点差。さらに7回裏に1点追加で4-1と突き放す。
9回表、駒大苫小牧は中沢が2ランホームランを打って1点差とする。2アウト・一打同点の場面で打席は田中。投手斎藤との対決の結果、斎藤は三振を奪い、早稲田実業が4-3で優勝を成し遂げた。駒大苫小牧は3連覇を逃す。
2007年、2001年以来6年ぶり2回目の出場を果たした佐賀北高校。
開幕初戦で福井商業を4-1で倒し、2回戦に駒を進める。
しかし、2回戦の宇治山田商業戦では5回に現・読売ジャイアンツの中井大介らに一挙4点を一気にとられ、2-4と不利なスコアとなってしまう。
だが、6回、7回に1点ずつ奪って4-4と同点に。試合はそのまま延長へ。
佐賀北は再三チャンスを掴むも、結果、凡退などで延長15回引き分け再試合となった。
しかし、2日後に組まれた第2戦では打線が爆発し、先制はされたものの、6回に3点、7回に4点をとるなどして9-1で宇治山田に勝利。
3回戦は前橋商業を相手に5-2で勝利し、2003年の鳥栖商業以来の県勢ベスト8となった。
準々決勝の相手は東東京の名門・帝京高校。試合は3-3のまま延長になったが、延長13回にサヨナラで帝京を相手に大金星。
準決勝では長崎日大戦で隣県対決となり、急遽長崎、佐賀でラジオ局を展開する長崎放送がABCラジオから放送権を獲得し、放送する。試合は佐賀北が完封ペースで3-0で勝利し、佐賀商業以来13年ぶりの決勝進出となった。
決勝の対戦相手は春の選抜では優勝経験があるが、夏での初優勝を目指す広陵高校。エースの野村祐輔を擁した強豪チームであった。1回戦では前年現・楽天ゴールデンイーグルスの田中将大選手を率いて未曽有の夏三連覇に挑んで準優勝に終わった駒大苫小牧を僅差で下し、準決勝で春の選抜優勝の常葉菊川を退け、決勝進出していた。
前評判でも圧倒的に広陵高校が優勢で、実際の決勝戦でも野村祐輔は佐賀北打線を5ヒット2ケタ三振を記録した。
試合は2回に先発馬場が2点を取られ、通常抑えで出てくるはずのエース久保が登板。今大会で無失点イニングを続けていたが、遂に7回、2点を取られ、無失点イニング記録が34回1/3(地方大会から数えると佐賀大会2回戦から51回)でストップ。
試合は4-0と不利になるが、8回裏に奇跡が起こる。マウンドで奮闘していた久保と代打新川が連続ヒットで出塁し、1番辻、2番井出の連続四球で押し出し、なおも満塁で3番副島が左中間スタンドに入る満塁ホームランで逆転。
決勝戦での満塁ホームランは1994年の決勝で同じ佐賀県代表の佐賀商西原が打って以来という出来事だった。
その後、9回表広陵の反撃を久保が踏ん張り、見事に5-4で勝利し、佐賀商以来13年ぶりの県勢優勝を果たした。
2009年、決勝。
試合が始まる前、下馬評は圧倒的に中京大中京が優位で、日本文理は何点とられるんだろうという憶測まで飛び出すほどだった。
特に、3番河合、4番堂林翔太、5番磯村のクリーンナップは強力であり、投手もエース堂林と2番手森本が準決勝まで見事に抑えてきた。
日本文理も、伊藤というエースがいながらも、「勢いだけ」だとか「クジ運」などのバッシングがあった。
先制したのは中京大中京だが、すぐに日本文理も追いつき、好試合になるかと思われた。
しかし、中盤の1イニング6得点で、完全に中京大中京の勝利は決まったと思われた。
9回表、ツーアウト、ランナー無し。ツーストライク。中京10-4文理。
そこから日本文理の猛攻が始まる。選手一人一人に「自分で終わりたくない」という思いがあったのではないだろうか。
猛攻をつみかさねるが、三塁ベンチ前にファールフライを打ち上げてしまう・・・が!
なんと捕手・磯村と三塁手・河合が二人とも見失い、普通ならアウトになるはずの打球がファールになる。下記の魔物の登場だと騒ぎ立てられた。
そして猛攻はつづき、中京10-9文理と一点差に追い上げる。なおもランナー、一三塁。
サード方向への強いあたりが出るが、河合の真正面。
試合は、日本文理が強烈な印象を残して終わった。
ちなみに、日本文理がニコニコしていたのに対し、優勝した中京大中京の選手は号泣していた。
それまで順調に流れていた試合のペースが、一つのミス、一つの幸運によって一気にひっくり返るケースが大会期間中に数回はあり、以前から「甲子園には魔物が棲む」と称されてきた。某掲示板で「マモノ」というAAが作成されたことにより、ここ数年は実況スレなどで「さて、そろそろ出番だな」という台詞と共に、波乱の展開に向けた準備を始めるマモノの姿が見受けられる。
このAAについての詳細は「甲子園のマモノ」の記事を参照。
2007年の決勝戦8回裏には、ストライク・ボールに関わる誤審疑惑もあった判定の直後に、佐賀北高校の副島浩史選手の逆転満塁ホームランが飛び出している。試合は、この回に5点を入れた佐賀北高校が5-4で制している。
マモノじゃ!マモノのしわざじゃ!
近畿広域圏(関西地方)ではテレビ朝日系列局の朝日放送が、毎年全試合を地元独立局のサンテレビ・KBS京都・奈良テレビ・びわこ放送らと共同でほぼ完全に中継している。そのため、通常その時間帯に放送されている番組は休止される。しかし全ての番組が別の時間に振り替え放送されるわけではないので、朝日放送圏内の人間は該当する番組・該当する回を視聴できないといった事態が発生している。
また放送が遅れるため他地区民からネタバレされる仮面ライダーとプリキュアの視聴者からは恨みを買い続けている(中継開始は午前8時なのでスーパー戦隊シリーズは通常通り放送される)。2017年10月改編でニュース情報番組『サタデーLIVE!!』開始に伴いスーパーヒーロータイムが9時台に移動するため、2018年からはスーパー戦隊シリーズもこの影響を受ける見込みである。
第1回・1915年:京都第二中(現 府立鳥羽高校)(京都)
第2回・1916年:慶応義塾普通部(現 慶応義塾高校)(東京) ※敗者復活制度導入
第3回・1917年:愛知第一中(現 県立旭丘高校)(愛知) ※敗者復活からの優勝
第4回・1918年:各地の代表校は決定していたが、米騒動により中止。
第5回・1919年:神戸第一中(現 県立神戸高校)(兵庫) ※敗者復活制度廃止
第6回・1920年:関西学院中(現 関西学院高校)(兵庫)
第7回・1921年:和歌山中(現 県立桐蔭高校)(和歌山)
第8回・1922年:和歌山中(和歌山) ※大会史上初の二連覇
第9回・1923年:甲陽中(現 甲陽学院高校)(兵庫)
第10回・1924年:広島商業(現 県立広島商業高校)(広島) ※この年から甲子園球場での開催となる。
第11回・1925年:高松商業(現 県立高松商業高校)(香川)
第12回:1926年:静岡中(現 県立静岡高校)(静岡)
第13回・1927年:高松商業(香川)
第14回・1928年:松本商業(現 松商学園高校)(長野)
第15回・1929年:広島商業(広島)
第16回・1930年:広島商業(広島)
第17回・1931年:中京商業(現 中京大学付属中京高校)(愛知)
第18回・1932年:中京商業(愛知)
第19回・1933年:中京商業(愛知) ※唯一の大会三連覇
第20回・1934年:呉港中(現 呉港高校)(広島)
第21回・1935年:松山商業(現 県立松山商業高校)(愛媛)
第22回・1936年:岐阜商業(現 県立岐阜商業高校)(岐阜)
第23回・1937年:中京商業(愛知)
第24回・1938年:平安中(現 龍谷大学付属平安高校)(京都)
第25回・1939年:海草中(現 県立向陽高校)(和歌山)
第26回・1940年:海草中(和歌山)
第27回・1941年:第二次世界大戦の影響で中止。以降1945年まで中止。
第28回・1946年:浪華商業(現 大阪体育大学付属浪商高校)(大阪)
第29回・1947年:小倉中(現 県立小倉高校)(福岡)
第30回・1948年:県立小倉高校(福岡) ※学校名を変更しているが、大会二連覇
第31回・1949年:県立湘南高校(神奈川)
第32回・1950年:県立松山東高校(愛媛)
第33回・1951年:平安高校(京都)
第34回・1952年:県立芦屋高校(兵庫)
第35回・1953年:県立松山商業高校(愛媛)
第36回・1954年:中京商業高校(愛知)
第37回・1955年:県立四日市高校(三重)
第38回・1956年:平安高校(京都)
第39回・1957年:県立広島商業高校(広島)
第40回・1958年:県立柳井高校(山口) ※記念大会により47校(46都道府県代表とアメリカ占領下の沖縄代表)
第41回・1959年:県立西条高校(愛媛) ※この年から北海道が南北海道と北北海道に分割。
第42回・1960年:法政大学第二高校(神奈川)
第43回・1961年:浪商高校(大阪)
第44回・1962年:作新学院高校(栃木)
第45回・1963年:明星高校(大阪) ※記念大会により48校(45都府県・南北北海道・沖縄)出場
第46回・1964年:高知高校(高知)
第47回・1965年:県立三池工業高校(兵庫) ※監督は現巨人監督原辰徳の父、原貢
第48回・1966年:中京商業高校(愛知)
第49回・1967年:市立習志野高校(千葉)
第50回・1968年:興國高校(大阪) ※記念大会により48校出場
第51回・1969年:県立松山商業高校(愛媛) ※延長18回引き分け再試合
第52回・1970年:東海大学付属相模高校(神奈川)
第53回・1971年:桐蔭学園高校(神奈川)
第54回・1972年:県立津久見高校(大分)
第55回・1973年:県立広島商業高校(広島) ※記念大会により48校出場
第56回・1974年:県立銚子商業高校(千葉) ※この年から金属バットの解禁、東京が西東京と東東京に分割。
第57回・1975年:市立習志野高校(千葉) ※優勝投手は現ヤクルト監督の小川淳司
第58回・1976年:桜美林高校(西東京)
第59回・1977年:東洋大学付属姫路高校(兵庫) ※延長10回のサヨナラホームランで優勝決定
第60回・1978年:PL学園高校(大阪) ※記念大会により49校出場(45府県・北海道と東京が各2校)
第61回・1979年:県立箕島高校(和歌山) ※一県一代表制に移行(平年でも49校出場)
第62回・1980年:横浜高校(神奈川)
第63回・1981年:報徳学園高校(兵庫)
第64回・1982年:県立池田高校(徳島)
第65回・1983年:PL学園高校(大阪) ※当時1年の桑田真澄が優勝投手となった。
第66回・1984年:県立取手第二高校(茨城)
第67回・1985年:PL学園高校(大阪)
第68回・1986年:天理高校(奈良)
第69回・1987年:PL学園高校(大阪)
第70回・1988年:県立広島商業高校(広島)
第71回・1989年:帝京高校(東東京)
第72回・1990年:天理高校(奈良)
第73回・1991年:大阪桐蔭高校(大阪) ※初出場初優勝
第74回・1992年:西日本短期大学附属高校(福岡)
第75回・1993年:育英高校(兵庫)
第76回・1994年:県立佐賀商業高校(佐賀)
第77回・1995年:帝京高校(東東京)
第78回・1996年:県立松山商業高校(愛媛)
第79回・1997年:智辯学園和歌山高校(和歌山)
第80回・1998年:横浜高校(東神奈川) ※記念大会により55校出場
第81回・1999年:桐生第一高校(群馬)
第82回・2000年:智辯学園和歌山高校(和歌山)
第83回・2001年:日本大学第三高校(西東京)
第84回・2002年:明徳義塾高校(高知)
第85回・2003年:常総学院高校(茨城)
第86回・2004年:駒澤大学附属苫小牧高校(南北海道) ※北海道勢初優勝
第87回・2005年:駒澤大学附属苫小牧高校(南北海道)
第88回・2006年:早稲田実業学校高等部(西東京)
第89回・2007年:県立佐賀北高校(佐賀)
第90回・2008年:大阪桐蔭高校(北大阪) ※記念大会により55校出場
第91回・2009年:中京大学附属中京高校(愛知)
第92回・2010年:興南高校(沖縄) ※沖縄県勢初優勝
第93回・2011年:日本大学第三高校(西東京)
第94回・2012年:大阪桐蔭高校(大阪)
第95回・2013年:前橋育英高校(群馬) ※初出場初優勝
第96回・2014年:大阪桐蔭高校(大阪)
第97回・2015年:東海大学付属相模高校(神奈川)
第98回・2016年:作新学院高校(栃木)※54年ぶり2回目の優勝
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最終更新:2025/12/11(木) 10:00
最終更新:2025/12/11(木) 09:00
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