「大内義長」(おおうち・よしなが 1532? ~ 1557)とは、戦国大名・大内氏の(事実上)最後の当主である。初名は大友晴英。
戦国時代に西国にて一大勢力を誇った大友氏・大内氏に跨るリア充な御曹司に見えて、実際は運命の歯車にもて遊ばれ、もがき苦しみ、翻弄されながら、人生の坂道を音速で転がり落ちる生涯を送った悲運の武将であり、数々の不幸伝説に彩られた人物である。
周防国・長門国に一大勢力を築いた大内氏の当主・大内義隆の猶子に迎え入れられたものの、義隆に実子が生まれると縁組を解消される。その後、大内氏の重臣・陶晴賢が謀反を起こす際(大寧寺の変)、彼の要望と本人の強い意志から再度大内家に入ったが、あくまで傀儡の当主であり、厳島合戦で晴賢が毛利元就に敗死した後は、大内家の衰退を止めることが出来ずに自刃して果てた。
「信長の野望」シリーズでは近年の低能力なイケメンぶりで「顔だけまともな人」「家宝が本体」と言われる残念さに定評がある。
北九州の一大勢力・大友義鑑の子に生まれる。兄は大友宗麟。母は大内義隆の姉。はじめは、室町幕府12代将軍・足利義晴から一字をもらい「大友晴英(おおとも・はるひで)」と名のる。
西国二大勢力にまたがる人物として何不自由ない人生を送れたかもしれない大内義長(晴英)だったが、戦国時代の波は玄界灘の荒波以上に荒かった……。
中国地方の最大勢力であった大内義隆には、土佐のヒーロー・一条兼定を生み出した一条家から養嗣子に迎えた大内晴持がいたが、尼子氏との戦いで溺死してしまう。名門に跡継ぎがいないのは困るということで、姉の子である大友晴英を猶子にもらうことにした。
既にこの段階で大友晴英・後の大内義長の不幸が始まっていた……。
晴持が養嗣子、つまり後継者の地位が保障されていたのに対して、大友晴英はあくまで猶子(相続対象ではない、形式的な親子関係)。つまり大内義隆に男子が出来ればその男子が跡継ぎとなり、晴英は「いらない子」扱いされる条件だった。実際に大内義隆に実子・大内義尊が生まれると、速攻で実家の大友家に送り返されている。
大内義長哀れ……。
大友晴英は大内家に猶子に入った際に大友家の後継者から外されてしまったらしく、大友家に送りかえされた後、父・大友義鑑は晴英の存在も無視して、溺愛する三男(塩市丸)に跡を継がせようとした。
しかし、大友家の後継者争いは「二階崩れの変」となり、父と弟が死んで兄・大友義鎮(後の宗麟)が大友家を継ぐことになった。
まぁ順番的には長男が継いだことにはなったが、候補からはずされた大内義長哀れ……。
その後、尼子氏との戦いに敗れてから当主としての求心力を急激になくしていた大内義隆に対して、謀反を考えた陶隆房(後の晴賢)より、ダメ人間化した義隆に代わる新たな大内家当主として大友晴英を据える事を名目に、再度大内家に迎え入れたいとの要望が大友義鎮の元に届く。謀反が成功して隆房の勢力が磐石になれば不要な存在として処断される可能性も考えた義鎮だったが結局 「この要請を断り中傷を受ける事の方が悔しいので、命は惜しくない」 という晴英の空気の読めない主張を受け入れる。
陶隆房により大内義隆が殺されると、大内家へと入り、名も大友晴英から大内義長に改めた。陶隆房も晴英の一字を拝領して陶晴賢と改名している。大内家当主から一字拝領するのは陶家代々の伝統だが、基本的に下の一字を貰うもの。上の一字を貰っている時点で義長の立場はお察しである。
所詮は陶晴賢の操り人形。勘合貿易の再開の為に当時の中国「明」へと使者を派遣するも、明からは正統な後継者と認められなかった。
外国にまで「いらない子」扱い……大内義長哀れ……。
そして運命はさらに急転する。謀反による当主交代劇からわずか4年後、陶晴賢が厳島の戦いで毛利元就に敗死する。
先の晴賢の謀反時に忠義に篤い家臣が大内義隆と運命を共にしていた事や、厳島の戦い以前から行われてきた毛利元就の調略によって家中がズタボロになっていた事、そして所詮大内義長は養子であり(しかも出戻り)、皆が認める晴賢の傀儡という認識であった為か、家中は崩壊。大内家は急速に勢力を衰退させていき、毛利家の侵攻によって次々と城を放棄していった。
功臣の多くが謀反や讒言、家中の騒動によって死んでいく中で、残った忠臣・内藤隆世の尽力もあって、毛利の猛攻に対抗し続けていた大内義長だったが、遂に勝山城を包囲されるに至り、義長助命を条件に内藤隆世が自刃して果て降伏・開城、義長は長福院に移った。
この時、毛利元就は、大内義長の兄・大友宗麟に対して、大内義長の助命を提案したものの、大友宗麟は毛利元就が先に手に入れていた大内氏の家宝「大内筒(大内瓢箪茶入)」を所望した為、兄からも「いらない子」扱いされた大内義長は、自分の命の為に腹を切った内藤隆世の後を追うように、毛利家からの自刃の要求に応えて潔く切腹して果て、栄華を誇った大内家は滅亡した。
茶入より軽い命だったとは……大内義長哀れ……
誘ふとて 何か恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ
自分の人生がこうして終わるといっても何を恨むものだろうか。
嵐が来なかったとしても、時がくればいずれ花は散るものなのだ。
大内義長の墓のある長福院はその後「功山寺」に名を改めた。
そして幕末・・・
長州藩の危機に立ち上がった高杉晋作が決起した場所こそ、大内義長の眠る功山寺であった。
※その他「大内義長」の詳細についてはWikipediaの該当項目参照の事。
▼「信長の野望 革新PK 地方別武将ランキング」中国編にて赤松晴政を抜きさってワースト1位に輝いた(泣)
※でも、肝付兼亮や一条兼定の倍の能力なんだよ(泣)
▼主要キャラの一人として出演している「ダメ君主の野望」、戦国のピザデブこと北畠具房とコンビを組むことが多い。
「信長の野望」(PC)シリーズにおける大内義長(大友晴英)の能力一覧。
シリーズが進むにつれて能力の劣化が顕著に。
家宝システム登場以降は、「大内筒」のオプションと化し、首を切られる事も多くなった。
※大内筒(オオウチヅツ):「青磁筒花生 銘 大内筒」
南宋の官窯でつくられたと言われる青磁の花生けで、足利義政が所有した「東山御物」の一つが大内家に伝わったもの。現在は重要文化財として根津美術館に所蔵されている。
| 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
| 戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
| 武将風雲録(S1) | 戦闘 | 36 | 政治 | 43 | 魅力 | 68 | 野望 | 42 | 教養 | 79 | ||||
| 覇王伝 | 采配 | 63 | 戦闘 | 22 | 智謀 | 9 | 政治 | 43 | 野望 | 42 | ||||
| 天翔記 | 戦才 | 60(C) | 智才 | 46(C) | 政才 | 106(B) | 魅力 | 74 | 野望 | 43 | ||||
| 将星録 | 戦闘 | 35 | 智謀 | 24 | 政治 | 49 | ||||||||
| 烈風伝 | 采配 | 43 | 戦闘 | 30 | 智謀 | 16 | 政治 | 49 | ||||||
| 嵐世記 | 采配 | 21 | 智謀 | 8 | 政治 | 35 | 野望 | 29 | ||||||
| 蒼天録 | 統率 | 18 | 知略 | 11 | 政治 | 35 | ||||||||
| 天下創世 | 統率 | 18 | 知略 | 10 | 政治 | 32 | 教養 | 63 | ||||||
| 革新 | 統率 | 22 | 武勇 | 20 | 知略 | 12 | 政治 | 36 | ||||||
| 天道 | 統率 | 22 | 武勇 | 20 | 知略 | 12 | 政治 | 36 | ||||||
| 創造 | 統率 | 28 | 武勇 | 35 | 知略 | 22 | 政治 | 42 | ||||||
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最終更新:2025/12/11(木) 16:00
最終更新:2025/12/11(木) 15:00
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